「リチャード三世」観劇2
今回は純然たる「演劇」(@シェイクスピア:森新太郎演出)の評論です。
あらすじ:主人公リチャード(後のリチャード三世)は、兄である国王エドワード四世に不満を抱いている。冒頭で長い独白「平和な時代に自分の居場所はない。ならば悪党になろう」と決意する。生まれつき身体に障害があり(せむし)愛にも戦争にも恵まれない自分は「権力だけを追求する」と冒頭から宣言して次々と陰謀を巡らす。別の兄2人を反逆者に仕立てて牢獄送りにし、ついには暗殺する。自分が殺した敵将の未亡人アンを口説き落とす(夫と義父を殺した男が葬儀の最中に未亡人を口説き落とす信じ難い展開)。やがて国王エドワード四世が病死。まだ幼い甥エドワード五世に王位は継承されるはずだった。リチャードは「王子たちは私生児だ・王位継承権がない」との噂を流し自ら国王に即位。ロンドン塔に幽閉した2人の王子を密かに殺害させる(「塔の王子たち」事件)。こうして国王になったリチャードは疑心暗鬼に陥る。邪魔になった者を次々と処刑し、協力者・貴族たち、最後には妻アンまで排除しようと動き支持者は離反していく。一方、亡命していたヘンリー・チューダーが反乱軍を率いてイングランドへ上陸する。最後の舞台は「ボスワースの戦い」。戦いの前夜、リチャードの夢の中に自分が殺した人々の亡霊が現れる。彼らはリチャードを呪い、ヘンリーを祝福する。ここで初めてリチャードは自らの罪と孤独に向き合う。翌日の戦いで劣勢となった彼は有名な叫びを上げる。「馬だ!馬をくれ!王国をやるから馬をくれ!」この戦いにヘンリー・チューダーが勝利し、後のヘンリー七世となる。薔薇戦争は終結しチューダー朝が始まる。
シェイクスピアは「チューダー朝の代弁者」である。彼が描く戯曲『リチャード三世』はある種のプロパガンダ作品である。しかし「演劇には史実とは別の意義」がある。我々は学校教育の「歴史」授業において「光に生きている人物」を勉強させられるのだが、実際の政治は「影に生きている人物」が多いのだ。だからこそ、我々は影の人物の「実直な声」を聴く意味があるのだと思う。

今回の企画が動き出したとき吉田羊さんは「善人より悪人を演じたい」と思ったという。「清廉さゆえに苦悩する」リチャード2世ではなく「権力を志向し悪を生きる」リチャード3世を演じたいと。現代社会は「光の人間」より「影の人間」にリアリティが感じられている。光の人間には何か「ウソくささ」すら感じられている。リチャードの如き「自己の醜さ・暗さ・欲望」に正直な人間に大衆は魅了される。現代人の多くが「醜さ・暗さ・欲望」を密かに抱えて生きているからだ。
リチャードは(臣下に対してでなく)聴衆に向かって直接語り掛ける。自分の弱さ醜さを隠さず「権力への意思」を語る。「悪」であるリチャードに観客は魅了されてゆく。シェイクスピアの頃は演者と観客の垣根を取り払うようなブレヒト的演出手法(異化効果)は意識されていなかった。が、シェイクスピアは(遥か後の時代のブレヒトを先取りしたかの如き)観客へのセリフをリチャードに与えている。この役を「女性が演じる」というのが現代日本政治に似て興味深い。「人間はちっとも変わらない・学習しない・同じ過ちを繰り返す。」という吉田羊さんの言葉が新鮮。
理解を助けるため舞台上部にテロップが表示されるのだが、終盤「王子二人は行方不明」とか「アンは病死」と表示されたのが印象的であった。物語的には「王子たちはリチャードに殺され、アンもリチャードが再婚のために始末(殺害)した」と推測される。しかし前回述べたように王子たちがリチャードに殺されたとの証拠は存在せず(冤罪説もあり)アンの死因も不明だ。この舞台では王子を表象している人形を吊るして運ぶ男性が現れ、アンは椅子に座ったまま静かに床へ崩れ落ち病死を連想させた。演出家が史実を尊重し「舞台上の真実」を慎重に扱っていることを伺わせる。
この舞台で最も印象的だったのが「呪いの言葉」だ。特に後半、殺害された者たちがリチャードに対して連ねる呪いは圧巻であった。この点に関して演出者森新太郎さんがこう述べている。
美辞麗句から皮肉・焚き付け、脅し文句までデパート並みに語彙力豊かなリチャードですが、唯一持っていないのが「呪い」の言葉、かつての王妃マーガレットをはじめ本作に登場するすべての女性が口にする「呪い」の言葉を彼は持っていません。翻訳の松岡さんによれば、呪いという行為は「弱者に残された最後の手段である」とのこと。ならばリチャードは弱者ではないということか。あるいは「自分の弱さを決して認めることが出来ない人間」なのかも。吉田羊が演じる稀代の悪党からはそんな深い孤独が感じられます。
リチャードの夢に「殺した人々の亡霊が現れリチャードを呪う」場面は本作の白眉。リチャードが自らの罪と孤独に向き合う場面は「醜さ・暗さ・欲望」を抱えて生きている多くの観劇者が(当然のことながら私も含めて)かつて「自分が傷つけた(精神的な意味で殺した)人々」「その人たちから呪われている(不幸を願われている)自分」を意識して「罪と孤独」を感じるところだと思う。そうであるからこそ本作品は(単なる当時の政治的当否を超えた)高度な文学作品としての「普遍性」を獲得しているのだと感じられる。現代に通じるシェイクスピアの天才に脱帽する。
最後の戦いでリチャードは死に、最後1人残ったリッチモンドが赤いジャケットを脱ぐ(この印象的な赤いジャケットを着ていたのはリッチモンドだけ)。当然それは「新たな正義」を表象するリッチモンドを演じる役者のはずだが?(詳細は略)。「権力とはこういうモノだ」という演出家の冷めた視点が表象されている。後の「リチャード三世はチューダー朝のプロパガンダ作品だ」という見方を演出家は最後の最後にひっくり返す。この締め方は良かった。素直に感動した。
吉田羊さんが久留米の出身であったからこそ実現した舞台。この舞台を前から5列目の良い席で観劇出来た私は運が良い。自分の「醜さと影」「罪と罰」を意識する尊い時間だった。感謝。
* 吉田羊さんがパンフでこう述べているのが印象的です。吉田さんも上演を現代に重ねあわせているのですね。「ここに描かれている権力者たちの姿は現代を生きる私たちにも見覚えのあるものです。もっともらしい理屈で人を丸め込み、いざとなったら責任逃れする。市民たちもあっという間に甘い言葉に乗せられてしまう。戦争が身近に起こっている今だからこそ、真偽を見極める目を持ち、自分で考えてリーダーを選ばなければならないと考えさせられます。」激しく同意。

