5者のコラム 「5者」Vol.90

隠喩の意義と問題点

このコラムは弁護士業務を隠喩(メタファー)で論じる企てです。そもそもメタファーって何なのでしょう?「人生は旅である・恋は盲目である」がメタファーの例です。「AはBである」という文章が隠喩であるとはどういうことなのか?少し考えてみましょう。論理的意味だけで考えれば(両者は似ているけれども)AはB「ではない」(消極的作用)ということになります(A≠B)。しかし情緒的意味を考えれば(両者は違うものだが)AとBは「似ている」(積極的作用)ということになります(A≒B)。「似ているけれども違う」という用法と「違うけれども似ている」という用法は言語使用の方向性が正反対です。論理的意味にこだわる学者は情緒的な言語用法を嫌う傾向にあります。しかし、世間人にとって論理的な言語使用は肌に合いません。世間人に判りやすいのは直感やイメージに訴えかける情緒的な言語使用です。そのために仏陀やキリストなど世間人に対して高度な倫理を説かなければならなかった世界宗教の開祖たちは隠喩(メタファー)を多用したのです。
 私はこのコラムに対する次の疑問に触れたことがあります(5者41)。あるところで「弁護士は合理的でなければならない」と言ったと思えば別のところでは「弁護士は合理性をふりかざしてはいけない」と言う。あるところで「弁護士はサービス業であってはいけない」と言いつつ他方で「弁護士はサービス業であることを自覚しなければならない」と言う。(略)支離滅裂じゃないの?(2010/9/24)。こういう疑問が出てくるのは当然です。何故ならば本コラムは「A≠Bという用法」と「A≒Bという用法」を場面によって使い分けているからです。ずるいと言えばずるい方法です。情緒的な言語用法(A≒B)は(論理を無視しているので)大衆を操作する悪魔的な技術に容易に転化します。隠喩の意義と問題点を十分に認識しながら、自分の言語使用のあり方に敏感になること。私はこういう問題関心に導かれてこのコラムを作成しています。

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