歴史散歩 Vol.115

ちょっと寄り道(宮崎)

宮崎は歴史の「深さ」と「浅さ」が極端に混在する不思議な街です。以下、1日目は市内中心部を軽く歩いて「宮崎市の成り立ち」を考え、2日目は自動車を使い広域的にドライブしながら「廃仏毀釈という文化破壊」の痕跡を感じましょう。本稿の作成に当たっては市内にお住まいのNさんから多大なる御協力をいただきました。ここに記して深遠なる謝辞を申し上げます。(参考文献:西村幸夫「県都物語」有斐閣、田代学「宮崎市街成立史」江南書房、坂上康俊「宮崎県の歴史」山川出版社、鵜飼秀徳「仏教抹殺」文春新書、佐伯恵達「廃仏毀釈百年」みやざき文庫)

宮崎の歴史散歩は県庁から始める。宮崎は県庁の設置によって生まれた街だからである。多くの県庁所在地は城下町だった。城そのものが県庁舎になった所もある。しかしながら、かかる一般論は宮崎には全く当てはまらない。何故ならば宮崎は明治時代にゼロから建設された県庁所在地として例外的な街だからである。江戸時代、今の宮崎県域(旧日向国)には4つの藩が存在した(延岡藩・飫肥藩・高鍋藩・佐土原藩)。明治4(1871)年7月に断行された「廃藩置県」で藩は県になる。更に11月に302県が72県に統合されたことで日向地域は大淀川を境に北が「美々津県」南は「都城県」とされた。明治6年、政府は更に広い県域を定める再編を行い42県とした。このとき美々津県と都城県を合併した「宮崎県」が同年1月15日に発足したのである。
 初代参事福山建偉が着任後最初に着手したのが県庁の設置だった。福山は大淀川河畔「上別府村」に県庁を置く(村が県庁所在地になったのは札幌・長野と宮崎だけ)。当初は大淀川に面した今の宮崎観光ホテルの地が予定されたが洪水の危険があるので内部に入った現在の場所が選ばれた。福山は同年7月政府への新庁舎許可伺で「旧習を墨守し文化のなんたるかを知らない民であるから千万のコトバより一の形をもって示したく西洋風の建物を建築したい」と述べている(宮崎県史)。政府は許可しなかったが、福山は「鐘楼・唐破風付の和風建物」に設計変更し政府許可を得る前に着工して翌年5月には完成させてしまった。宮崎はこの県庁舎を中心として領域を形成してゆく。宮崎が市に昇格したのも遅く大正13(1924)年であった。当時、県下の3大都市は延岡・都城・宮崎であったが、3都市はほぼ同規模の都市であった。しかし戦後は宮崎市だけ大幅に人口増加し、県人口の約3分の1が宮崎市に集まる一極集中型の県となっている。
 現在の県庁舎(本館)は当時流行していたネオゴシック様式を用いて置塩章が設計したものである。昭和7(1932)年に完成した。総工費は約72万円(当時の価額)。鉄筋コンクリート造で地上4階・地下1階建である。東国原知事のときに全国放送のテレビに良く映され有名になった。この昭和7年は後述する橘橋の架け替えや橘通りの拡張など、大事業が行われた年でもある。現在の宮崎市の骨格はこのときに形成されたと言っても良い。県庁前にある宮崎県文書センターは宮崎農工銀行として昭和元年に竣工したものである。平成14年から県の所有となっている。
 県庁前通りには県警本部・裁判所・検察庁など重要な公共機関が並んでいる。この道路を西に向かって歩くと橘通りに出る。橘通りは南北に延びる今の宮崎のメインストリートである。この橘通りを横切り50メートルほど西に直進すると何の変哲もない交差点がある。南側に市役所の庁舎が見える。この交差点から北に延びるのが上野町通りだ。この上野町通りこそ、昔の宮崎のメインストリートだったところ。明治初期に架橋された初代橘橋は上野町通りに直結していた。
 橋が出来る前の渡船場は現在の宮崎市役所にあった。初代の橘橋は明治13(1880)年に福島邦成により架けられたものである。江戸時代に大淀川は藩境だったので意図的に橋が架けられなかったのだ。福島邦成は文政2(1819)年生まれ。17歳の時に江戸・京都・大阪で西洋医学を修めて医師となり延岡藩に仕えた。明治12年、邦成は大淀川に架橋する必要性を唱え、翌13年に私財を投じて初代橘橋を架橋した。自ら「橘橋」と命名して渡橋者から渡り賃を取った。この初代橘橋は事後の公共工事により掛け替えを繰り返し、現在の橘橋は7代目である。「橘通り」という通りの名称はこの橋の名から付けられたものである。橘通りは戦後に拡幅され南北のメインストリートになったので逆に橘橋が橘通りに直結するように東側に掛け替えられた。
 上野町通りを北に歩く。大成銀天街のアーケード・ショッピングセンター青空の看板・木挽の巨大なアーチ。この付近は昭和30年代まで映画館があり商店が軒を連ねる繁華街であった(現在は風俗街の色彩が強くなっている)。バラック露天の青空市場が撤去され三角広場となっている。平成16年に姉妹都市・バージニアビーチ市の灯台を模して設けられた「ヘンリー岬灯台のモニュメント」がある。周囲の風景と馴染んでいないので違和感がある。「一番街」というアーケード街に出る。昔の宮崎の主たる東西軸である。ここから東の方向に橘通りを突き抜け「若草通・広島通」と続く東西路は先端に宮崎駅を臨んでいた。というよりもこの軸線上に宮崎駅が設けられたと言うのが正確である。昔の宮崎の南北軸が上野町通りであり東西軸がこの通りであった。したがって今立っているこの場所こそが昔の宮崎商業地の中心点であったのだ。宮崎商業地の中心は(街の東西軸が高千穂通に移り・南北軸が橘通りに移ることによって)東北方向に(各約100メートルほど)移動している。
 現在の宮崎市の中心は高千穂通と橘通の交差する橘通り3丁目の交差点である。ここには百貨店の「宮崎山形屋」と「ボンベルタ橘」(旧・橘百貨店)が対面して建っている。橘百貨店は1975年に会社更生手続開始申立を行った。76年ジャスコによって買収され閉店。橘ジャスコとして営業を再開した。82年に更生手続が完了する。社名は橘百貨店に戻された。85年店舗建替が計画される。86年秋ユニード閉店跡に仮店舗をオープンして建物解体工事を開始した。そして88年「ボンベルタ橘」として現在の姿で再オープンしたものである。
 宮崎市は街全体が1種のテーマパークという印象がある。昭和40年代、新婚旅行のメッカとして脚光を浴びた。宮崎の観光ブームに火をつけたのは昭和35年に島津久永・貴子(昭和天皇第5皇女)夫妻が新婚旅行で日南海岸沖の青島を訪れ、2年後の昭和37年に皇太子夫妻(平成天皇皇后)が宮崎を訪れたことと言われている。これに釣られた庶民の新婚旅行先として人気を集めた。県市は路・河畔・海岸にフェニックスやワシントン椰子を植え南国ムードを演出した。これらは自然に存在するものではなく昭和40年代に政策的に形成されたものだ。橘通りにワシントン椰子が多数植栽され中央分離帯が設置されたのは昭和42年である。大淀川沿いには観光客を見込んだ旅館ホテルが多数建設された。ピークの頃は宮崎市に年間37万組も新婚客が宿泊したという。しかし日本の経済発展に従って新婚旅行の行先はグアム・ハワイなどの海外に移った。宮崎の「ハネムーナーのメッカ」としての賑わいは去った。多くの旅館やホテルが閉じられ、現在は静かな街並みとなっている。
 宮崎駅に向かって伸びる広い高千穂通り。ツタヤ書店の入っているビルから右折し南に入ると広島通りである。昔は華やかであったであろうこの通りも今は寂しさを感じざるを得ない。かつては広島通りの突き当たりに駅があったが、街の東西軸が高千穂通りに移ることにより駅も若干北側に(高千穂通りの正面に)移設されている。
 広島通りの一本南側の角地にマンションがある。その入口付近に「西郷隆盛駐在跡」碑と「敬天愛人」碑がある。西南戦争の最中である明治10年(1877)5月、薩摩軍は宮崎本営の名で軍政を布告した。庁舎を「軍務所」と改称して募兵と資金調達を開始した。戦況が厳しくなる迄、薩摩軍幹部はこの周辺で宿営していた。桐野利秋が川原町の旧宮崎県権令の官舎、島津啓次郎が中村町の福島邦成邸、そして西郷隆盛が南広島通りの農家である。この農家の跡が(カトリック宮崎教会を経て)現在はマンションになっているのである。
 その直ぐ近くに「石井記念こひつじ保育園」がある。石井十次は明治時代を代表する社会運動家である。慶応元(1965)年、高鍋町馬場原に生まれた石井は(同保育園ホームページによると)明治13年、岩倉具視暗殺の嫌疑で51日間鹿児島で収監されたという。明治15年、岡山県甲種医学校(岡山大学医学部)に入学。明治17年高鍋に帰郷しキリスト教会で受洗する。明治20年、孤児救済事業を開始。明治時代は国の社会福祉制度がなく資金は個人の善意や寄付に頼るしかなかった。そこで「孤児教育会趣意書」を作成、キリスト教関係者や医学校同窓生を中心に会員を募った。明治22年、石井は児童福祉に専心する覚悟を決め医師への道を断念。明治27年、院児60名を西都市茶臼原に送り開拓に着手した。明治31年岡山孤児院尋常高等小学校を設立。明治39年東北地方の凶作に際して救済に着手し、孤児825名を岡山に送り保護した。大阪のスラムにも分院を設け救済を行った。この大阪分院は大原孫三郎(倉敷紡績社長)が引き継ぎ「石井記念愛染園」として独立させ後に大原社会問題研究所へ発展する。石井は大正3年1月30日に死去(享年48歳)。岡山孤児院は大正15年に閉じられるも柿原政一郎が「石井記念協会」を設立。昭和20年の敗戦後石井の孫・児嶋虓一郎が家族を亡くした子どもたちのため児童養護施設をつくる事を決意し、宮崎に「石井記念友愛社」を設立して現在に至る。「こひつじ保育園」はその運営による。石井十次は以前から知っていたが(城山三郎「わしの目は10年後が見える」新潮文庫)この地に所縁の保育園があるとは驚きであった。石井十次は大正時代に拡がる理想主義的社会改革運動の先駆けとなった。渋沢栄一・大原孫三郎・有馬頼寧など「名士による社会改革の動き」は石井十次を抜きにしては語り得ない。昭和20年台以降に花が開く石橋正二郎の社会事業もこれらの先達をふまえたものと私は推察する。
 保育園近くのNさん宅に泊めてもらい楽しい夜。1日目はこれで終了。

2日目はNさんの車に同乗して廃仏毀釈の痕跡を広域的に廻ることにした。
 まず伊萬福寺へ向かう。橘通りを南に向かい南宮崎駅前の交差点を右折し1キロほど西に向かうと鳥の巣池がある。北河内町信号を左折すると「古城町門前」という地名。ここに伊萬福寺は存在する。推古天皇の勅願寺であり、600年頃(飛鳥時代)百済の僧・日羅上人が聖徳太子の依頼により来日し日向国に下向した折に池上山に建立したものという。伊萬福寺は64町歩を寺領とする日向きっての大寺院だった。もともと飫肥の領主伊東家は崇仏家であり多大の寄進をした。このため伊萬福寺は全国49伽藍の1つに数えられていた。が、この大寺院が明治初年に突如として歴史から消されてしまった。鹿児島宮崎で廃仏毀釈の嵐が激しく吹き荒れたからだ。鹿児島では藩主・島津家の菩提寺すらも廃寺とされたという。鹿児島では「1人の僧侶もいない」という極端な状況になった。伊萬福寺は廃仏毀釈により明治3年に廃寺とされたものの古城村檀徒からの復立願により明治17年に復寺した。が一度歴史から消された痛手は大きく未だに復興を果たせていない。境内には古い立派な仁王像がある。石段の脇には六地蔵もある。しかし、よく見るとそれら仏像には破壊の痕跡がある。首のところだけが明らかに新しく補修されている。五輪塔もバラバラだ。寺の裏には小さな社があるが付近に数十体の石仏が転がっている。廃仏毀釈の痕跡は未だ存在する。心の中で手を合わせる。
 市内に戻り大淀川を越えて西北に向かう。目指すは法華嶽薬師寺である。30キロ近く県道を西北にドライブ。長距離を運転するNさんには申し訳ない。国富町中心部を抜けいくつかの山を抜けた見晴らしの良い高所に法華嶽薬師寺はある。この寺は718年(奈良時代)に行基菩薩が釈迦岳の山頂に釈迦如来石像を安置し「金峯山長喜院」としたのが始まりとされる。平安時代に最澄(伝教大師)が唐から帰朝後、九州を巡錫した際に、薬師如来を彫刻安置し「真金山・法華嶽薬師寺」と改めたものである。日本三大薬師の1つと言われており、全国から病気平癒の寺として多くの参拝者を集めた。島津家祈願寺として往時は50人もの僧侶が集う大寺院として栄えていたという。
 和泉式部は「あらざらむ・この世のほかの思い出に・今ひとたびの逢うこともがな」という百人一首の歌で有名な歌人。この式部が病気になった際「法華嶽薬師に参拝すれば治る」とお告げを受け巡礼に来た。病が治り京の都へ帰る途中、愛染川で川を渡れず困っている老人を見付けた。背負って川を渡してほしいという老人の願いを「汚い身なりの貴方を背負うつもりはない」と言い放った式部には病気が再発していた。振り返ると老人は居ない。式部は老人が薬師如来の化身であったと悟る。悲嘆し身投げしようとした式部の前に薬師如来が現れ「そなたの病は心の病。清い心を持てばよくなる」とお告げをした。一心に祈願した式部は無事に病気が治り京に帰ることが出来たという。
 安土桃山時代、天正遣欧少年使節として派遣された4名の少年の内、最も位が高かったのが伊東マンショ。この寺にはマンショの幼名を記す物証・天井板が残されている(「虎千代麿」である)。
 幕末、西郷隆盛が月照和尚と錦江湾に身を投げたエピソードは著名だ。隆盛は助かるが月照和尚は死ぬ。この2人は法華嶽薬師寺へのお預けにより当寺へ護送される途中だった。薩摩藩の祈願寺である法華嶽薬師寺は政治犯が預けられる寺でもあったからである。薩摩から当寺に送られるときには東送りと西送りがあり、東送りの際は国境(高岡の去川関所)で命を絶つ慣わしとなっていた。2人は東送りであることを悲観して身を投げたのだとされる。
 高い寺格を誇った法華嶽薬師寺は廃仏毀釈により壊滅的な打撃を受けた。復興されたとはいえ規模は往時の10分の1にも及ばない。現住職の福嶋さんはいつもは地元で教師をしている。そうでないと食っていけないからだ。寺の背後に広い公園のようなスペースがある。往時は壮大な伽藍が並んでいたのではと想像する。時の流れの速さを感じながら山を下りて宮崎市内に戻る。
 宮崎神宮へ。社伝によれば本宮は神武天皇の孫にあたる健磐龍命(たけいわたつのみこと)が九州の長官に就任した際、祖父の遺徳をたたえるために鎮祭したのが始まりとされる。第10代崇神天皇、第12代景行天皇の熊襲征討の際に社殿が造営され、第15代応神天皇の代に日向の国造が修造鎮祭せられたという。ただ当時の社地は小さいものだったようだ。当宮が全国的な知名度を誇る崇敬神社に成長したのは明治以降である。天皇を国の中心に据えて近代国家への発展を図る明治政府はスローガンに「神武創業ノ始二基ツキ」の精神を掲げるなど、国の原点を確認することを求めた。そのために神武天皇を祀った古社である当宮が脚光を浴びることとなったのである。伊福萬寺や法華嶽薬師寺と反対に、宮崎神宮は(一見古いようでいて)実は新しい神社である。明治31年「神武天皇御降誕大祭会」が組織された。社格に見合った規模の大社とすべく、奉賛会が組織され全国規模での募財活動が展開された。皇室からの下賜金や政府の改築費なども支出された。昭和15年(皇紀2600年)11月25日、神宮境域拡張工事の竣工奉献祭が斎行された。これにより宮崎神宮は現在の「社格に見合った広大な境内面積」を得ることになったのである。
 直ぐ北の平和台公園へ向かう。この公園は神宮北の丘陵地(標高約60メートル)に位置している。Nさんによると地元の小中学生は下から階段を登って遠足に来ていたようだ。丘上なので市街地の眺めが良い。中心に位置する「平和の塔」(八紘之基柱)は昭和15年に皇紀2600年を記念して造られたものである。高さ36・4メートル。設計は日名子実三。「大東亜共栄圏」に君臨する国家として「日本古来の伝統的精神」を象徴する「八紘一宇」の文字が掲げられている。4体の荒御魂像が周囲に配置される。塔は世界各地の切石1789個を含んだ石材で構成されている。敗戦後は「軍国主義を意識させる」として上記「八紘一宇」の文字と荒御魂4像が除去されたが昭和37年(私が生まれた年)元に戻された。昭和39年東京五輪の聖火リレーの第2スタート地点として選ばれている。オリンピックが神話的国威発揚の舞台であることが判る。この選択には昭和15年に東京で開催されることが予定されたオリンピック(紀元二千六百年記念行事)が日中戦争の影響により開催権を返上して実現できなかった「負の歴史」のリベンジたる意味も込められていたのだろう。
 公園を出て南に向かう。目的地は鵜戸神宮。Nさんに40キロほど車を走らせてもらう。現在「神宮」と呼ばれているこの社も廃仏毀釈までは大寺院であった。桓武天皇の勅願寺として延暦5(786)年に開基されたという。典型的な神仏習合であり、鵜戸山大権現と称されていた。正式には吾平山仁王護国寺という。現在、バス等大型車両の駐車場となっているところから鵜戸神宮へ向かうには山を越えていくのが本来の参拝ルートである。この「八丁坂参道」の両脇には12もの支院(仏教寺院)が並んでいた。これら支院の大半の僧は廃仏毀釈により環俗させられ旅館業・土産物業あるいは農業に転向させられた。鵜戸神宮は明治7年に生まれた極めて新しい神社である。御神体とされているのは岩屋である。これを祀る住民の信仰は古代から(寺院建立以前から)存在した。だからといって平安時代以降の神仏習合史を全否定する「廃仏毀釈」の動きはあまりにも野蛮であった。
 鵜戸神宮を出て宮崎への帰路に付く。Nさんの家に到着したのは夕刻であった。宮崎における悠久の歴史の流れを実感できる、とても充実した1日であった。
 司馬遼太郎は「手掘り日本史」(文春文庫)「私の歴史小説」でこう述べる。

お布令一枚で廃仏毀釈という世界史上類の希な文化大革命がスラスラ行ったというところに日本人と日本史の本質の一部をのぞくことができます。お布令というものは徳川時代から続いています。“お上のこわさ”に対する強度の畏怖感があるんですね。それにしても、郵便でお布令が舞いこんだくらいの軽い手続きで、興福寺ともあろう仏教上の大権威が昨日までの仏教を捨ててしまう。捨てるだけではなく昨日まで拝んでいた仏さんを風呂の薪にして、その湯で坊さんが温まっているんです。昨日までは仏教だったが、きょうからはもう神道だ、ということで、これがほとんど絶対的な正義なんですね。(15頁)

 長崎を獲得したキリスト教徒が領地内の神社仏閣を1軒残らずに焼き払ったのは宗教的パッションによるものだった。狂信的イスラム教徒タリバンがバーミヤンの仏教遺跡を破壊したのも宗教的パッションによるものだった。が、廃仏毀釈は違う。そこに宗教的パッションは無かった。それは権力者の意向を忖度した民衆が自ら進めたものだ。鵜飼秀徳氏は「仏教抹殺」において宮崎の廃仏毀釈の特徴を「忖度による廃仏」と表現している(77頁以下)。廃仏毀釈を積極的に行っていた宮崎の人たちは真面目だったのではないか。「真面目」を「凡庸」(良い人)と言い換えても良い。「凡庸であるが故にどんなに悪いことでも権力者の意向を真面目に実行してしまう」人間のパラドクスは哲学者ハンナ・アーレントが喝破したものだが、宮崎の廃仏毀釈にも同じ気配を感じる。
 宮崎を散歩して感じるのは歴史の「深さ」と「浅さ」の混在だ。宮崎を彩る神話は「古事記」に由来するものである。伊萬福寺や法華嶽薬師寺は(飛鳥奈良の古寺に匹敵する)由緒ある寺院であった。他方、宮崎神宮は明治初期に拡張された新しい社であり「平和の塔」は昭和15年に皇紀2600年を記念して造られた。宮崎市そのものが明治初年に県庁が設置されたことによりゼロから構築された都市である。宮崎のイメージを決定的にしているフェニックスやワシントン椰子は昭和40年代に政策的に形成されたものだ。宮崎の歴史の「深さ」と「浅さ」をみていると「都市にとって歴史とは何なのか?」という根本的疑問を感じずにはいられない。(終)

* 橿原神宮(奈良県)も明治23(1890)年に創建された新しい神社です。神話が作り出した存在である「神武天皇」を祀りあげる政策的観点から創建された橿原神宮は(宮崎神宮が大拡張されたのと同じ)昭和15(1940)年、皇紀2600年記念行事に際し拡張され現在に至っています。「神武東征伝説」を軸として両神宮は結びついているのですね。
* 宮崎八幡宮に巨大な納骨堂が併設されています。一般的に神社は死を忌み嫌うものですから「神社に併設される納骨堂」は極めて珍しいものです。これは宮崎における極端な廃仏毀釈の進行が「墓地を管理する寺」を激減させてしまった結果だと考えることが出来ます。
* 「青島神社」も(明治以前は)弁財天で著名な神仏習合の色彩が強いところでした。現在、この仏教色は完全に排除されています。なお青島を取り巻く「鬼の洗濯岩」の地質学的な意義については「ブラタモリNo.18」(NHK)116頁以下を参照願います。
* 宮崎人の「良い人」らしさは時に権力者や巨大資本から利用されました。記憶に新しいのがいわゆるリゾート法適用第1号とされた「シーガイア・フェニックスリゾート」です。バブルの象徴として膨大な資金が投入されたものの、象徴であったオーシャンドームは既に取り壊され、45階建ての巨大なホテルは外資(シャラトン)の所有物になっています(涙)。
* ケネス・ルオフ「紀元二千六百年」(朝日新聞出版)が興味深い。著者は米国ポートランド州立大学日本センター所長。大変な知日家。著者によると(戦況が不利になるまでは)多くの日本人は生活を享受し戦争を支持した。1940年時点でも旅行部門は好調で観光はピークを迎えていた。戦争が消費を抑えるのではなく戦争は消費欲をあおり消費がナショナリズムを高揚させていた。記念行事で膨大な旅行需要に恵まれたのが神武天皇の神話を抱く宮崎と奈良であった。旅行先としての魅力が増したために両県はさらに神武伝説を盛り上げるという循環があった。皇紀二千六百年をあおったのは国や自治体だけではない。新聞社・出版社・百貨店・鉄道会社などの民間企業も祝典を巨大なビジネスチャンスと考えていた。
* 内田樹先生が次の指摘をされています。(2019年5月29日)
 泉涌寺は、13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は、後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然、歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。だから天皇制=国家神道という図式が成立するのは慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。つねづね申し上げている通り複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

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