歴史散歩 Vol.126

ちょっと寄り道(奈良1)

気候の良い時期にどこかを散歩したいなと思った時、これまで取り上げたことがない奈良時代が浮かびました。奈良には修学旅行で来たことがありますし大人になってからも複数回訪れています。が「歴史」の観点を固めての「散歩」をしたことは全く無かったのでこれが初めての「奈良歴史散歩」となります。今回は長くなるので「奈良歴史散歩1・2・3」として3回に分説しました。
参考文献 西村幸夫「県都物語」有斐閣、高橋康夫他「図集日本都市史」東京大学出版会、新版古寺巡礼「興福寺」「東大寺」淡交社、司馬遼太郎「街道をゆく24」朝日文庫、寺崎保広「聖武天皇」山川出版社、古川順弘「仏像破壊の日本史・神仏分離と廃仏毀釈の闇」宝島社新書、香取忠彦・穂積和夫「日本人はどのようにして建造物をつくってきたか・奈良の大仏」草思社。

大阪「天王寺」駅を出たJR大和路線奈良行き快速電車は「法隆寺」駅を通り過ぎた。この響きに私は万感の思いを込める。今回私は奈良行きをJR大和路線で始めたかった。何故ならば生駒山地を回避するルート・大和川沿いに低地を走り抜けるこのルートこそ、古代から近世まで多くの人々が使った大阪と奈良を結び付ける主要道路であり水路だったからである。仏教という異国の宗教に接した古代日本の人々は崇仏派と廃仏派に分かれて争った。後世「聖徳太子」と呼ばれることになる青年皇族は崇仏派側に立ち、上町台地の要所に四天王寺を建立するととともに飛鳥への途中にある交通の要所(斑鳩)に法隆寺を建立した。当時としては信じられないほどの費用と技術と時間を費やして造営された2つの大寺院は、聖徳太子が住吉(遣隋使出航地)から大和川沿いに入ってくるであろう国外からの賓客に向けて、自国の文明的成熟度をアピールするために形成したヤマト政権の大国家事業であった。それは古墳時代において畿内の人々が外国に対して自国の優越を示すためにトンデモない古墳(大山古墳いわゆる仁徳天皇陵)を造営したことに通じているように思われる。このルートには文明がなければならなかった。他方、大阪湾から物資を円滑に飛鳥に運ぶために大和川は不可欠の大動脈であった。当時の主たる物資輸送手段は水運であり、生駒山地を物資を抱えて超えるなど当時の人々は夢にも思わなかっただろう。明治時代においても蒸気機関車は馬力が弱かったので僅かな傾斜でも上りレールを駆け上がることが出来なかった。それゆえ当時の国鉄関係者が昔からのルートに沿って奈良への路線を引いたのは極めて自然なことである。ただJR大和路線を初めて使ってみた私にとって車窓からの眺めは平凡な(きつい言い方をすれば「つまらない」)ものであった(この言葉の意味は3日目に近鉄奈良線の感想を述べる中で敷衍される)。

列車はJR奈良駅に着いた。一般論として言えば旧国鉄の駅は当時の街の外れに置かれている(初期の鉄道は蒸気機関車が走るものであったため街中が忌避された)。当然ながら奈良も例外ではない。1889年発行の地図を見ると現在の駅がある場所は農地である。街から外れたところにレールが曲線的に引かれて、三条通りと接するところに駅が作られた。明治23年(1890)のことである。現在の奈良駅は高架駅となっているが、この現代的な駅舎は建替えられたものだ。旧奈良駅舎は皇国史観が高まっていた昭和9年(1934)に構築されたものである。日本趣味を基調とする寺院風の建築であり、方形の屋根上には相輪さえ設置されていた。この時代は帝冠様式など鉄筋コンクリート造の和風建築が多く生み出されている。この旧駅舎は平成16年に曳家により18メートル移動されて保存された。現在は「奈良市総合観光案内所」として利用されている。保存に尽力された方々に感謝。奈良駅は春日大社参道の基点である。参道の入口を示す常夜灯が設置されている。この通りを歩くことは「三条大路という古代からの都市軸が如何にその後の時代を受容し、姿を変えながら現代にまで繋がっているのか、という都市の物語を読むこと」なのだ(@西村幸夫)。
 歩くと間もなくワシントンホテルがある。1泊目の宿はここだ。チェックイン時刻の前なのでフロントに荷物を預けて歩き始める。歩道が広く車が少ない。歩きやすい良い道である。商店街の角に「南都銀行本店」がある。大正15年に旧六十八銀行の奈良支店として竣工されたものである(旧六十八銀行は南都銀行の前身である4銀行のうちの1行)。設計は長野宇平治、施工は大林組。鉄筋コンクリート造3階建の銀行建築様式である。正面のイオニア式円柱に施された羊の彫刻が特徴だ。設計者長野と懇意だった東京美術学校教授の水谷鉄也氏の作品である。銀行本店の正面が三条通りを向いているところに当時の商業的意義が表象されている。
 ここを左折すると「東向商店街」という賑やかな通りだ。東側は直ぐに興福寺の境内となっている。この通りは興福寺西側の断層崖に接して町屋が並び始めて形成されたものである。当初は通りの西側にのみ建物が建てられた。したがって建物が全て東を向いていたため「東向」と呼ばれるようになったのである。その後、街が発展し断層崖が削られて東側にも町屋が出来たが興福寺に向かう参道は削られなかった。そのため、この参道こそが(削られる前の)断層崖の角度を現していることになる。東向商店街が奈良を代表する繁華街になったのは近鉄電車が通ってからのことだ。大正3(1914)年に大阪電気軌道が大阪上本町と大軌奈良間に開通した。東向商店街は大軌(近鉄)奈良駅の「駅前商店街」の意味を持つことで発展したのである。

東向商店街を抜けると左に近鉄奈良駅がある。その前に現れるのが現代奈良の主要軸線である登大路だ。登大路は<旧興福寺の境内の中>を真横に横切り形成されている。このことが近鉄で奈良を訪れる観光客に「都市の軸線を判らなくさせている」要因だと断言してよい。私が奈良旅行の玄関口として近鉄奈良駅ではなくJR奈良駅をお勧めする理由がここにある。登大路が「旧興福寺の境内」を真横に横切って形成されているということは「道路と公園と興福寺境内の関係が判りにくい」ということに直結している。このことを理解するためには「そもそも奈良にとって春日社と興福寺とは何なのか?」という問題を最初に考えておかなければならない。春日大社は明日訪れるので、今日はまず興福寺について考えておくことにしよう。興福寺とは何か?それは藤原不比等が藤原家の権力を見せつけるために建立した「氏寺」である(官寺ではない)。神仏習合時代に興福寺は春日社と一体だった。興福寺は春日曼荼羅の権威を背景にして社会に対し強権を振るった。大和国は春日大明神の神国であり、興福寺はその代官だという理屈で行政権も把握した。興福寺は「律令体制における国司」「封建体制における守護」を超越した存在だったのである。興福寺を統括する人間は藤原家から送り込まれていた(門跡)。それが興福寺の強みだった。織田豊臣政権により寺領を削られたが、それでも徳川政権は2万1000石もの朱印高を認めた。これは大名クラスと言ってよい。
 江戸時代において奈良は門前郷を形成していた。門前郷とは、築地塀や大垣で囲われた境内の外側に社人寺人が居住することにより、社寺が社地寺地の延長として境内に囲い込んだ都市域である(参詣者が社寺の門前に集まった門前町とは異なる)。古代平城京の外京地区(断層崖上の微高地)は、東北部分の東大寺郷以外は全て興福寺郷であった(元興寺郷は元は独立していたが律令体制の崩壊に従って庇護を失い興福寺郷に吸収されてしまった)。郷内の北部は一乗院門跡が・南東部は大乗院門跡が・塔頭として存在を主張していた。「これら興福寺郷が明治以降にどうなったのか」という問題意識を持って歩かないと奈良の街は判りにくい。
 登大路を渡ると奈良地方裁判所。隣に奈良県庁がある。いずれも興福寺塔頭「一乗院」の跡地である。強い力を誇った興福寺は明治維新後の廃仏毀釈の嵐の中で突然消滅した。それは前述した興福寺の強さの裏返しの弱さでもあった。エリート貴族から形成された興福寺僧侶らに仏教教義に対する信仰心など無かった。彼らにとって「法相宗」(唯識)なる教義は自己の権威を担保する観念にすぎず自分の命を懸けて守るべき宗教規範ではなかったのだ。そのために明治政府から慶応4(1868)年に「神仏分離」を命じられるや(単に新政府の紙片が届いただけなのに)易々と僧籍を放棄して神官になってしまったのである。興福寺領は明治4年に没収され明治5年には興福寺を守る僧侶がいなくなってしまった(復興まで宝物を守ったのは縁の深い西大寺と唐招提寺である)。土塀や諸門などことごとく壊されて丸裸になった。興福寺境内は(中核部分を除き)公共用地とされ、特に登大路北側に広がる一乗院の跡地に公共建築物が次々と建てられていったのである。
 県庁の設置に関しては奈良県の苦難が記憶されなければならない。「奈良県」は明治4年に設置されたが、明治9年に堺県に編入されてしまう。その堺県が明治14年に大阪府に編入されたため、奈良は「大阪府の付属地域」とされた。しかしながら、後述する<奈良の権威>の高まりとともに、明治20年に奈良地域は大阪府から分離され「奈良県」が再度設置されることになった。かようにして構築された奈良県庁舎には奈良の人々の喜びが表象されていたことであろう。
 奈良の価値を再認識させたのは西南戦争(明治10年・1877)である。国家分裂の危機を感じた明治天皇(実質的には大久保利通など政府首脳)は「神武創業の始め」に戻る王政復古の精神を確認するために大和行幸を実施した。目的地は畝傍山の麓に新築された「神武天皇陵」であった。神話上の存在である神武天皇の「墓」が創設され、これを神格化する「橿原神宮」が構築された。この大和行幸の道中において明治天皇は正倉院御物を見学し奈良の古寺の意義を知らしめた。このことが後に奈良公園開設(明治13年)興福寺復興(明治14年)古社寺保存金制度創設(明治15年)に繋がる。「奈良公園の開設」は興福寺の犠牲で実現した。しかし現在の興福寺が「これらの土地は自分のものだから返せ」とは言えない。興福寺は自ら寺であることを辞めたからである。現在の奈良の公共用地や公園はほとんど全てが旧興福寺の境内である。そのことが公園と道路と境内の曖昧さを生み出している。逆に言うと、奈良には興福寺境内以外に近代都市建設のための土地が無かった。京都には全国の大名の藩邸が置かれ、これらの土地が明治政府によって没収されて公共用地になり、一部は民間に払い下げられてホテル等になっている。しかし奈良にはもともと大名藩邸が置かれなかった。このことが現代奈良における公共用地や大型ホテル等の少なさに繋がっている。
 裁判所が史跡公園内にあった、という意味で奈良と福岡は似ている。旧福岡城内にあった福岡地裁(高裁・簡裁)は立ち退きを余儀なくされ現在は六本松に移転した。400年前の思い出を語る公園のために福岡地裁は立ち退かされた。いつの日か奈良地裁が1300年前の思い出を語るために立ち退かされ他所への移転を余儀なくされる日が来るのであろうか?

北側に少し歩いて奈良女子大学(旧・奈良女子高等師範学校)へ向かう。奈良女子高等師範は明治41(1908)年に江戸幕府の奉行所跡に設立されたものである。洒落た門が存在を主張している。中心に建つ「奈良女子大学記念館」は明治42年に「奈良女子高等師範学校本館」として竣工したものである。1階は事務室・2階は講堂として利用された。1994年改修工事を行い守衛室とともに重要文化財に指定されている。木造2階建のハーフティンバー様式。屋根の中央に頂塔(ランタン)を設け、正面で軒先中央部を三角形にし、明かり取り窓を6個所設けるなど屋根の形に変化をもたせている。私は守衛さんに見学を希望したがコロナ禍で許可されなかった。残念無念。それはともかく「奈良に最初に生まれた近代教育機関」が女性のためのものであったという事実は特筆されなければならない。女子高等師範が開設された意義は建物だけではない。都市に相応しい知識人を得たことが大きい。司馬遼太郎は「街道をゆく」でこう述べる。「首都が東京に移った明治後は京都がさびれた以上に奈良はさびれた。(略)この状況にわずかに穴をあけたのが明治41(1908)年、勅令をもって奈良に女子高等師範学校(現奈良女子大学)が設けられたことだった。東大寺の僧や在住知識人はようやく友人を持ちうる条件を得た。」そうなのだ。「学問の府」である大学が街の中に存在することが都市にとりどれほど重要なことか我々は認識しなければならない。

佐保川に架かる橋を渡った先に聖武天皇陵入口がある。天平勝宝元(749)年7月2日、聖武天皇は天皇の地位を娘(安倍内親王)に譲位。同4(752)年大仏開眼会が奏行された。同6(754)年2月、遣唐使とともに来日した鑑真一行が入京し、4月に聖武天皇は菩薩戒を授けられた。同8(756)年5月2日、聖武上皇は没し佐保山に葬られた。
 一条通り(その意義は2日目に触れる)を東に向かって歩く。突き当りにあるのが「東大寺転害門」である。平城京外京東側に設けられた東大寺にとって西に並ぶ3つの門は重要だった。宇佐から勧請された八幡神はこの転害門を通り大仏の造営を助けに来たとの伝承が残っている(手向山八幡宮の祭礼において転害門は御旅所となっている)。節が残る右脇の柱の風情が見事である。この柱は当初は塗装されていて柱の節は見えなかったはずであり「後に塗装がはがれて節がむき出しになった」というのが地元ボランテイアガイドさんの説である。転害門のすぐ内側にあるのが鼓坂小学校だ。明石家さんまさんの母校として知られる(ボランテイアガイドの方から教えてもらった雑知識)。
 正面に正倉院がある。毎年、奈良国立博物館で「正倉院展」が行われている時期に一般公開をされている。当然ながら中に入れるわけではなく、柵外側からの見学になる。私がここを観るのは初めてのことであった。現物を観ると大きさが実感できる。正倉院の建物がこれほど巨大なものとは思っていなかった。よく知られているように正倉院は天平勝宝8(756)年6月21日に光明皇后が聖武天皇の冥福を祈って、聖武天皇が生前愛用していた品々600点余りを東大寺に献じたのが始まりである。当然、創建当初は東大寺の施設だったのであるが、明治維新以降は宮内庁が管理している。さほど厳重な警備が行われているとも思われないのに、相次ぐ戦乱の中をこの建物と宝物が現代まで生き残ってきたのはほとんど「奇跡」と言って良い。
 今回は足を運ばなかったが正倉院直ぐ北に空海寺がある。東大寺僧の菩提寺として知られている。真言密教の開祖である空海は東大寺の別当をしていた時期がある(最澄の京比叡山に対抗するため南都が空海を招いたという面がある)。その草庵の跡に設けられたのが空海寺だ。東大寺は華厳宗の本山であるが真言密教の色彩も有しているのだ。東大寺僧が亡くなった場合、その葬儀が東大寺で行われることはなく別の寺院が受け持つという点に「東大寺という寺の特殊性」が表象されている。国家寺院に起源をもつ東大寺が葬儀をすることはないし境内には墓が一切ない。本来の仏教は葬儀をしない。我々が持つ「葬式仏教」のイメージは江戸時代の檀家制度で形成されたものなのだ。
 南に歩くと戒壇院がある。奈良時代、ここで戒を授けられなければ正式な僧侶とは認められなかった。それほどの重みをこの戒壇は有していたのである。当時の仏教は学問のような色彩を有していたので東大寺は「明治時代における東京大学」のような意義を持つ(2016年11月4日「本郷歴史散歩」参照)。その延長線で考えれば「明治時代における帝国大学教授」の如き(それ以上の)権威を当時の僧侶は有していたであろう。このように転害門から入って大仏殿の西側を歩いてみると東大寺境内の高低差が激しいことが良く判る。戒壇院の南には川が流れており窪んでいる。ここから見ると大仏殿と参道が相当高い位置にあることが判る。この事実の意味は(大仏殿の東側とも対比して)明日ゆっくり考えることにしよう。

大仏殿回廊に入る。奈良が誇る世界遺産の筆頭。この建物が目前に存在していること自体が信じ難い。大仏はどうやって鋳造したのだろう?誰が建物を設計したのだろう?先にできた大仏を守りながら(破損させず)この巨大建物を重機のない時代にどうやって建てたのだろう?材料をどうやって調達したのだろう?これらの疑問に答える著作として香取忠彦・穂積和夫「日本人はどのように建造物をつくってきたか・奈良の大仏」(草思社)があるので興味がある方は読んでいただきたい。かような疑問をふまえてこそ目の前に存在する大仏とこれを守る建物の偉大さが判る。私は高校生のとき修学旅行でここに来た。大学生のときも・仕事を始めてから来たこともある。でも今回が1番感動した。正しく感動するためには多少の知識が必要なのである。
 良く知られているように大仏も大仏殿も奈良時代創建当時のままではない。戦乱の中で大仏は破損し大仏殿も焼かれている。けれども後の権力者や民衆の協力の下その都度修復されてきた。修復するには多大の費用と時間と技術が必要である。しかし、奈良にとって(広く言えば日本にとって)東大寺には絶対に「大仏」が存在しなければならなかった。それほどの重い意味がこの建造物には込められているのである。屋根を支える柱は全て集成材である。創建当時は巨大な自然木が使われていたのであろうが、時代が下り(後述する元禄の復興時)これほど太い柱を作り出せる自然木が無くなってしまったのだ。修理時に取り換えられた「しび」も目を見張るし、四天王像も巨大である(大仏に隠れて目立たないが、それ自体として凄すぎる仏像だ)。
 大仏殿は戦乱の舞台になった。治承4(1180)年12月、平重衡の軍勢が南都を襲撃し、東大寺は二月堂・三月堂を除き、ほとんどの伽藍が焼失した。争乱が落ち着くと勝者である武家(源頼朝)朝廷(後白河法皇)僧侶(重源ら)の尽力によって大仏殿は約10年で再建された。この中で回廊・中門・南大門等の修復も行われた。大仏脇侍や四丈三尺の大仏殿内四天王像もこのときに設けられている。運慶・快慶による仁王像が南大門に納められたのもこの時である(わずか69日間で完成したという)。永禄10(1567)年10月、松永久秀・三好義継軍は三好三人衆が陣取る東大寺大仏殿を急襲し大仏殿を含めた堂宇が焼失している。大仏も頭部が落ち仏体も溶解した。が、時は戦国時代であり、復興には長い時間を要した。本格的な復興は焼失から125年後、江戸幕府による治世が安定した元禄時代である。公慶は重源を模範として勧進に努めるとともに江戸幕府に対しても復興への協力を求め、元禄5(1692)年に大仏殿復興と大仏開眼供養が行われている。
 創建当時、東大寺には東西に七重の塔が存在した。大仏殿内にそのレプリカが展示されている。南大門を抜けて大仏殿を正面に見ながら両側にそびえる七重の塔。それが現実のものであった時代の東大寺は、それを拝見した人々にこの世のものとは思われない程の感動を与えていただろう。寺院を巡る宗教的視線は「南から北を」仰ぎ見るものであるが、東大寺はこの導線が特に強力である。
 南大門へ向かう。鎌倉時代の「天竺様式」を代表する構築物である。「源平の争い」で荒廃した東大寺は鎌倉時代に再興された。東大寺にあって「巨大さ」とは信仰的正義を現しているように感じられる。柱は自然木が使われている。おそらく鎌倉時代には未だかような巨木が豊富に存在したのであろう。両脇に控える仁王像は迫力があるが、以前よりも金網の目が細かくなって見えにくくなった気がする。文化財保護の為とはいえ、ちょっとやりすぎではなかろうか。
 白蛇川を超えて東大寺ミュージアムに入る。この施設は平成23年10月に開館した。東大寺内の諸堂に展示されていた国宝クラスの仏像や書画が良好な環境の下で展示されている。その意義を否定するつもりは無い。が、これらは本来、宗教的意図を以って製作されたものであるから本来の場所で拝観するのが最も良いはずだ。たとえ薄暗い中であっても、薄暗い中でこそ、光り輝くものがある。そもそも仏像は「作品」ではない。仏師が心を込めて作った「仏具」なのだ。戒壇院で感じられた四天王像の威厳も、三月堂で感じられた観音菩薩像の魅惑もミュージアムで観ると薄れてしまったように感じてしまう。自然の中でうごめいている昆虫がピンで刺されて標本箱に並んでいるような姿をイメージさせてしまうのだ。退館前にカフェで抹茶セットを一服する。ミュージアムの入場口で渡されたチケットには誕生仏の写真が載せられている。静かに「天上天下唯我独尊」と呟く。

古城川を超える。大仏殿前の信号を右折し奈良国立博物館を左に見ながら西へ歩く。博物館本館は赤坂離宮(現・迎賓館)などを手がけた宮廷建築家片山東熊の設計により明治27(1894)年に竣工したものである。明治建築物の代表例として重要文化財に指定されている。この開館にも曲折があった。明治7年、当時の奈良県権令藤井千尋が中心となり官民合同の奈良博覧会社が設立された。翌年開催された第1回奈良博覧会は東大寺大仏殿と周囲の回廊を会場として正倉院宝物や社寺等から出品された書画・古器物・動植物標本・機械類などを陳列した。80日間の会期中に延べ17万人が訪れる大盛況であった。博覧会は(西南戦争中の明治10年を除いて)毎年開催され明治23年までに計15回を数えた。当時、東京上野にはすでに宮内省所管の博物館(東京国立博物館の前身)があったが、明治22年、東京の博物館の名称を「帝国博物館」に改めるとともに京都と奈良にもそれぞれ帝国博物館を設置することが決まった。興福寺境内の現在地に明治25年から建設工事が始まり、27年に本館が竣工し翌年4月に開館したものである。これら「博覧会」は人々に奈良の意味を知らしめる<まなざしの政治学>を体現するものであった。この「まなざし」は東京上野・京都岡崎・大阪天王寺でも展開された(吉見俊哉「博覧会の政治学・まなざしの近代」中公新書)。明後日「正倉院展」を拝見するため入館することにしている。ただし前述した本館は「なら仏像館」として役割を変えていること「正倉院展」は新館で展示されていることに注意しよう。

直進すると興福寺境内に入ってゆく。寺院に特有の土塀がない。これは廃仏毀釈の嵐の中で明治5年に興福寺の土塀や諸門などが壊されて丸裸になったことを端的に表象している。この状況を、明治時代に奈良を訪れた正岡子規は、こう詠んでいる。「秋風や 囲いもなしに 興福寺」 現在の興福寺は往時と比較すると信じられないくらいに狭い。国宝館の東側には現在の法相宗興福寺本坊がある。凄く地味だ。多くの人々に「法相宗本山」としての興福寺には関心がもたれていない。興福寺は「阿修羅像を初めとする寺宝の所有者」としての意義しか感じられていないだろう。確かに奈良時代から教義が進展していないように感じられる「唯識」なる思想に関心を寄せる人は少なかろう。が、「あらゆるものは唯わたしたちの識(心)が生み出したものだ」という考え方に私はカント哲学に通じるものを感じる。もし唯識なる思想を西洋哲学との関連で議論することが出来るのであれば、現代に通じる思想として再構築することもできるのではと安易に感じてしまう。
 国宝館に拝観希望者が長蛇の列をなしている。並んでまで観る気が無いので通り過ぎる。私は建て替わる前の旧国宝館でこれらの寺宝を複数回拝見したことがあるからだ。ただし、せっかくなので、この新国宝館は(明後日時間があれば)立ち寄ろう。目の前に五重塔がある。法隆寺や薬師寺の塔と比べて重々しい感じを受ける。何故ならば法隆寺や薬師寺の塔が上層に行くに従い屋根の大きさが小さくなり屋根の傾斜が緩やかであるため全体として空に向かってゆく軽さが感じられるのに対し、興福寺の塔は屋根比率があまり変わらず他方で上層屋根の傾斜が急なので建物全体の重力が下に向かっているのを意識する造りになっているからである。が、それは欠点ではない。築地塀(周りとの境界)をなくしてしまった現代の興福寺にあっては「重々しい五重塔こそが相応しい」とも言えるのだ(@司馬遼太郎)。南大門跡には礎石が残っている。ここに登り北を眺めると復元された中金堂が鎮座している。興福寺は伽藍の復興を企てているが、南大門が再築され本来の(南から北を仰ぐ)信仰的視線を取り戻すためには更なる時間と莫大な費用を要するであろう。

五十段階段を下って三条通りに降りる。目の前にあるのが「猿沢の池」。池越しに映る五重塔の風景が奈良を象徴している。少し歩き翌日の宿泊地「ホテル尾花」の場所を確認した。このホテルの意義は3日目の朝に詳しく論じることになる。
 クラシックホテルの代表格「奈良ホテル」を訪れる。明治建築界の重鎮・辰野金吾(東京駅や日本銀行本店の設計者)設計で、明治42年開業の名門である。当初、古都奈良に旅館はあってもホテルが無かった。即ち賓客が宿泊できる本格的なホテルが無かったのだ。そのために「奈良公園」を開設した政府にとって国内外の観光客を満足させられる高級ホテル開設は重要課題だった。この要請に応えて辰野が桃山風の純和風建築として設計したのが奈良ホテルだ。このホテルは興福寺「大乗院」門跡の小山上に作られている。すぐ南に「大乗園庭園文化館」という施設が存在する。かつての興福寺境内の広さを実感。かようにして入館した奈良ホテルだったが喫茶室が満員のために私は珈琲を飲むことが出来なかった。「庶民には縁の遠いところ」と言わなければならないのであろうか。
 奈良ホテルを出て道を北に進む。春日大社の一乃鳥居の前に出る。三条通りがここに突き当たるところに奈良の軸線が表象される。直ぐ前にあるのが料亭「菊水楼」である。旧興福寺塔頭興善院跡に明治24年開業した老舗である。何故か私を呼んでいる気がした。1人で中に入るには若干の勇気を要するのだが思い切って暖簾をくぐった。敷居の高い本館ではなく、脇の鰻の店のほうにした。午後5時過ぎということもあり最初は誰も反応してくれなかった。帰ろうかと思ったそのときに店員さんが来てくれた。リュックを抱えた1人客を入れてくれるか不安だったが「午後6時半に予約が入っているのでそれまでの間であれば大丈夫です」と言われた。奈良ホテルに振られていただけに素直に嬉しい。もちろん私は長居はしない。嬉々として店内に入れてもらった。建物の作りも調度品も立派である。一部を写真に撮りフェイスブックに上げる。奈良のクラフトビール(ならまちエール)も、うな重(タレ焼きと白焼き)も実に美味かった。菊水楼に入って本当に良かった。豊かな気持ちになって菊水楼を出る。暗くなった三条通りを西に歩いてワシントンホテルまで帰る。
 私の「奈良歴史散歩1日目」は良い感じで締めくくられた。(続)。

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