ちょっと寄り道(千葉)
2025年6月末に千葉に出向く用件がありましたので千葉と成田に連泊して歴史散歩しました。1日目は「交通都市・宗教都市・軍事都市」としての千葉に力点を置いて散歩しています。
(参考文献:西村幸夫「県都物語」有斐閣、「千葉の教科書」JTBパブリッシング、寺坂昭信他「地図で読む百年・関東Ⅰ」古今書院、旅と鉄道編集部「京成電鉄のすべて」天夢人、都道府県研究会「地図で楽しむ本当にすごい千葉」宝島社、「千葉のトリセツ」昭文社他)
福岡9時15分発のJAL306便は10時55分羽田空港に着陸した。高速バスで千葉市へ向かう。東京の湾岸沿いの風景を眺めながら走るこの路線が私は大好きだ。かつて江戸東京は「水の都」であった。しかし高度成長期以降の再開発の中で多くの水辺が埋め立てられた。水の都の面影は失われたのだが、東京湾の埋め立てが進み東京は再び「水の都」の様相を呈するようになってきている。それは「従来の江戸領域」を観ているのでは絶対に判らない。何故ならば現代版「水の都」は(昔感覚で言うと)海の中に展開されているからである。それを実感するために最も適しているのが千葉に向かう高速道路なのだ。ここを走ると「お台場」(フジテレビ本社が立地)が新水都の真ん中に所在することが判る。まもなく左手にスカイツリーが見えてくる。千葉県内に入りバスは高速道路を降りて幕張メッセ中央で停車した。多くの客がここで降車。近くにあるマリンスタジアムは46期修習生4組在籍中に行われた草野球で使用させてもらった経験がある。JR千葉駅にて高速バスを降車。
JR千葉駅から京成千葉駅に移動する。駅名に「千葉」と付く駅はなんと11もあるそうだ。各鉄道事業者が乗降客を奪い合った結果だという(@西村)。京成千原線に乗る。千原線は小湊鉄道が1950年代に計画したものだが同社は建設費を調達できず路線免許は1975年に第3セクター「千葉急行」に引き継がれた。京成千葉線と接続され1992年に大森台まで開業、1995年にちはら台まで延伸した。1998年に京成電鉄に引き継がれた(千葉急行は清算され消滅)。千葉中央駅の次の「千葉寺」駅で降車する。駅前はガランとしており、北に向かう広い道路だけが異様に目立つ。
昔の地図をみると町は全体が千葉寺の寺領だった。今、寺は若干西側の一角にこじんまりと佇んでいる。千葉寺(せんようじ)は奈良時代の創建になる古刹。当初は法相宗(中心は興福寺)。現在は真言宗豊山派に属し、正式には「千葉山蓮華院千葉寺」という。下総国における仏教布教の拠点であった。中世に千葉氏が支配するようになると千葉寺は菩提寺的な位置づけになる(「千葉」の名称はこの寺から生まれ後に地名ともなったと推察する)。江戸時代まで神仏習合で、道を挟んだ南側や境内北側に寺内社が見受けられる。明治の神仏分離では一部被害を受けたが現在も生きた仏教寺院として存続している。境内中央に鎮座する巨大な銀杏の木が凄い。寺が開基されたとき植樹されたものだという(寺伝)。事実なら樹齢は1300年超になる。霊気が漂っていて凄い存在感がある。古い枝から乳柱が多く垂れており女性がこれを煎じて飲むと「乳の出が良くなる」との伝承がある。
広い道路に戻り歩いて北に向かう。右手に広がるのは「青葉の森公園」だ。昭和62年(1987)開園した。元は「農林水産省畜産試験場」の跡地であり現在は梅や桜の名所として千葉市民の憩いの場所となっている。特筆すべきはバブルまっ盛りの平成2年(1990)4月に「彫刻の広場」を開設したこと。彫刻は10作品が招待形式、10作品が公募形式により選出された。広大な敷地にこの後も更なる文化施設建設が予定されている。千葉市は財政が豊かなのだろう。公園内に中央博物館も設置されている。「チバ二アン」(地磁気が逆転した地質年代)の解説を観たい気もするのだが時間がないのでパスした。暑さにうなだれながら交差点を左折する。周辺の地名は「亥鼻」(いのはな)。三丁目まである亥鼻はその全体が中世千葉氏の居城(館)跡であったとされる。
右側に広がるのは千葉大学医学部(旧千葉医科大学)だ。目玉は「旧千葉医学専門学校本館」である(旧本館)。竣工は1931年(昭和6年)設計は内田祥三(東京帝国大学建築学科教授)。鉄筋コンクリート造・スクラッチタイル貼り。ネオゴシック様式を基調としたモダニズム建築である。外観は左右対称で重厚感のあるファサードが美しい。ゴシック風のアーチや尖塔モチーフの装飾など細かい意匠が優れている。国の登録有形文化財に登録され、近代医学教育施設として価値が高い。
千葉大学医学部の正門を出て坂を下ると左手に城郭風の建物が見えてくる。これが「千葉郷土博物館」。休館中なので入れなかった。千葉常胤(ちばつねたね)が活躍したのは12世紀初頭(頼朝の時代)。常胤は鎌倉幕府の成立に関わった関東の有力御家人の1人で、この地を本拠地とした。時代的に言って建築物は「館」程度のものであったと思われる。中世に覇を誇った千葉氏の衰退とともに「城」としての機能は失われた。江戸時代には千葉氏「旧跡」としてのみ認識されていた。後述する「千葉県」の設置とともに付近は場所的な重要性が上昇した。結果、昭和初期に「公園」としての整備が進み周辺は「亥鼻公園」と名付けられた。模擬天守は1967年に建設されたものだが博物館だけに「歴史の専門家」による検討を受けて建設して欲しかったところである。
坂を降りる。直ぐ前が旭橋で西(左)に見えるのが大和橋。この大和橋の北詰めに千葉県「道路原票」があった。江戸時代、ここは高札場(街の中心)であった。都川沿いに歩き羽衣橋の眼前に鎮座するのが千葉県庁舎である。千葉は江戸時代に「何も無かった」処に県庁が設置された点で宮崎と共通性がある。江戸時代、関東八州には江戸を脅かす大藩は設置されなかった。現在の千葉県内は小藩が多く飛び地もあり幕府領も散在した。これが「廃藩置県」により26藩となり「府県統合」によって木更津県と新治県と印旛県にまとめられ、1873年「千葉県」が成立した。現在地に県庁舎が置かれたのは①両県の中央にあること(木更津県・印旛県の両県の中間地点)②交通の要衝であったこと(東金街道・生実街道・佐倉街道などの交通結節点として発展)③中世に猪鼻城(千葉氏の居城:実質は館)があったこと(千葉氏は源頼朝の有力御家人として関東で影響力を持っていたので土地としての格があった)による。最後に1875年新治県の利根川以南が千葉県に編入され、現在の千葉県域が確定した。千葉は他県都より歴史的に新しい街だが、町自体は下総台地に猪鼻城が築かれた1126年に遡るので(奈良・京都の古代都城、善光寺門前町長野を除けば)多くの県都より歴史は古い。
千葉県庁舎前の都川を渡る。眼前に存在するのが千葉地方(家庭・簡易)裁判所だ。私は昔(25年以上前)ある訴訟事件のために千葉地裁に来たことがある。私が弁護士を始めた頃の民事訴訟法ではウェブ会議はおろか電話会議の仕組みすらなく5分弁論のために遠方の裁判所に出向くことがあったのだ。この千葉への出張が何の事件だったか忘れたが、確か和解で終わったように記憶する。
詳細は次回述べるが、成田空港開設の際には国家権力と反対派住民との間に激しい紛争(成田闘争)が起こり千葉地裁に関連事件(刑事事件だけでなく民事事件も行政事件も)が多く係属した。他人事の感想であるが当時の千葉の裁判所も検察庁も警察も弁護士会も難儀なことであった。東峰十字路事件に関する私のFB投稿に関してなされたコメント。今では遠い記憶である。
「成田闘争は中核派のテロ・鉄道施設への同時多発テロ・収容委員会メンバーへのテロなどとも結びつき恐ろしかった印象です。昭和60年の浅草橋駅、爆破直後に用あって行きましたが驚愕でした。学生時代は総武線内で友人がテロに遭いそうになりました。都内に過激行動が広がるのは成田闘争末期です。」「秋葉原と錦糸町の間を通学で使っていたので大変でした。」「中核派が千葉動労を指導しジェット燃料輸送阻止やら何やらで国労動労と別にストをしていました。友人は総武線内で対立セクトの人と誤認され取り囲まれ尋問受けたそうです。」
「千葉銀座通り」を北に向かって歩く。裁判所と道を隔てて反対に千葉県弁護士会の会館がある。北側に検察庁が入る第2地方合同庁舎がある。中央区役所が入る「きぼーる」なる建物を右折し本町2丁目信号を左折。この本町通りが江戸時代から続く千葉のメインストリート。広小路交差点を渡る。右(東)に向かうのが旧佐倉街道・左(西)に向かうのが旧千葉街道であった。「重要な街道の結節点」の脇に妙見宮(千葉神社)は設けられたのである。私は大学生2年生の頃にこの道を通ったことがある。部活の合宿が大網白里町であり、国分寺市(東京)の自宅からサイクリングで出向いたのだ。早朝だったので快適に都心を走り抜け千葉街道を通過することが出来た。良き思い出。
現在の「千葉神社」は長保2(1000)年に千葉氏の守護神である「北辰妙見尊星王」(妙見菩薩)を本尊とする「寺」として建立された。昔は千葉氏の館(亥鼻)から北に向かって砂州が伸びており現在の千葉神社の地はその北の端にあった。そのため「北極星信仰」を重んじる千葉氏はここに寺を置いたのだと思われる。千葉氏の祖平忠常の子覚算大僧正により伽藍が整備された。千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われたとされる。千葉常胤の案内で参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護された。妙見宮には妙見菩薩とともに1181年(養和元年)常胤によって鶴岡八幡宮から勧請された八幡神が祀られた(現在も末社に八幡神社があるのはその名残)。妙見菩薩は鎮守・産土神・農耕神的な役割を担っていた。平安時代、上総・下総・常陸に勢力を拡大していた千葉常重が(関東の海運陸路の要衝)千葉に本拠を移し亥鼻城を築城した大治元(1126)年の翌年、千葉氏の守護本尊である妙見神の分霊を神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」が開始された。宝治合戦で一族が動揺した時期(13世紀中期)に一族の団結を維持するため(房総平氏から篤い信仰を受けていた)弓箭神の要素を加え「妙見菩薩から庇護されている」と強調する妙見説話が形成されたもののようである。その集大成が『源平闘諍録』であり千葉妙見宮縁起絵巻にも反映されている。1591年(天正19年)徳川家康が関東に入部した際も本寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進。同時に朱印地200石と十万石の格式が与えられた。江戸時代は「北斗山金剛授寺尊光院」と称する真言宗の「寺院」であった。明治初年の神仏分離により「妙見本宮千葉神社」になり本尊も改められている。
千葉神社の境内は現在工事の真っ最中で風情がなかった。残念。
千葉神社を出て少し北に歩き院内信号交差点を斜めに入る。道の奥に見えるのは国鉄「千葉駅」の旧所在地に立つ「千葉市民会館」。周辺の街並みは「栄町」という。かつては一等地だった。栄町は旧国鉄千葉駅だけでなく直ぐ南側に旧京成千葉駅(中央公園)も存在した千葉の中心街(栄えた街)だった。しかし昭和30年代に両駅が現在地に移転し商業施設も移転した。跡地に風俗店が入りはじめ現在の大歓楽街となった。栄町は(遊廓からの連続的風俗街ではなく)商店街の「末路」という意味合いが強い。上を見上げると懸垂式モノレールがある。面白い。明日乗ってみよう。
夜は千葉に住んでいる長年の友と飲み会。最近の状況を聞きながら親交を温める。飲み会を終わり千葉中央駅前の「ダイワロイネットホテル千葉中央」にチェックインして健康睡眠。
翌日の朝、シャワーを浴び付近を散歩。総武線北側に向かって歩く。千葉公園内に陸軍鉄道連隊の痕跡が残されている。千葉は大戦末期に米軍の空爆を2度受けた。千葉は全国でも有数の軍都であったからだ。総武線北側には広大な軍用地があった。轟木町の名は「軍靴轟く」から来ている。千葉公園西側の荒木山なる山名は軍神とうたわれた荒木克業中尉に由来するものである。訓練のために作られた短いトンネルの遺構もある。北部には気球聯隊なる奇異な部隊もあった(偏西風に載せてアメリカ本土に爆弾投下するという目的だった)。鉄道聯隊の材料廠煉瓦建築は千葉経済学園内に保存されている。その旧鉄道聯隊の歴史を背景に持つ「新京成」電鉄は2025年3月31日、創立から78年の歴史に幕を下ろし親会社の「京成」電鉄に吸収合併された。カーブが多い松戸駅―京成津田沼駅(26.5キロ)を結ぶ新京成の路線は「鉄道聯隊の名残」だったが4月1日から「京成松戸線」として引き継がれた。新京成は1946年10月に創立された。線路を敷く演習を実施した陸軍鉄道聯隊から跡地の払い下げを受け鉄道事業を始めた。JR常磐線や東武野田線に接続し東京都内への通勤通学客に使われた。沿線人口減少をにらみ京成は2022年新京成を子会社化していたが今般完全同一化した。
千葉公園駅からモノレールに乗る。懸垂式モノレールに乗るのは湘南モノレール以降2回目である。このモノレールは千葉県や千葉市が出資している第3セクターが運営している。千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。1988年(昭和63年)3月28日に最初の区間である2号線スポーツセンター駅・千城台駅間が開業。1999年(平成11年)3月24日に1号線を含めた全線が開通した。総営業距離15.2 kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で2001年(平成13年)に「ギネス世界記録」に認定されている。ちょと意外。
千葉は交通で「街の存在様式」を変えてきた不思議な街である。江戸時代に武家地も寺町もない千葉だったからこそ純粋に計画論理に従ったプランが実現できたのだという(西村)。私はJR千葉駅に帰還し京成線に乗り替え千葉中央駅で降りた。ホテルに戻り朝食をいただいてチェックアウトする。眼前の千葉中央駅から京成線に乗り私は「成田」に向けて出発した。(続)
* 中央の平氏と地方の平氏の関係
源頼朝を支援した房総半島(上総・安房・下総など)の武士たちは「元は平氏系」あるいは「平氏と縁の深い家系」が多かった。房総の武士たちはなぜ「平氏系」だったのか?平安時代後期、中央政権は「東国の支配強化」のため、平忠常の乱(11世紀)以降、平氏を関東に地頭・国司・受領等として送り込むことが多かった。代表的なのが上総氏(上総国)千葉氏(下総国)三浦氏(相模国だが房総にも影響力)安房の長狭氏や丸氏など。彼らは系図上「桓武平氏」を称していた。平氏の彼らがなぜ源頼朝についたのか?彼らは「平氏」といっても「中央の平氏政権」(代表が平清盛)とは距離があった。清盛の「直系」では全くなかった。むしろ彼らは「地方武士」として自立的であり中央政治を動かす平清盛体制に不満があった。これに対し源頼朝は「源氏の嫡流」として正統性をアピールした。そのことが清盛体制に不満を持つ東国武士の期待を集めた。頼朝が「石橋山の戦い」で敗れた後、安房に渡って上総広常(上総氏)や千葉常胤(千葉氏)などの加勢を得たのはこうした潜在的不満に上手く乗ったからだ。頼朝は一気に勢力を拡大したが房総半島の武士にとっても自らの発言力を高める良い好機であった。「平氏だから平氏(中央)政権に忠義を尽くした」わけでは全くない。それが当時の武士社会のリアルな姿であった。そのことは源頼朝にとっても同様で、彼ら房総平氏を「心から信頼していた」わけでは全くなかった。そのため源頼朝は政権安定後に不信を抱いた房総武士らを次から次に粛清していった。詳細は倉本一宏「平氏」中公新書を参照。上記プロセスを明瞭に記したのが「吾妻鏡」である(これをネタ本にしたのがNHK「鎌倉殿の13人」でした)。

