歴史散歩 Vol.188

ちょっと寄り道(成田)

千葉方面の歴史散歩2日目と3日目は成田です。成田山新勝寺と成田空港に絞って散歩しました。
(参考文献:NHK「ブラタモリ№11」角川書店、安藤雄一郎「観光都市江戸の誕生」(吉川弘文館)、「地図で読む100年関東Ⅰ」古今書店、「千葉のトリセツ」昭文社、「千葉の教科書」JTBパブリッシング、牧久「成田の乱」日本経済新聞社、「もっと知りたい成田空港」イカロス出版、「FRONTIERS・Narita since1966(成田空港クロニクル)」空と大地の歴史観展示図録)

千葉中央駅を出た京成線の電車は成田市に入る。明治時代の鉄道会社は神社仏閣への参拝客輸送を目的として設立されたものが多い。1900年代、全国的に電気鉄道ブームが起きる中で東京と成田を直結する電気鉄道が3者競願で計画された。3者は合同し1903年に押上・成田間を出願。1907年佐倉までの免許を得て1909年6月30日「京成電気軌道株式会社」を設立した。1911年11月に第1期工事として押上・市川・柴又間を着工し翌1912年11月開業。1913年10月柴又・金町間を開業させ、1914年9月江戸川・市川新田、1915年11月に市川新田・中山、1916年12月には中山・船橋と延伸を繰り返した。1921年7月船橋と千葉駅(後の京成千葉駅)間が開業。当時の京成千葉駅は今の千葉中央公園の位置。千葉中心部には省線(後のJR)千葉駅(現在の市民会館)より近いので利用客が多かった。1925年10月成田への延伸に着手。翌年12月に津田沼と成田花咲町(仮駅)が開業した。新勝寺門前に近い地点へ乗り入れるため既に営業していた「成宗電気軌道」を買収する案もあったが客の減少を憂いる成田山門前町商店街の猛反対にあったため1930年(昭和5年)4月今の位置に「京成成田駅」が設置された。電車はその京成成田駅に到着。目前にJR成田駅が対峙している。両者の歴史的対抗関係を表象している。参道の最初は平坦で現代的店舗が軒を連ねている。しかし「薬師堂」(3代前本堂)を過ぎる辺りから下り参道となり古い店が増えてくる。下り終わった最後の最後に成田山新勝寺の総門が現れる。「参拝の有り難味を増す仕掛け」というのがNHKの説である。

成田山新勝寺は関東屈指の名刹。平安時代939(天慶2)年「平将門の乱」が勃発した。将門は「新皇」を名乗り朝廷と敵対した。朱雀天皇の命により寬朝が(空海作の伝承がある)不動明王像(@高雄山神護寺)を捧持し関東へ出発した。寬朝は延喜16年に敦実新王の第二子として生まれた貴種で、11歳で出家し仁和寺・東大寺・西寺の別当や東寺の長者を歴任。寛和2年真言宗初の大僧正になった。寬朝は難波の湊から船に乗り房総半島(尾垂ヶ浜)に上陸した。21日間にわたって護摩を焚き「乱の終息」を祈願した。結願の日に平将門が敗れ「平将門の乱」は終息。寛朝が都へ帰ろうとしたとき不動明王から「私はこの地に留まり人びとを救う」との託宣があった。朱雀天皇は「新たに勝つ」意味の「新勝寺」の寺号を下賜し寛朝が関東守護霊場として成田山を開山した。
 平安時代以降、成田山新勝寺は参拝者が特に多かったわけではない。新勝寺への参拝者が爆発的に増えるのは江戸時代に入ってからのことだ。新勝寺が江戸庶民に知名度を誇るようになったのは元禄時代に「深川の永代寺」にて本尊不動明王を「出開帳」したことに始まる(現代の有名寺社が国立博物館等に寺宝を出開帳するのはその習い?)。江戸は多数の人口を抱えながら伝統的な名刹を有しなかったことが有名寺社の出開帳を受け入れる素地となった。加えて子の不在に悩んだ歌舞伎役者「市川團十郎」が不動明王に参詣したところ子宝をさずかり帰依を深めた。そのために歴代の市川團十郎が成田不動への信仰を継承し「成田屋」を名乗ったことが成田山人気に火を付けた。成田山には最初から「エンタメ的要素」が濃厚に漂っているのだ(安藤雄一郎「観光都市江戸の誕生」参照)。この軽さを前提に江戸庶民は「物見遊山的レクレーション」気分で成田に出掛けたのである。多くの成田不動講が成立し、江戸御開帳を支え、成田山旅宿を支えていた。幕末(安政年間)には何と210社余りの成田講があったという(速水侑「観音・地蔵・不動」吉川弘文館)。驚愕。
 参道脇には多くの土産物店や鰻店が甍を重ねる。何故に鰻が成田名物に?印旛沼で鰻が多く取れたからである。私はグルメではないのでテキトーに入る。店名も覚えていない。食べた感じでは私は柳川の「せいろ蒸し」のほうが美味しい気がした。筑後(柳川など)の「せいろ蒸し」は蒲焼きを甘めのタレで仕上げ、それを錦糸卵と一緒に蒸す濃厚な甘味を特徴とする。これに対し成田の鰻のタレは比較的あっさりとしている。そのため筑後人にとっては成田の鰻は「どこか物足りない」「辛い」「コクが少ない」と感じられる。逆に関東の人が柳川のせいろ蒸しを食べると「仰々しい」「甘すぎる」「こってり過ぎ」と感じるであろう。料理は土地毎に特徴があるのが面白い。
 総門に到着する。猛暑の中、境内を観て廻る。名刹にしては何か軽い。本堂は3度も変遷しているようだ。奈良京都の名刹で感じる「深み」を感じない。「巨大な宗教的テーマパーク」みたい。自宅に帰って自分のこの感想をchatさんに聞いてみたら簡潔に解説してくれた(若干補正)。

成田山新勝寺を訪れて宗教的テーマパークの如き印象を持ったのですが変ですか?
chatGPT:いいえ、まったく変ではありません。むしろ非常に鋭い観察だと思います。貴方が「宗教的テーマパーク」と感じた理由には以下のような背景や要素があると考えられます。
1. 空間構成の多様さと演出性:成田山新勝寺は「本堂」だけでなく「釈迦堂」(1代前本堂)「光明堂」(2代前本堂)など多くの堂宇や塔が配置され、訪れる者に次々と場面の転換を体験させます。「アトラクションを回る」ような印象を受けますね。2. 視覚的なインパクト:大本堂や仁王門の荘厳さ、五重塔の華麗さ、護摩祈祷の炎と太鼓の音。宗教的儀式であると同時に視覚・聴覚に訴える強い演出性を持ち観光客の感覚に訴えかけてきます。3. 多国籍・多層的な参拝者層:外国人観光客、修学旅行生、地元の参詣者、開運や厄除けを祈る人々…多種多様な目的を持った人々が共存している様子は現代的なテーマパーク的空間と重なって見えます。4. お土産・食事処の賑わい:参道にはうなぎ屋や土産物屋が軒を連ね、グルメやショッピングの楽しみが強調されています。ディズニーランドの「ワールドバザール」などと類似した感覚を呼び起こします。5. パフォーマンスとしての宗教性:護摩焚きの儀式などは厳粛な宗教行為ですが見物する観客のような参拝者も多く、その意味で一種のパフォーマンスにも見えます。宗教社会学的に「観光化された宗教」の典型とされます。

これほど的確に自分の「感想」が裏付けられるとは思わなかった。AI恐るべし。

戦後、成田山新勝寺は特に「交通安全祈願」で注目された。背景には笹川良一氏の船舶振興活動や運輸・交通業界への影響力があったとされる。笹川の支援により全国各地に「成田山別院」や「成田山○○分院」が建てられた。その1つが「成田山久留米分院」である。国道3号線から眺められる巨大観音像(慈母観音)で有名である。観音像の下は地獄めぐり。初めて子供らと一緒に地獄めぐりをした後、コースの最後にいきなり笹川良一像が出迎えて驚愕したことを記憶する。
 帰路、土産物屋にて買い物をして京成成田駅に戻る。京成成田駅近くのマックで少し涼み、今度は「電車道」を歩く。その昔、成田駅と新勝寺を結ぶ「成宗電気軌道」が存在した(明治41年設立)。駅東に続く電車道は最初は下り坂で交差点を抜けると「桜並木」がある。土を盛上げて作った土手は両脇の低い土地との高度差がもの凄い。下知識が無ければこの道が「人工的な軌道敷」だとは思いもよらないであろう。土手を抜けた先に2つの見事な赤レンガトンネルが連なる(土木学会の建築遺産に選定されている)。湾曲した道の先にあるのが「信徒会館」だ。直行する道を左折すると直ぐに新勝寺総門がある。確かにこれでは有り難味が無い。NHK説を少し納得した。
 電車道を戻り京成成田駅の地下通路を通って西口に。直ぐ左側にあるアパホテルへ出向く。大浴場にて汗を流す。近くのイタリアンの店でコロナビールをいただきながら晩酌。健康睡眠。

3日目の朝。風呂に入り朝食をとって早めにチェックアウトする。意気込んで京成成田駅から成田空港に出向く。1978年に開港した成田空港は「首都圏における国際空港」としての役割を担い、世界中から旅客と物流が集まるアジア有数の航空拠点となっている。開港当初「新東京国際空港」と呼ばれていたが2004年から「成田国際空港」の名称が定着した。現在「ターミナル1・2・3」に分かれ各々に異なる航空会社が拠点としている。巨大なチェックインロビー、洗練された免税店、美しいラウンジ、窓越しに見える滑走路が気分を高揚させる。が、まずは最初にL㏄の発着場(ターミナル3)の場所を確認しなければならない。夕方私はここから飛び立つのだ。私がL㏄を使うのは初めてである。それゆえ確認しておかないと安んじて事後の行動を起こすことが出来ない。一般の航空会社が使うターミナル2から数百メートル程歩いた先の鉄骨組の倉庫チックな建物にそれはあった。安普請とはこのことだ。でも「建物に費用を掛けないこと」こそがローコスト要因の1つである。
 今日の散歩は午前10時に開く「空と大地の歴史館」と隣接する「航空科学博物館」が目玉だ。まだ相当に時間があるのでターミナル1と2を徘徊することとした。最初に近いターミナル2を見物する。チェックインカウンターを抜け飲食店や土産物屋があるエリアを徘徊。見学ロビーにも出たがあまり見晴らしは良くない。連絡バスに乗りターミナル1に向かう。同様に見学ロビーに出た。こちらの方が滑走路に近いため飛行機を多く見られる。土産物屋で成田空港特有の品を購入した。
 京成線に乗ってターミナル2で降車する。直ぐ近くに「東成田駅入口」を発見した。これこそ私が楽しみにしていた異界への入り口である。脇には「芝山鉄道」を紹介する案内板もあった。「日本一短い鉄道」をウリにしているがこの鉄道の意義は「短さ」にあるのではない(空港建設により不利益を受ける芝山町への便宜供与)。通路に入るとそこは完全に別世界である。誰もいない、コンクリート壁に包まれた空間が500メートル以上続く。ネットで検索すると次の書き込みが目に付く。

「昭和末期で時が止まったような駅・異世界への入口かと思った」
「こんな静かな500メートル、なかなか歩けない」
「芝山鉄道までの通路がシュールすぎて夢に出てきそう」
「成田空港の裏側を覗いた気分・航空の裏舞台の如き通路」

通路を抜けると「東成田駅」に到着する。駅員さんがいたので安心する。ここが無人駅だと不気味過ぎる。昔は「成田空港駅」と称していた。1978年の成田空港開港と同時に京成電鉄と国鉄(JR)がこの駅を使い始めた。空港ターミナルビルから約500メートル離れた場所に駅を作ったのは三里塚闘争の激化により空港敷地内への出入りが困難だったことによる(空港地下に大勢の客が出入りすると当時の治安上大変という事情もあっただろう)。駅から空港ビルまでバスで移動する必要があり大変不便であった。しかし闘争の鎮静化にともない1991年、空港ターミナル直下に「新・成田空港駅」(現在の「成田空港〈第1ターミナル〉駅」)が開業。1992年に第2旅客ターミナル開業にあわせ「空港第2ターミナル駅」も開業した。これが現在に引き継がれている。旧「成田空港駅」は「東成田駅」と改称し現在は芝山鉄道(2002年開業)との接続駅になった。現金で220円の切符を買う(カードが使えない)。地下旅の後で地上に出て芝山鉄道の終着駅「芝山千代田」に到着した。

ここからが結構遠い。目的地まで徒歩で約30分。猛暑の中を歩くのは難儀であるが出発する。空港脇の道を歩き続ける。左手には「空港の湯」なる温泉施設もできていた。道の途中で昔の闘争の名残を感じさせる遺物がちらほら目に入る。右カーブの道を抜け巨大なパゴダの裏に「航空科学博物館」「空と大地の歴史館」はあった。多くの家族連れは「航空科学博物館」の中へ吸い込まれてゆくが、私の旅の主目的は同一敷地内にある「空と大地の歴史館」なのだ。さっそく入場する。
 展示は左側から建物の内壁に沿って円形に為されている。激しかった対立を止揚するかのように、空港開設前の状況・当時の時代状況(ヒットしていたポピュラーソングの展示もある)・空港開設の経緯・反対運動の展開・開設時の管制塔占拠事件・東峰十字路事件の状況と判決・空港開設後の利用状況・地域との共生・今後の空港など比較的冷静な解説が為されている。
 1966年7月4日、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚の宮内庁「下総御料牧場」付近とすることが閣議決定された。予定された総敷地面積は約1,060ha。内訳は成田市が約972ha(92%)芝山町が73ha(7%)大栄町が15ha(1%)。所有内訳は国有地(下総御料牧場)が約 232ha(22%)県有地が104ha(10%)に過ぎなかった。他は全て民有地724ha(68%)。この「圧倒的な民有地の多さ」が事後の混乱を引き起こした。何故なら、これらの民有地(畑)は開墾の為に多くの農民の血と汗が染み込んだ「努力の賜物」だったからである。農民の中には満州からの引揚者や沖縄から米軍基地建設の為に追い出された者もいた。国策に翻弄された農民が怒るのは当然であろう。日本政府と空港公団は空港建設を「大義」として反対派農民の意向を完全に無視し国際空港建設を強硬に推し進めた。土地買収に伴う移転や騒音問題などにより地元住民からの強い反対運動が展開された。この成田闘争は過激派新左翼の「発生・分裂・衰退」の期間と重なっている。
 何故、三里塚に新左翼が結集したのか?この地は国策に翻弄された農民(義民)に対して国家権力(悪)が直接的に行使されている現場であり、全国的にも数少ない「権力にプロテストすることが『正義』とされ得る場」だったからである。三里塚は新左翼の人々が「自己の存在証明」を得られる(当時としても)数少ない「聖地」なのであった。牧久「成田の乱:戸村一作の13年戦争」は国家権力に抗した農民及び新左翼の闘争を「戦後最大の反乱」と位置づけ、純朴な農民が徳川幕府の圧政に対抗した「島原の乱」に準えている。「島原の乱」を率いた天草四郎の似姿を、三里塚芝山連合空港反対同盟委員長:戸村一作(プロテスタント)に重ねるのも故あることと思われる。
 成田闘争は1970年代から1980年代にかけ激しかった。1971年9月16日「東峰十字路」事件では反対者・警察官双方に死者が出た(この事件の現場はなんと夕刻使うLCC用ターミナルの直ぐ左手(北側)である)。この事件は千葉地裁に係属し「結果の重大さ」(3名死亡)の割には軽い判決が出された(アリバイがあった者は無罪・そうでない者は執行猶予で判決確定)。
 昭和53年(1978)5月20日新東京国際空港が開港した。1966年(昭和41年)7月に千葉県成田市三里塚への空港建設が閣議決定されてから「12年」かかっての開港であった。3月26日(開港予定日4日前)に反対派ゲリラが突入し管制塔の機器が破壊され開港がこの日まで延期された。通常の国際空港なら並行して2本ある滑走路は1本のみで開港し、この日の開港式典は機動隊による厳しい警戒の中で行われた。この間に費やされた膨大な時間と費用とエネルギーは現代日本の苦悩を象徴していた。1985年11月には「浅草橋駅爆破事件」があった。1988年には千葉県収用委員会の委員長だった小川彰弁護士が襲撃された。中核派と結びついた千葉動労は独自ストを頻繁に行った。司法試験(プロテスト)時代の多感な心象風景を思い起こさせる資料を観ながら感銘を受けた。

気を取り直して「航空科学博物館」へ入る。こちらは多くの家族連れで賑わっている。屋外の実機の展示、パイロット気分を味わえるフライトシミュレーター、航空機の内部構造模型、空港の仕事の紹介などが詰まっており、子どもから大人まで楽しめる“空のテーマパーク”である。滑走路を望む展望室から成田空港を離発着する航空機の勇姿が間近に見える。最上階の喫茶店「ばるーん」ではプリンとアイスコーヒーをいただきながら多くの航空機が飛び立つさまを眺めた。
 成田空港は「戦後日本社会の歪を象徴する場」である。空港を訪れた人々が快適に出入国を済ませ空を旅している「足元」には入植者の汗がしみ込んだ開墾地の記憶がある。国家権力と農民や新左翼との長い闘争が私の記憶から消えることはない。現在、成田空港は年間3000万人を超える旅客が訪れLCCの増加により若者にも利用しやすい空港として役割を広げた。航空貨物の拠点として世界的な地位を築き滑走路の拡張・アクセス鉄道の整備・新ターミナルの建設など増殖を続けてきた。おそらく行政による成田空港の増殖運動(既定路線?)が止むことはないのだろう。
 第3ターミナルへ向かう。待合室には次のコピーが掲げられていた。「まだ見ぬ世界との出会いは人生に彩りを添えてくれる。」私は小さい頃から「飛行機への憧れ」を有していた。飛行機好き少年の私は飛行機と無縁の職業に就いた。他方、八女高校の同級生(同クラス)塚本正巳君は全日空のエースパイロットになった。ボーイング787が日本に初就航したときにシアトルから操縦してきたのは塚本君だ。同級生がそんな仕事をしていることを私は羨ましく思い、誇りにさえ思っている。
 17時05分、私はJetstarGK519便で成田空港から福岡空港に向けて飛び立った。(終)

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