5者のコラム 「役者」Vol.114

役者の個性を表現するための技術

新井一「シナリオの基礎技術」(ダビッド社)に次の記述。

小説は地の文とセリフから成立し、演劇台本はセリフとト書から成立しています。つまり小説では地の文があるために主観的に物語をすすめることができます。「彼は彼女に恋を打ち明けたいと思って迷った」というように地の文で心理描写や感情を表現することが出来ます。ところが演劇の場合、地の文に相当するト書では動作(仕草)でしか表現できません、つまり「恋を打ち明けたいと思って迷った」という表現はセリフか何かでなければ表現できません。といって「私はかの時に恋を打ち明けたいと思って迷っているのだ」とセリフで言ったところで芸術的な感銘にはなりません。そこで戯曲は、どう彼の気持ちを観客に伝えるか、この技巧がドラマツルギーになって発達しました。別の表現が工夫されたわけです。

裁判所から見れば訴訟の進行にあたり弁護士がその事件をどう思っているのかなど大した意味はありません。弁護士がどう思っていようが事件の全体的構図の中で原告も被告も、やるべきことはアプリオリに決まっているのです。要件事実は裁判における脚本。実践者の行為の幅は制約されています。しかし同じ脚本でも演出家や役者の解釈により全く違ったものに演じられます。そこに演出家や役者の個性が表れてきます。演者の気持ちを観客に伝える技巧如何によって元の脚本は輝きを増したり、逆に陳腐なものに成り下がったりもします。訴訟における弁護士の個性や主体性は結構大きい要素です。同じ事件でも弁護士による脚本の解釈と演技により全く違った舞台になります。訴訟という名前の舞台は小説ではないので地の文が存在しません。観客を意識して発話されるセリフと具体的に何をすべきかというト書があるだけです。その空白を埋めるのは事件に対する弁護士のドラマツルギーです。弁護士が「個性」や「主体性」を磨かなければならない所以がここにあります。