現代版「リア王」を観劇
北九州芸術劇場にて「リア王」を観劇(2026/6/19)。一流の役者陣(吉田剛太郎・藤原竜也・石原さとみ他)による最先端の舞台(演出:長塚圭史)。「リア王」の筋書きは良く知られている。自分もおぼろげながらストーリーは知っている。現代社会において「リア王」を観る?何故に?悲劇を観て暗い気分になりたいのか?何故に新幹線に乗ってまでこの作品を観に行くのか?自分でもよく判らないままチケットをとり仕事を休んで(今回の公演は昼間)出かけた。
リア王はシェイクスピアの創作ではない。ブリテンの伝承上の王である。伝承でリア王は正直者3女コーディリアを追放:後に長女ゴネリル・次女リーガンに裏切られる。コーディリアがフランス軍を率いて帰国し父を救出。リア王は王位を回復:平和に統治した後に死去。コーディリアが王位を継承するという「勧善懲悪」の説教物語だった。シェイクスピアはこれを大胆に改変する。フランス軍は敗北し、コーディリアは処刑される。リア王は絶望して死ぬ。王家は壊滅状態に陥る悲劇にした。シェイクスピアの天才はこれに止まらない。グロスター伯と二人の息子の物語を加えて「対にして演じられるもの」とした。何故なのか?王家が「親と3人娘の物語」であるのに対してグロスター伯家は「親と2人息子の物語」かつ息子のうち1人は庶子という位置づけ。極めつけはその庶子エドマンドと王家の長女・次女を「性三角関係」にしたこと。恐るべき演劇的アクロバット。だから今も観るに値する悲劇になるのだ。では何故わざわざ「悲劇」を観にいくのだろうか?
安田雅弘「魅せる自分の作り方」(講談社選書メチエ)に次の記述がある。
私たちは長い人類史のほんの一部分でしかない。現存する何十億という人類のたった1人に過ぎない。宇宙という深遠な大河では1滴にも満たない。時々こうした視点を持たないと人間は思い上がる。思い上がって紛争を起こし、環境を破壊する。そのために「悲劇」に触れることが必要なのだ。2500年前ギリシャ人はそう考えた。(略)驚いたことにその思い上がりを戒める必要があることを彼らは知っていた。そこで年1度悲劇を観るため市民が劇場に集まることを義務にした。デイオニューシア祭と呼ばれる演劇祭だ。出演者や経費は金持ちが順送りで負担したと言われている。市民はふだん怠けている自分たちの代わりに「人生」や「人間存在」や「人類の運命」について考え続けてくれる演劇人を大切にしたのだ。
私たち一般市民は怠けている。「人生」や「人間存在」や「人類の運命」を考えることなんて全くしていない。でも重たい問題を時には考えないと人生はあっというまに過ぎ去ってしまう。自分が長い人類史の「ほんの一瞬」でしかないとしても・現存する何十億という人類のたった1人に過ぎないとしても・宇宙という深遠な大河では1滴にも満たない存在だとしても「自分にとっては自分の人生しか無い」。この実存的真理を確かめるために私は演劇人に教えを乞うため劇場に向かう。
長塚圭史さんの演出は素晴らしかった。長い物語をシンプルな舞台で手際よく進行させた。演出の核は従来「悪役」とされた者たちの言い分を真摯に受け止め「現代に通じる主張」として観客に提示することだと感じられた(シェイクスピア版「ヴィランの言い分」)。「この劇の魅力は過去に固執する人間と次の時代に進もうとする人間の『世代交代の物語』であること・長女は家父長制の強い古い慣習の中にあって男性優位の社会に異議を唱え『女性にも権利がある』という新しい発想を持っている・『実力があれば女性だって前に出て良いじゃないか』というゴネリルにリーガンもしたたかに乗ってきます」(長塚圭史)。なるほど、こういう読み方をすれば人類普遍の問題を身近な問題として感じられる。一流演出家は凄い。癖の強い登場人物を演じる役者さんたちも凄い。「自分の思い通りにならないと突然怒る奴って本当にいるんですよ・大抵は権力を持っている上に老齢も加わり絶対側にいて欲しくないタイプです」(吉田剛太郎)「共感してもらえるところをみつけてヒールにならざるを得ない状況に陥っていく過程を表現できればと思います・一度権力や立場を手に入れると自分の格を落とせないもので、その点も今に通じる真理だと思います」(松岡依都美)「私生児として生まれ不当に扱われてきたエドマンドの生まれ持った悲しみや劣等感、悔しさは常に持っていたいです」(矢崎広)。「道化」に関しては次の指摘が秀逸。「道化は人間社会を斜めから見て滑稽な言葉で鋭い批判をする者である。それが消えることで人間と社会を客観視する存在が無くなり狂気と愚かさ・むきだしの欲望が横行することになってゆく」(評者:冬木ひろみ)。正直者:コーディリアの行動も(現代に置換して考えると)大事な場面で儀礼に従った「大人の態度」が示せないことに違和感がある。多少齢を重ねれば「社交辞令的な言葉が社会生活を続けるうえで結構大事な意味を持っている」ことは否応なく知らされる。それが出来ない。相手の感情を考えることなく「自分の考える真理を表明することを正直と思う」彼女には問題がある。リア王の「老い」が悲劇の根底にあるけれどコーディリアの「幼さ」(大人度の低さ)も悲劇を招いている。この観点でいえば長女次女およびエドマンドは政治(性事)に長けた「大人」である(女性2人はエドマンドの若さ・野心・能力に魅かれエドマンドは女性2人の地位と金に魅かれている)。しかし、この3人は大人度が高すぎて(はっきり言えば「汚れ方」が酷すぎて)別の意味で不幸を招いている。生きてゆくのは難しい。
私は64歳になり「人生の終わり」が少し見え始めた。その自分に「老いとは何か」「世代交代とは何か」「大人とは何か」を真摯に語り掛けてくれる素晴らしい舞台でした。感謝。

