歴史散歩 Vol.116

薩摩街道と松崎宿

筑後の国を南北に貫いていた薩摩街道の宿場を北から挙げると松崎・府中・羽犬塚・瀬高。元禄時代は府中までを薩摩街道・神代から本郷を経由する道を豊前街道・松崎から山家までを筑前街道とも称していました。今回は薩摩街道を南下して松崎宿(小郡市)を抜け久留米に至るまでの風景を紹介することにしましょう。薩摩街道は長崎街道山家宿から南に分岐しています。石櫃(いしびつ)の追分から街道を南下すると馬市(筑紫野市)と乙隈(小郡市)の中程に見事な国境石が置かれています。「従是南筑後國」「従是北筑前國」という立派なものです。現在もこれが両市の境界です。
 
 薩摩街道は昔の道幅を維持しているので車の離合にも苦労します。そのため直ぐ東に広いバイパスが作られており、多くの車両はバイパスを通っています。干潟の一里塚跡を抜けて現在の大分自動車道をくぐると右手に霊鷲寺(りょうじゅうじ)があります。後述する松崎藩主・有馬豊範の菩提寺です。格式が高いため参勤交代の大名も駕籠や馬から下りて礼拝して通過することになっていました。入り口には「下馬」の石碑があります。境内には近頃修復された立派な山門があり、本堂前には素敵な観音像があります。
この寺には稲次因幡の墓があります。稲次因幡は享保一揆(享保13年・1728年)に際し農民に有利な解決を導いた家老です。享保一揆は増税を発端として始まり、総勢5700人余りの農民が善導寺(久留米市)に集結しました。藩側で折衝に当たった稲次因幡(当時27歳)は農民の要求に応じるとともに首謀者らの刑事責任を追及しないという当時としては極めて寛大な処置をとりました(後年の宝暦一揆では多数の者が検挙され死刑に処せられています)。そのため稲次因幡は藩主や家老仲間から不評を買い、享保19年、津古(小郡)の庄屋宅に幽閉させられるとともに3000石の家老から10人扶持の士に降格させられました。死罪を免れたのは家老の岸刑部と有馬監物による藩主への嘆願書によるものです。
 稲次因幡は不遇の内に2年後に死亡し(享年35歳)この寺に葬られました。後年久留米に五穀神社が建立される際に稲次因幡は「農民の神」として五穀神社に合祀されています。大正時代に社会主義思想に傾倒した有馬家当主・有馬頼寧(08/2/9「有馬祈念の生みの親」)が顕彰碑を揮毫しているのは「自分の社会的地位を善用すべきだ」という自分の信念に近いものを稲次因幡に見出したからに違いありません。

 小郡市を東西に横切る国道500号線を渡ると松崎宿。まず北構口を見学します。構口は宿場を警備するための防塁で非常時には兵士が警備しました。幅4メートル・高さ2メートルです。
 構口を過ぎると桝形がきれいに残っています。
 
 枡形を過ぎると現在の道路に繋がります。直ぐ左に「油屋」という旅籠が目に入ります。小郡市指定有形文化財であり、昭和初期まで旅館として営業を続けていました。この旅籠には江戸末期に高山彦九郎・伊能忠敬・西郷隆盛らが宿泊しました。西南戦争の際は有栖川宮の陣営として使用された記録が残っています。乃木希典が昼食を取ったことも乃木の日記から判るそうです。
 松崎宿は(後に説明する)有馬豊範によって整備された宿場です。最盛期には戸数129軒・旅籠26軒・商家6軒がありました。藩主クラスが宿泊する御茶屋があり、手紙や物資運搬を担う駅伝も設けられていました。良く出来たイラストマップがあるので引用します。
  有馬藩第2代藩主忠頼には子供がいなかったので出石藩(兵庫県)に嫁いだ妹の子有馬豊範を後継として幕府に届け出ました。ところがその後に忠頼に頼利・頼元の男子が産まれたので、寛文8(1668)年忠頼が死亡した際に、頼利が跡を継ぎ、豊範に御原郡19ヶ村(1万石)を与えて分家させたのが松崎藩です(17年後に消滅)。松崎城の本丸跡は現在県立三井高校の敷地となっています。城と言っても1国1城令が存在するため館という程度のものでした。城から東に抜ける道は「桜馬場」と呼ばれており、桜の名所となっています。以前ここには福岡法務局久留米支局三井出張所もありましたが現在は廃庁されています。
           
 三井高校の前にかつての松崎城址の説明版があります。
 
      
 街道に戻り南に300メートルほど歩いたところで道は右に折れます。カギ型の道路を左に曲がると鶴小屋という古い家屋があります。この建物の所有者は御鶴番の黒岩氏ですが、文学者野田宇太郎の両親が料亭「松鶴楼」として使用していました。
 
 野田宇太郎は明治42年10月に鶴小屋の前の家で生まれました。昭和5年久留米に出て同人誌「街路樹」に参加し昭和11年には詩誌「糧」を創刊。ここから丸山豊ら筑後を代表する詩人が多数生まれました。昭和15年上京して出版社に入社し戦時中も文芸誌「文藝」の編集者として文芸の火を守り続け、無名であった三島由紀夫や幸田文を見いだしました。昭和26年以降「文学散歩」の連載を開始し(全27巻)戦後の文化遺産や歴史風土の破壊に警鐘を鳴らしました。島崎藤村記念堂・森鴎外記念館・博物館明治村の建設など多くの文化遺産の保存に力を注ぎました。近郊では柳川の北原白秋記念館の開設でも尽力しています。宇太郎の作になる「明治村からの言葉」は今読んでも古さを感じさせない美しい文章です。
 南構口は幅3・8メートル、奥行4・2メートル、高さ1・9メートル。貴重な遺構です。
 構口を出て南に歩きます。狭くて説明版も無いので初めて歩く方には判りにくいかもしれません。しばらく歩いていくと古飯(ふるえ)という在郷村があります。県道14号線に出る信号の直前(左)に大きな石碑がある広い土地があります。古飯の庄屋であった高松家です。石碑はこの名家で生まれ医師として活躍した高松凌雲を顕彰するものです。
  
 高松凌雲は天保7(1836)年に高松家三男として生まれました。大坂で緒方洪庵に医学を学び、徳川家の医師となりました。慶応3年、徳川昭武(慶喜の弟)を代表とする幕府使節団の一員としてパリ万博に随行して医学を学び、ヨ-ロッパの各地を回りました。その時に凌雲は欧州の戦場における「赤十字の人道活動」と出会います。アンリ・デゥナンが提唱した国際赤十字条約が1864年に締結されていたのです。パリでは「オテル・デュ」(神の家)という市民病院で実際の医療活動を学びました(シテ島の中心にあるこの病院は浄財で維持されており貧困者には無料で医療が施されていました)。しかし鳥羽・伏見の戦いが勃発したため、残念ながら凌雲は急遽帰国することになりました。凌雲は赤十字の精神にのっとり函館戦争で敵味方の別なく負傷者を治療しました。東京に帰った凌雲は新政府から士官を要請されましたが「二君に仕えず」としてこれを拒否。東京の下町で開業し貧困により医療を受けられない人々のため明治12年に「同愛社」を設立しました。「日本における赤十字の祖」とされています。大正5年に亡くなるまで貧困者への医療に貢献しました。
 更に南に歩いていくと、光行茶屋・古賀茶屋を経て、久留米の府中宿(高良大社門前町たる性格もある宿場町)に向かうことになります。(終)

* 2019年4月6日に修復された油屋を訪問しました。
  中央の大階段がとても印象的です。
  各部屋に特徴的な意匠が施されています。
  
 (各部屋に雛人形が飾られ華やかな感じに満ちていました。)
驚いたのが職員さんから見せていただいた胞衣壺(えなつぼ)。胞衣は今で言う胎盤のこと。昔は胞衣を家の中の地面に埋めていましたが、その埋め方が悪いと生まれた子の健康や性格などに悪い影響を与えると考えられていました。そのため埋め方には多大なる注意が払われていたのだそうです。平安時代には貴族にその作法が確立しており16世紀頃に庶民にも慣習が伝わっていました。酒で胎盤を清め、男子であれば墨や筆、女子であれば針などとともに埋納していたのだそうです。
  別棟になっている座敷の部屋も見事な造り。敷かれている畳も立派。
 
* 日本赤十字社熊本県支部のHPより引用。<1867年(慶応3年)佐野常民はパリで開催された万国博覧会に佐賀藩団長として参加。パリ万博は江戸幕府の他に佐賀藩と薩摩藩が出展し日本人が初めて参加した万国博覧会である。ここで常民はスイス人アンリ・デュナンが提唱した赤十字と運命的に出会う。その後オランダに行き日進丸の建造を発注し、西欧諸国の軍事、産業、造船術などを視察。パリではフランス皇太子に拝謁。イギリスを視察し、翌1868年(明治元年)に帰国した。パリ万博の江戸幕府代表団には「日本における赤十字運動の先駆者」とされる高松凌雲がいた。幕府は、倒幕運動で国内が混乱しているなかで、国際社会からの認知を受け幕府の主権を固めたかった。そのため徳川慶喜は弟の昭武を代表に日本代表団を派遣することとし、凌雲は西洋医学の知識と語学力が評価されて代表団の随行医に選ばれたのである。

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