歴史散歩 Vol.117

ちょっと寄り道(吉野)

吉野は子どもの頃から惹かれましたが行く機会がありませんでした。今般、吉野を散歩する機会を得て感銘を受けましたので小文をまとめました。以下、歩いた順に御案内します。
(参考文献「日本の名寺を歩く06・金峯山寺」朝日新聞出版、宮城泰年他「修験道という生き方」新潮選書、塩沼亮潤「大峯千日回峰行」春秋社、五條順教「吉野修験大先達の遺訓」大法輪閣、田中利典「体を使って心をおさめる修験道入門」集英社新書、森茂暁「南北朝の動乱」吉川弘文館、呉座勇一編「南朝研究の最前線」亀田俊和「初期室町幕府研究の最前線」洋泉社新書yなど)

突如、吉野を訪れたいと思った。吉野の歴史に惹かれたからだ。飛鳥で発生した「乙巳の変」後に古人大兄皇子は異母兄(中大兄皇子・天智)から追われ吉野に逃げる。天智の実弟(大海人皇子)は野心を糾されたとき吉野に逃げ「壬申の乱」に勝利して天武天皇になる。約500年後の源義経や、その約140年後の後醍醐天皇が逃れたのも吉野。私は「吉野が長年にわたり逃げ場所の役割を果たしてきた理由」を知りたいと思った。そこで4月末の連休を生かして訪れてみた。
 京都駅で奈良方面行きの近鉄電車に乗る。橿原神宮前駅で吉野行きに乗り換える。電車は飛鳥駅を通り過ぎ深い山の中へ分け入ってゆく。下市口を通り過ぎると車窓右手に吉野川が広がる。川を横切る鉄橋が視界に入る。今でこそ、この鉄橋により吉野川を苦労なく渡れるのだが、近鉄の線路が今の吉野駅まで延長されるまでは六田(昔の吉野駅)から柳の渡しで吉野川を渡り尾根筋に沿って六丈平(現在の吉野神宮)を通り下千本に出るのが吉野へ至る通常の行程であった。吉野神宮駅を通過する。明治11(1889)年6月、後醍醐天皇を祀る吉野神宮の創建が明治天皇の意向で決定したとされる。明治25年に社殿が竣工し、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。この創建に学術的根拠はなく、南朝を正統とする維新イデオロギーで実行されたのだろう。
 吉野駅に到着。深い山の中だ。吉野山上まで歩いて登る道(七曲がり)もあるが私は3月初頭に膝の内視鏡手術を受けていた。ロープウェイで直線的高低差を感じたい気持ちもあった。そのため直ぐ前にあるロープウェイ乗り場に出向いた。良い時間の登り便が出ていたので乗車した。この感じは何処かに似ている。信長の岐阜城だ。下からの挑戦を退ける圧倒的な高低差。この感じは実際に山上に登らないと判らない。数分で吉野山上の駅に到着した。少し歩いただけで、ここが山城的構造をもっていることは実感できる。それを象徴する「黒門」がある。ここが戦いの場であることを予感する。少し歩くと「鋼の鳥居」(発心門・重要文化財)が来る者を阻む。この地が宗教的別世界の入口でもあることを実感させる独特の構えである。山上詣でをする修験者は次の歌を唱えるらしい。
      

吉野なる 鋼の鳥居に手をかけて 弥陀の浄土に 入るぞうれしき

西洋に於いて山は「悪魔の住む所」という負のイメージが強かった。近代科学の発達により悪魔の存在が否定され初めて人々は安心して山に向かうようになった。これに対し日本の山は「母なる自然の一部」であり「神の鎮座するところ・弥陀の浄土」だったのである。
 泊まるのは「吉野荘・湯川屋」である。入り口は4階。吉野造りという特殊な構造である。吉野は細い尾根道に形成された街並みであり両脇は深い谷になっている。旅館のような大型の建築物は斜面に強い土台を設けて構築されている。それゆえに入り口が4階になるのである。泊まる部屋には下の階に降りていくことになる。食事には早いので少し町並みを歩くことにした。南に数分歩いた所に金峯山寺がある。金峯山寺は金峯山修験本宗の総本山であり、今も多くの修験者が厳しい行を続けている。最初に対面するのが「仁王門」(国宝)。重層入母屋造り、棟の高さは20・3メートル。日本屈指の山門である。高さ5・1メートルの仁王(重要文化財)が来る者を睨みつけている。ここをくぐると「蔵王堂」(国宝)がある。高さ34メートル。現在の蔵王堂は、戦国時代の天正9(1581)年に火災で焼失したあと、天正19年に再建されたものである。蔵王堂内部の参拝は翌朝だが、外から眺めるだけでも吉野のシンボル蔵王堂には凄い存在感がある。
 紀伊山地の霊場全般について考える。紀伊山地の霊場と参詣道は和歌山県・奈良県・三重県にまたがる霊場(吉野大峰、熊野三山、高野山)と参詣道を登録対象とする「世界遺産」だ(2004年7月7日登録)。標高1000メートル超級の山々が連なる紀伊山地を日本人は太古の昔から神格化して崇めた。神武天皇は八咫烏の先導により熊野から大和の卯田下県を経て吉野に入ったとされる。6世紀に仏教が伝わる。7世紀後半に紀伊山地は山岳修行の地となる。9世紀に伝わった真言密教は高野山を霊場とした。10世紀から11世紀にかけ盛んになった修験道は吉野大峰や熊野三山を主たる修行場とした。高野山・吉野・熊野の各霊場を結ぶ参詣道が整備された。半島中部を東西に横切る中央構造線上に水銀鉱脈があり、これを祀る丹生信仰も基底に存在する。南方にある「補陀落浄土」を目指す信仰も吉野の聖性を高めることになった。
 修験道は役行者が開いた山岳宗教だ。7世紀(飛鳥時代)に活躍した役行者は葛城山(金剛山・大和葛城山)や大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で「金剛蔵王大権現」を感得し、この地に金峯山寺や大峯奥駈道を開いた。これは観念的な思想ではなく徹底した身体性の哲学に立脚する。役行者は1冊の本も残していない。修験道におけるこの身体性の重視は加持祈祷を行う真言密教(空海・高野山)にも通じるところである。吉野は大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場(大峯奥駈道)の北の玄関口である。その最高の修行は「千日回峰行」。成就した塩沼亮潤氏は次のように説明する。山伏の姿になって午前0時30分頃に蔵王堂を出発する。午前5時頃に夜が空ける。8時半頃に大峰山頂に到着する。この間の距離が約24キロで高低差は約1400メートルだ。午後3時半過ぎに蔵王堂に帰る。これを120日間繰り返す。峰行ができるのは春から秋にかけてのこの120日間だけ。これを約9年続けると1000日になる。注意して欲しいのは上記期間の紀伊半島は雨が多いことである。晴れの日でも苦しいのに風雨の強い日に上述した山道を歩くのはなんという難儀な修行であろうか。この他「四無の行」なる荒行もある。「断食・断水・不眠・不臥を八日間続ける。」食べる・飲む・眠るという生物としての欲望を絶つことにより悟りを得るものらしい。驚愕。
 かような神仏習合に立脚する修験道は明治新政府から徹底的な弾圧を受けた。明治元年の神仏分離令は神仏混淆に立脚する修験道を根底から揺さぶるものであった。明治4年の上地令で境内以外の朱印地は政府に召し上げられた。これだけならまだ良い。とどめは明治5年の「修験道廃止令」である。修験道という宗教思想体系そのものへの直接的な弾圧であった。昔からある修験道の山で、仏教系の姿で生き残ったのはこの吉野の金峰山だけである(羽黒山・英彦山・石鎚山・三峰山などは神道系としてかろうじて生き残った)。「明治の日本政府が潰そうとしたもの」が後世において「外国から『世界遺産』として認められる」とは何と皮肉なことであろうか。
 尾根道を南へ歩く。両脇に土産物店や旅館が並ぶ。「吉野といえば桜」である。吉野において桜は特別な存在。地名も下千本・中千本・上千本という桜にかけている。吉野の桜は蔵王権現に献木された「お供えの花」。1300年前、役行者が金峯山上で蔵王権現を感得し、その姿を桜の木で刻んだことにより御神木となった。注意すべきことがある。今の日本人がイメージする桜はソメイヨシノ。最初に花びらだけ咲き直ぐに散って後で葉が出る。ソメイヨシノは江戸から明治初期にかけ品種改良され観光用に全国で植林されたクローン植物だ。しかし吉野の桜はソメイヨシノではない。昔からあるヤマザクラだ(最初に葉が出て、その後に花びらが出る)。吉野における桜が観光用に植えられたものでないことと符合する。吉野は「神仙境」としてのイメージに包まれている。吉野川と音無川により清められ霊気が蓄えられた道教的な理想郷でもあるのである。「ガラスの仮面」(@美内すずえ)における劇中劇「紅天女」の舞台が吉野を想起させるのは決して故なきことではない(ただし「桜」は「梅」に置き換えられている)。「桜の森の満開の下」(@坂口安吾)における美しく恐ろしいイメージも吉野を舞台としなければ現出させることが出来ないと思う。
 中千本の途中で来た道を折り返す。1日目はこれくらいにして湯川屋に帰る。

2日目の朝。日の出前だが案内された金峯山寺の朝勤行に参加するため起床する。蔵王堂は私たちを含む多くの観光客で溢れていた。蔵王堂の中に入る。重層入母屋の巨大な建物を支える68本の柱はスギ・ヒノキ・ケヤキなど雑多な樹木による。太さも材質もバラバラ。なのにバランスがとれて美しい構造物を形成している。文字通り「適材・適所」なのだ。本尊である蔵王権現立像は秘仏である。ゆえに通常は扉の向こう側に隠れその姿を拝むことが出来ない。が、今回は幸運にも特別に開帳される時期にあたっていた。堂中に3体の巨大な権現像が目前におはしまする(中央の像は7・28メートルにも達する)。この3体の権現像は各々釈迦如来(過去)観世音菩薩(現在)弥勒菩薩(未来)を本地仏とする。青黒いその姿は(不謹慎かもしれないが)山中で遭遇した巨大なヘビの色を私に想起させた。普通の仏像を観たときに感じる美しい感覚はとても浮かばない。役行者が感得したとされる蔵王権現の姿は知識や理屈を超えている。それは、修験道の行者が山岳の自然に対して感じるべきもののごとく「頭で理解するもの」ではなく「身体的に感得されるべきもの」なのであろう。
 蔵王堂の前に「大塔宮御陣地」がある。吉野が山城としての意味を有していたことを意識させる。吉野の尾根は細長く両側は急峻な斜面であるため天然の要害である。城跡としては吉野城内郭(蔵王堂)の他に出城として六田塁・一之坂塁・丹治塁・飯貝塁があり、薬師堂付近にも防御態勢が取られていた。最初の築城は1332(元弘2・正慶元)年。後醍醐天皇の子である護良親王(大塔宮)が築いた。護良親王は吉野城を拠点として赤松則村・赤松則祐・村上義光・木寺相模らとともに十津川・吉野・高野山などを転戦し2年間鎌倉幕府軍と戦った。幕府側として大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏(尊氏)・新田義貞らが加わったが、楠木正成と護良親王が潜伏して抵抗を続けたため執権・北条高時は関東から30万の大軍を派遣した。元弘(1333)年1月、吉野に二階堂貞藤、金剛山に大仏家時、赤坂城に阿蘇治時が大将となって攻撃を開始。同年2月、護良親王は高野山を経由し楠木正成の千早城へ逃げ延びた。この隙をついて後醍醐天皇は閏2月24日に隠岐国配所から脱出して船上山に入り「討幕の綸旨」を全国に発した。播磨の赤松則村・伊予の河野氏・肥後の菊池武時らが蜂起したため千早城を囲んでいた幕府勢は相次いで帰国。後醍醐天皇から誘いを受けていた足利尊氏は幕府を裏切り、京の六波羅探題を陥落させた。新田義貞を中心とした叛乱も関東で発生し形勢は逆転。鎌倉幕府は滅んだ。この「倒幕」の記憶は後の日本史を長く呪縛することになる。
 蔵王堂に向かって左(東)の階段を降りると吉野朝宮跡だ。建武の新政が失敗したことにより、建武3(1336)年、後醍醐天皇は京の花山院を脱出し吉野に入る。当初は吉水院に滞在したものの、手狭だったので蔵王堂隣りにある実城寺を改築し「南朝皇居」とした(妙法殿)。遙かなる歴史を感じながら蔵王堂の坂を下って細い尾根道を南に向かう。直ぐ近くに東南院がある。現在、金峯山寺修験本宗の護持院として総括的な立場にある。多宝塔が美しい。南下し左手に下って上がると吉水神社。元は僧坊「吉水院」であるが明治の廃仏毀釈により神社にされたものだ。寺宝の後醍醐天皇像は明治時代に前述した吉野神宮に移されている。書院には後醍醐天皇の玉座の間が残されている。吉水神社から見る金峯山寺の姿は美しい。だからであろうか、桃山時代における秀吉の花見においては秀吉本陣とされた。ここには日本史上に名を残す3名の歌がのこされている。
    

   吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき(静御前)
    花にねて よしや吉野の 吉水の 枕の下に 石走る音(後醍醐)
    年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな(秀吉)

桜本坊へ。天智に追われた大海人皇子(後の天武天皇)が逃れてきた場所と伝えられている。壬申の乱に勝利した天武天皇が夢で見た桜の木の場所に寺を建てたという伝承がある。勝手神社。ここは義経と別れた静御前が「法楽の舞」を舞った地と伝えられている。このまま尾根を南へ歩くと西行庵がある奥千本だ。足の状態や時間を意識し、今回の旅で西行庵を訪れるのは断念した。西行は桜を題材にした歌を生涯に約230首詠んでいるらしい。桜に満ち満ちた吉野は「神仙境」そのものであった。西行が自分の死を予感して詠んだ最も著名な歌。
    

願わくば 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

如意輪寺へ向かう。建武の新政が滅んだ後、後醍醐天皇は吉野にて南朝を主張するものの、皇位を後村上天皇に譲った後、延元4(1339)年8月16日、如意輪寺にて齢52歳で死去。死の床で後醍醐天皇は次の言葉を残した。
    

玉骨はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん

後醍醐天皇は自ら真言密教の加持祈祷(聖天供の修法)を行った。したがって、その言葉には呪術的な意味合いが強く込められている。後に足利尊氏が夢窓疎石の勧めによって天龍寺を創建したのは(表向きは)後醍醐の菩提を弔うため(内実は)後醍醐の強力な「呪い」を解くため不可欠のものであったと考えられる。後醍醐天皇の遺骸は如意輪寺の裏山(塔の尾)へ埋葬された。後醍醐の京に対する願いを表すために天皇陵としては唯一北向きであり「北面の御陵」と呼ばれている。
 山道を歩き湯川屋に戻る。荷物を受け取り帰途に就く。ロープウェイで吉野が逃げ場所の役割を果たした理由をもう1度考える。紀伊山地は全山が修験道の修行地。修験道は身体性を重視する呪術性の強い思考体系であり、その拠点が吉野であった。吉野は都市という「脳化社会」からは異質の世界であった。都市である京都・奈良から見れば吉野は「南」の端であるが、紀伊半島の山岳ネットワークから見れば「北」の端。大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場(大峯奥駈道)の玄関だ。霊場には身体能力を高めた行者が多数存在した。彼らは信仰的正義を見いだした者を全力で庇護する気性を有していた。ここに匿われた者を都市勢力が実力で奪還することは容易ではなかったのだ。

 吉野駅から帰路の近鉄電車に乗る。電車の中で考えごと。八女(黒木町)を出身地とする私には南北朝時代の痕跡を追い求めるDNAのようなものが流れている。星野村や矢部村は南北朝時代に最後まで後南朝の拠点だったところだ。南朝の本拠であった吉野村と八女市は縁が深く、平成26年9月23日(御旗祭りの日)に両自治体において「友好交流都市協定」が交わされている。
 私が吉野を訪れたいと思ったのは教科書的な知識で吉野に惹かれたからではないのであろう。おそらく、それは子どもの頃から馴染んできた「南朝の拠点」としての記憶が、私に対し意識下の「はるかなる遠い繋がり」を求めて吉野に向かわせたものに違いない。

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