久留米版徒然草 Vol.365

「華氏マイナス320°」観劇

北九州芸術劇場にてNODAMAP「華氏マイナス320°」を観劇(2026/6/12)。豪華なキャスト(広瀬すず・阿部サダヲ・深津絵里・橋爪功・橋本さとし他)による最先端の演劇です。演劇好きの友人から事前に「相当に予習をして臨まないと何が演じられているのか理解不能」とのレクチャーを受けたのでネット上の情報を多少読みこんで臨みました。最初に野田秀樹さんの文章を引用。

「短い問いに長々と答える」それが生きるということだ。この有名なシェイクスピアの含蓄ある台詞も近頃は的外れな時代になってしまった。「答えは短い方がいい」そんな時代だ。SNSでは「長々と答える」のはオジサンの所業として忌み嫌われる。そしてAIに言わせれば「長々と一生という時間を費やして答える問題」など問題そのもののほうに問題があるということになりそうだ。簡潔で力強く聞こえる答えばかりが世間を闊歩する。「悪者は速やかに殺せ」。(中略)さて、このもっともらしい私の文章の問題点は冒頭にある「シェイクスピアの含蓄ある台詞」が私の手によって作られたフェイクであるということだ。私お得意の「フェイクスピア」のセリフだ。だから今どきの科学文明についての答えもそう簡単には出ない。それでも「短い問いに長々と答えた」のがこの芝居でありしかも答えになっていない。長々と答えても答えられようのない「短い問い」がこの芝居だ。(パンフレット:口上)

野田さんの「短い問い」を私なりに敷衍します。哲学者カントは『よく生きるためには神を想定することが要請される』と主張して後世に大きな影響を与えました(@実践理性批判)。「神がいない」と人間は思い上がる。「人間だけが正しい」と盲信し他者を見下し自然を破壊する(その象徴がバベルの塔でありファウストだ)。傲慢な行動の最終的な到達点が「遺伝子操作」であり「出生前診断」です。が、自分を「神のように」祭り上げる人間の行動はいずれ自然(神)からしっぺ返しされます。進化論や優生学の政治的な悪用(社会ダーウィニズム)は既にナチス時代から存在し、最終的には「障害者虐殺」にまで至りました。「人間の思い上がり」をたしなめる謙虚な思考こそが正当。そもそも進化論を「弱肉強食」と理解すること自体が明白な間違いである。生き残った種は「強いから生き残った」のではなくて環境不適応だった部分が世界環境の変化で適応になったがために「偶然生き残った」に過ぎない。環境に順応しすぎると環境が変化したときに生き残れなくなる。生き抜くために何が良く何が悪いのか、なんて神ならぬ人間に判るはずがない。社会環境が変化すれば現在「不適応」な人が「適応」になることもあり得る(精神科医中井久夫先生の示唆)。
 ただし、この手の思考は行き過ぎると「障碍者礼賛」のように逆に走る場合もあって、この作品の中で障碍者は「天使」と表現されていました(ダウン症の子を実際に「天使」と表現する例があるようです)。この作品は「モラル過剰なところ」が若干鼻につくのです(多くの評論で指摘:手話通訳のような演出も私は不要・むしろ無い方が良いように思いました)。実際、ある障碍者の方が「私たちは何故世間人を感動させなければならないのですか?」とマスコミが描きたがる障碍者の美談化を批判していたことを記憶します。障碍者を見下げるのは間違いですけど、そうだからといって過剰に持ち上げるのもどうかと思います。本作品は「モラル過剰」なモチーフを、尋常ではない「言葉遊び」(衝撃だったのは「せいしをかけた戦い」なる表現:他にも「いでんし・いてんし・だてんし」「華氏32じゅうど」「あくまで天使」「わからな愛」など多数)や見事なパフォーマンス(光背俳優陣が身体を繋げて表現する骨格・伝導・DNA)で相対化している如きところがあり、この相対化により「商業演劇」としてかろうじて成り立っている感じを受けました。幕を使い演者自ら行う素早い場面転換は見事ですし、広瀬すずが「毒虫」になったかのような身体表現(カフカ「変身」のオマージュかな)には度肝を抜かれました(彼女の身体能力は凄い)。古代中世に及ぶ時間浮遊的セリフの散乱は「昔の野田作品を愛した熱狂的ファンにしか判らない暗号」ではないかと感じました(50年近い長年の贔屓へのご褒美か)。ひ巫女を含む遠い過去に話が飛ぶのは「命の選別は今に始まったことではなく昔から行われてきた人間の業」だからでしょうが(「古事記」にも蛭子がある:家畜や野菜も長年の「命の選別」で今がある)初めて観劇する、私の如き普通の観客からすれば、舞台上における突然の時間移動や役割変容には戸惑いますね(演じる役者さんも大変)。
 作品のモチーフである「相模原障碍者施設殺傷事件」(2016/7/26)では実際に多数の障碍者が犯人から刃物で殺傷されています。本作品では(ハーメルンと同様に)集められてきた障害児がフラスコのような巨大な容器の中で「焼き殺される」設定です。この設定こそ「華氏451度」(@ブラッドベリ)の世界観に繋がります。善良なもの(ブラッドベリにおける書籍:本作品中における障碍児)が社会から抹殺されるのがディストピアの情景です。華氏マイナス320度とは摂氏マイナス196度を指し、それは受精卵の凍結保存に使用される液体窒素の温度なのだそうです。人間が「神のごとく」生命の選別や操作を行うこと。そこに「巨大な問題が潜んでいる」ことは疑いがありません。けれども人間の遺伝子配列が既に解読されている現在、人間知性の1つである生命科学を単純に「悪」と決めつけてしまえば「問題が解決する」なんてことは絶対にあり得ません。実際、生命科学が人間の福利厚生に貢献している面も数多くあるからです(新約ならぬ新薬はその象徴です)。
 野田さんが自ら表現しているように、この芝居は「短い問いに長々と答えた」だけであり、しかも「全く答えになっていない」。社会に生きる誰もが、各自短い問いを抱え自分なりの考えを見出していくしかありません。「短い問いを長々と考える」それが生きるということだ(野田秀樹)。

*補足 「新潮」2026年6月号に戯曲内容が発表されているようです。可能であれば、この戯曲を読み込んで、もう一度観劇(感激)したい。そういう気持ちにさせる舞台でした。
*この作品の重要な動機になっている「ハーメルンの笛吹き男」に関しては阿部謹也先生(西洋中世史:一橋大学名誉教授)の著作(ちくま文庫)が極めて詳細です。阿部謹也先生は物語の背景に西洋中世における「差別」の問題が潜んでいることを明瞭に解き明かしておられます。

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