歴史散歩 Vol.39

八丁島の御供納

西鉄大牟田線の「宮の陣」駅から東に延びているのが西鉄甘木線。3つめに「古賀茶屋」(こがんちゃや)という駅があります。江戸時代に薩摩街道の茶屋が置かれていたので付いた地名です。その直ぐ北の集落が「八丁島」。この村に伝わる「御供納」(ごくおさめ)は秋の収穫への感謝と人身御供の伝説が交じった珍しいお祭りです(久留米市指定無形文化財)。まず現在伝わっている人身御供伝説の内容をお伝えし、実際の「御供納」を拝見することにしましょう。

昔、八丁島にお爺さんとお婆さんが住んでいました。ある日、その家に若者が雨宿りをします。大雨になったので一晩泊めてもらうことになりました。夕飯の時に裏から娘が入って来て「晩のおかずにどうぞ」と言って魚をお婆さんに渡しました。若者は娘に一目ぼれします。お爺さんは「この娘は近所の子です。お兼(おかね)さんと言います。見てのとおり美しい子なので村の男から嫁にきてくれと望まれていますが、どうしてもいきません。」と話しました。翌日も雨だったので若者はもう一晩泊めてもらいます。夕飯時に再びお兼さんが裏口から来ました。お兼さんは若者の恋心に気づいたのか、少し恥ずかしがっています。そこで、お爺さんとお婆さんが両名に「夫婦になったら。」と勧めると、2人とも「はい」と答え2人は夫婦になりました。2人はお兼さんの家で生活を始め、周囲の評判になる程に仲むつまじい夫婦となりました。1年経ち2人に男の子が生れました。が、その頃からお兼さんの夜歩が多くなります。不思議に思った夫が、ある朝お兼さんの草履を見ると雨も降っていないのに濡れています。そこで夫はその夜お兼さんが家を出て行く後をつけて行きました。お兼さんはつけられているのに気づかず池の近くで大蛇に姿を変えて池の中に入って行きます。夫は驚いて家に帰りました。後を追ってきたお兼さんは泣きながら「私はあの池に住んでいる大蛇です。私が小さい時、人間の世界を見ようとして池から出て這い回ったところ、子供たちに捕まえられて殺されそうになりました。その時に貴方が通りかかって私を助けてくれました。そこで御恩返しをしようと娘の姿になって村に住みつき、貴方に会うため毎晩おかずを届けにいき待っていたのです。貴方があまりにやさしいので、自分が蛇の身であることを忘れて夫婦になり、子まで出来てしまいました。ですが、私はあの池の主。私の本性を貴方に見られたからにはもう人間界に住むことは出来ません。今夜でお別れです。」と話しました。夫は「子どもまで出来たのに、何とか思い止まってくれ。」と説得しますが、お兼さんは肯きませんでした。日が暮れて別れる時になりました。お兼さんはきれいな玉を1つ夫に差し出して「もしこの子が泣く時にはこの玉をシャブらせてください。」と言い残し、泣きながら池に帰りました。その後、子供が泣く時に玉をシャブらせると子はぴたっと泣き止むようになりました。ところが子供が2歳になった時、村の者が興味本位にその玉を取り上げてしまいます。子供は大泣きして、どんなにあやしても泣き止みません。男は困ってしまい、子を抱いて池のところに来ました。子の泣声が聞えたのか、池の主である大蛇は「どうしてそんなに泣いているのですか。」と男に聞き、男は村の者に玉を取られたことを話しました。蛇は悲しみ「あの玉は私の目玉です。もう1つの目玉はありますが、両盲だと龍になることができません。子が泣いていて可哀そうですが私にはどうすることも出来ません。」と泣きながら池の中に入ります。男はその言葉を聞いて「もう生きていても仕方がない。夫婦揃って池の中で子を育てたほうが良い。」と絶望し、子供を抱いたまま池に身を投げて2人とも死んでしまいました。それから村に不幸が続きます。日照りが続き、病気が流行り、多くの者が死にました。村では何故こんなに不幸が続くのか原因が判らず、祈祷師に頼んで祈ってもらったところ「池の主の崇りじゃ。毎年12月に10才になる男の子を1人ずつ池の主に人身御供すれば、その翌年は無事であろう。」とのお告げが出ました。そこで1年に1人ずつ10才になる男の子を人身御供で池に沈めることになりました。しかし子供があまりに可哀想なので、村の者が全国行脚のお坊さんに相談したところ、お坊さん曰く「米三石三斗を人身御供の代わりに池に供えれば良い」とのことです。言われたとおりに池に米をお供えしたら、翌年は五穀豊穣でした。そこで、八丁島の村ではこの行事を毎年続けるようになったとのことです。

 民俗学的には日本の多くの民話に見受けられるパターンを踏襲しているような物語ですが、この「御供納」は物語が現実の祭りとして長年にわたり受け継がれてきたことに意味があります。実際の「御供納」の様子を見てみましょう。
御供納は秋の収穫が終わった毎年12月12日頃に執り行われます。3歳から12歳までの男の子が主役です。八丁島の子供たちは皆がこの大役を果たします。子供たちは夜6時に潮井汲と言われる行事を行い午前0時から筑後川で禊ぎをします。これによって神に仕える体としての身を清めます。翌日午後2時頃、八丁島天満宮で子供たちは神主さんからお祓いを受けます。お祓いが済むと白装束に身を包んだ子供たちと神主さんたちがヤカゴ(御供米を入れた籠)を担ぎ天神堀まで列を組んで歩いていきます。近所の住民の方々が沿道でこれを見守ります。高齢の方の中には白装束姿の子供たちに両手を合わせている方もいます。

 天神堀の真ん中に楠の木が植えられた中の島があります。堀の脇で御供米を船に積み換え、神主さんと子供たちが船に乗り込んで中の島の周りをゆっくりと船で2・3週ほど廻ります。何周か回った後、船首にいる神主さんが御供米を堀の水面につけます。その瞬間、対岸にいる弓矢を持つ男性が中之島の木に向かって3本の矢を放ちます。これは蛇に向かって「御供を納めたので、もう出てきて村人に悪さをしてはいかんぞ」と唱える意味があるそうです。なので、矢が一本も中之島に届かないと「来年の収穫が悪くなる」として祭り方の世話人は村の人から怒られたそうです。
 
御供納は重く暗い祭りであるかのように誤解されそうですが、実際の雰囲気は違います。参加している大人も子供も楽しそうにしています。沿道の人もニコニコしていますし、前述した矢放ちのときは堀の周りの見物人から大歓声があがります。表面的には明るい祭りです。しかし昔は10才の男の子が本当に人身御供されていたと伝わっています(あくまで伝承です)。現代の子供たちが白装束を着て船に乗せられる意味を理解しているのか否か判りませんが、私は松尾芭蕉にならい「おもしろうて やがて悲しき 御供納(鵜飼かな)」と詠みたい気持ちになりました。八丁島の御供納は、幼い子供たちが無垢であればあるほど、悲しみを誘う静かな行事なのです。

* 河合隼雄「ユング派の心理療法」(日本評論社)によれば蛇との異類婚姻譚は世界中に見受けられる。「男に助けられた蛇が美しい女性となって男を訪ね嫁となる・女房は子を宿すが絶対見てはダメだと言っておいた産屋を男にのぞかれる・蛇の姿を見られた女房は子を育てるための玉(片目)を置いて男の下を去る」というパターン(83頁)。久留米に「世界的な物語パターンである蛇との異類婚姻譚」が何故に受け継がれているのか?不思議な感じも受けます。

* 本文で採用している説は「鶴の恩返し」蛇バージョン。他に「筑後川を氾濫させる大蛇を鎮めるために昔は幼い子を捧げていたが子の代わりに米を奉納するようになった」との説もある。

* 古賀正美「鬼と権現」(海鳥社)には次の趣旨の記載があります。
 薩摩街道に沿う八丁島は三井郡の経済的な中心であった。御供納は梅林寺山麓の池で行われてきた祭事と同じ内容である。筑後川を舞台として活動していた尼御前たちが大刀洗川をさかのぼり、この地で行っていた水神祭りが現在まで残った。尼御前は水神祭りに関わり護符を授けながら平家伝説を語ったが、その多くは失われてしまった。現在は池王(大蛇)への人身御供と収穫祭に起源があると考えられているが、本来は水神と尼御前に由来する(というのが古賀先生の説です)。

前の記事

歴史コラム(未来への不安)

次の記事

歴史コラム(韻を踏むこと)