法律コラム Vol.152

意思能力判断の医学的要素

高齢者の意思能力判断に関しvol8(2007/4/16)で論じました。この論点で答弁書を書いた事案があるので紹介します。

1 介護保険書類の作成時期
  本件における意思能力は「届出書作成時の能力の有無」を検討するものであるから届出書作成から相当の時間が経過した時期に作成された介護保険書類は意思能力を判断する要素として証拠価値が乏しい。意思能力は「遡及的に判断されるものではない」からである。届出書作成時における意思能力の有無を検討するには「近接した日時に作成された書類」を確認する必要がある。
2 本件介護保険書類の記載内容
  以上を前提にして届出に近接した日時に作成された介護保険書類を読み込んでみる。
 ①ⅰ 平成*年*月*日
   認知機能・精神行動障害ともに問題なし。
  ⅱ 平成*年*月*日
   自立性・中核症状とも問題なし。
 ②ⅰ 平成*年*月*日
   情緒は安定。物忘れ・独語などが見受けられる程度。
  ⅱ 平成*年*月*日
   日常的認知能力に若干低下を認める程度。意思伝達能力は問題がない。
3 認知症とせん妄の区別
 認知症とは、正常に発達した記憶・学習・判断・計画といった脳の知的機能(認知機能)が「後天的な脳の器質的障害によって」持続性に低下し日常生活に支障をきたす状態をいう。多くは加齢による脳の病的な変化に由来するもので「脳実質の変性によって起る変性性認知症」と「脳血管の障害によって起こる脳血管性認知症」の2種類がある。変性性認知症の代表的なものがアルツハイマー型認知症であり認知症全体の約半数を占める(アルツハイマー型認知症患者には脳、特に認知機能を司る海馬に顕著な萎縮が見られる)。他方、脳血管性認知症は脳梗塞や脳出血により発症する。
 代表的な認知機能検査として改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)がある。30点満点中20点以下で認知機能低下(認知症疑い)と判断する。20点を超える場合に認知症という評価をすることは通常はない。重度の認知症は10点以下で、20点に近い場合は認知症といっても程度は「極めて軽症」である。意思能力評価は実質的な認知障害の「程度」こそ重要なのである。
 認知症と間違えられやすい状態に「うつ病による仮性認知症」と「せん妄」がある。本件で問題となるのは後者である。「せん妄」は軽度ないし中等度の意識混濁が基底にあり、認知の障害・精神運動活動の変化を象徴とする「急性の器質性精神症候群」である。急性発症して日内変動を示し数日ないし1週間くらいで消滅する。病態生理に定説はないが、脳内の特に大脳皮質・辺縁系・上部脳幹の認知・記憶・情動・睡眠覚醒リズムなどに深く関係する部分における代謝・神経伝達系(アセチルコリン・ノルアドレナリン・ドパミン・セロトニンなど)の異常が推定されている。せん妄は脳疾患や全身疾患・外因性物質などによって出現する軽度の意識障害であり、睡眠障害や興奮・幻覚などが加わった状態をいう。高齢者は「薬剤の不適合」により引き起こされる場合も多い。
 認知機能障害が「せん妄に起因する場合」には認知症と診断してはならず、せん妄状態が改善してから評価を行うこととされている。両者の特徴は次のとおりである。
  ① 発症様式の違い-認知症(緩徐):せん妄(急激)
  ② 持続時間の違い-認知症(永続的・治らない):せん妄(数日~数週間・治る)
  ③ 日内変動の違い-認知症(なし):せん妄(あり・夕方~夜間に憎悪)
4 本件における評価
 *氏が「認知症」だったことは否定しないが、その程度は「軽度」であった。複数回行われた諸検査結果から明らかである。認知症は脳の器質的変性にもとづく不可逆的過程である。短期的に回復が可能なエピソード(せん妄)とは異なる。原告が主張する*氏の異常行動は「せん妄」の特徴であり恒常的な「重度の認知障害」を裏付けるものでは全くない。平成*年*月*日施行MRI検査によると海馬の萎縮度は「微少」である。原告が主張する事実は短期的な「せん妄」にともなうエピソードに過ぎない。短時間で回復しており行為者の「意思能力」に疑いを差し挟むものでは全くない。

* 原告はあまり準備せず提訴したようで、間もなく取下書が提出されました。

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