歴史散歩 Vol.99

久留米競輪2

前回は久留米競輪の「戦後」および「現在」を重点に紹介しましたので今回は久留米競輪の周辺に残る「戦前」の歴史の痕跡を古い方から時代順に散歩してみることにしましょう。この地が(俗にまみれた現在と異なり)久留米の「聖なる空間」であったことが判ります。

競輪場の存在する山域は正源寺山と呼ばれています。名前の由来である正源寺は元禄4(1691)年に天佑和尚により創建されました(黄檗宗)。寺院内には矢野一貞先生顕彰碑、井上満文学碑があります。矢野一貞は「筑後将士軍談」全56冊で知られる歴史学者です(岩戸山古墳の被葬者特定で知られる)。井上満は戦前ロシア文学の翻訳で知られる研究者です。
 
右奥に維新期久留米藩武士の墓地があります。明治4年の久留米藩難事件(「遍照院」参照)における最高責任者大参事:水野正名ら、戊辰戦争(関東出兵時)総督:有馬蔵人らの墓です。
 
 有馬藩は家老有馬監物や参政不破美作らの公武合体派が藩政を担当し現実的な開港策をとっていました。しかし慶応4年1月26日、参政不破美作が暗殺されます。首脳部は実行犯の行動を是認して公武合体派を処分します。テロ実行者の意に添う形で藩政を担うことになったのが尊攘派幹部:水野正名。久留米藩は戊辰戦争で政府に協力しますが開港に反対の久留米藩は開港を進める新政府から反政府的と目をつけられました。明治3年、長州で発生した騒擾の指導者:大楽源太郎が潜入したため久留米藩への嫌疑が更に大きくなりました。明治4年、大楽源太郎らは筑後川河畔で誘殺されます。久留米藩はこの事件で再び有為の人材を失います。「久留米藩難事件」と呼ばれています。これらの墓には幕末維新期における苦難が象徴されているのです。(下は水野正名の墓)。
   
 参道に戻ると、放生池(正源寺池)のほとりにドイツ兵俘虜の慰霊碑があります。国分村のドイツ兵俘虜収容所で亡くなったドイツ人は11名で、その墓は元々山川招魂社(「山川招魂社と陸軍墓地」参照)にありました。墓は陸軍墓地の移転とともに後述する忠霊塔の裏山に移されました。が、平成9年4月に現在地に再度移転されたものです。
 
 このように競輪場周辺には多数のお墓が存在します。その最大のものが陸軍墓地です。というより「競輪場の敷地全体が久留米の陸軍墓地の跡」なのです。意識さえすれば現在もその痕跡を明瞭に感じることが出来ます。陸軍墓地は昭和14年7月に建設が着手され、2年9ヶ月の歳月と経費25万円、延べ11万2000人の勤労奉仕によって完成しました。昭和17年4月に竣工式と鎮魂式が執り行われています。敷地の面積は約7万1000平方メートルで、大灯籠・参道・陸軍橋・忠霊塔・野外講堂・遙拝台などの遺構があります。(久留米市「歴史散歩」№23より引用)
 
競輪場入口に「忠霊鎮護之地」の碑があります。 

両脇にある大灯籠は靖国神社の大灯籠を模したものとされています。

表参道には楠の並木があります。昭和15年11月旭屋百貨店社員の勤労奉仕で植栽されたものです。昭和16年7月久留米郵便局職員の勤労奉仕で栗・銀杏・山桃が植栽されました。
  
 中参道には春日灯籠が北側に21基・南側に15基あります。
 
 参道を進むと真正面に競輪場の入り口がみえます。これを左目に見て参道を右に曲がると放生池(正源寺池)を跨ぐようにしてコンクリート造りの橋がかけられています。これが参道の重要な一部として作られた陸軍橋です。高さ15メートル・幅8メートル・長さ21メートルあります。左の欄干には「陸軍橋」、右の欄干には「昭和17年4月竣工」と銘があります。
 
結界(この世とあの世の境界)である陸軍橋を渡ると真の聖域となります。たくさんの地域住民の労働奉仕によって形成された石垣が整然と並んでいます。
 
 参道を登ったところに忠霊塔があります。陸軍墓地の中心施設です。基壇からの高さは17メートル、幅は3メートルです。渡部正夫陸軍中将の揮毫による「忠霊塔」の文字が刻まれています。山川の旧陸軍墓地から移された4030柱と新たに合祀された1018柱、合計5048柱が納骨所に安置されています。忠霊塔前の広場は(現在は芝生ですが)昔は玉砂利が敷き詰められていました。
 
 入口前の手洗鉢は水縄村から戦車で引かれてきたものです。
 
 昔この土地は石橋正二郎氏の私有地で、氏はこの地に3ホールの練習コースをつくっていました(氏は大正15年に発足した福岡ゴルフ倶楽部のメンバーです)。忠霊塔建設にあたり正二郎氏はこの私設練習コースを寄付したのです(石橋正二郎顕彰会会報誌20号15頁)。この地が戦後、競輪場になったのは石橋正二郎氏の本意ではないようです。

少し参道を戻って高良川沿いに出ると「臨川台」という公園があります。
 
  展望台から高良川沿いに降りる斜面に「陸軍」の銘が入った境界票があります。
 

正源寺に戻り、墓地の左側を歩くと野外講堂が見えてきます。直径22メートルで約500人を収容できる規模です。ステージとベンチが円形に配置され全体が土塁で囲まれています。ステージは円形で球面状の壁が付けられています。ステージの背後には楽屋もありました。ベンチはステージを扇の要にして3列に配置されベンチ平面も脚部もアーチ状をしています。昭和初期のこのような施設は全国的にも極めて珍しく貴重な遺構です。石橋正二郎氏がここで死者に捧げるコンサートなどを開くために建設したもののようです(それゆえ、この施設は昔石橋文化センターに存在した野外ステージに雰囲気が似ているという方もいます)。



 野外講堂の上方に揺拝台があります。末広がりの円柱状で、高さは4・8メートルあります。赤煉瓦を積み上げて作られており、内部は螺旋階段となっています。屋上に皇居の方角に向かって遙拝塔が設置されており「宮城遙拝」の文字が刻まれています。
 
 
 かように久留米の競輪場は陸軍墓地の広大な敷地の跡に作られたものです。戦争で負けたからとは言え、陸軍墓地という「聖地」に競輪場という「ギャンブルの施設」をつくることに対して遺族らの反対はなかったのでしょうか?史実は反対です。久留米競輪1で述べたとおり、競輪場誘致にあたり陸軍墓地奉賛会は昭和23年5月28日、広大な土地を寄付しています。久留米の街は昭和20年8月11日の空襲で廃墟となりました。復興するための資金は競輪場の収益金で賄う他はなかったのです。遺族も・そして戦争で亡くなった軍人の方々も、この土地が久留米の復興のために役立つのであれば本望だったのではないかと私は感じます。その期待のとおりに、競輪場は久留米市の復興に多大の寄与をしてきたのです。「久留米競輪の黄金期を築いた中野浩一選手は、この地に埋葬された先人の方々が、久留米の復興とその後の発展のために、生命を授けてくれたのではないか?」競輪場のまわりを散歩しながら、私はそんな空想をしたりします。(終)

* 山口淳氏が『軍都久留米』(花乱社刊)を出版されました。明治30年、久留米に陸軍第48連隊が設置されてから昭和20年の敗戦まで、軍都久留米の歴史を判りやすく記述された好著。

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