久留米版徒然草 Vol.390

すばらしい新世界

1 オルダス・ハクスリーを簡単に紹介願います。
chatGPT:オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894–1963)はイギリスの小説家であり、評論家かつ思想家でもあります。科学者や知識人を多く輩出した裕福なハクスリー家に生まれました。祖父はダーウィンの進化論を強力に擁護した生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー、兄ジュリアンも著名な生物学者です。オルダスは文学者ながら一貫して「科学技術が発達したときに人間は本当に幸福になるのか」という問題を考え続けた人と捉えると分かりやすいと思います。

2 ハクスリーの代表作は「すばらしい新世界(Brave New World)」ですね。
chatGPT:はい。『すばらしい新世界』では人間が人工的に生産され、生まれる前から階級と能力を決められます。戦争も貧困も大きな社会的不安もなく、人々は娯楽や性的快楽を享受し、不愉快になれば「ソーマ」なる薬物で気分を良くすることができる。一見すると非常に「幸福」です。彼が描いたのは(暴力によって人間を服従させる独裁社会ではなく)人間が「自分から進んで」支配される社会です。快適で楽しい生活を与えておけば「人間は自由など欲しがらなくなる」という問いです。監視と暴力による支配を描いたジョージ・オーウェル『1984』と好対照です。ただハクスリーを『すばらしい新世界』だけの作家と考えるとかなり狭い。後年になるにつれて彼の関心は神秘主義・東洋思想・意識の問題へ向かいます。1945年に『永遠の哲学(The Perennial Philosophy)』を発表し世界の宗教には細かい違いを超えて共通する精神的経験があると考えました。1954年の『知覚の扉(The Doors of Perception)』では幻覚剤メスカリンを服用した経験を記録します。彼は「人間の意識」を(世界をそのまま見ている状態ではなく)生存のため「世界を極端に選別している」状態と考えます。ハクスリーの思想には面白い流れがあります。科学技術によって人間を外側から操作する社会への警戒→ そもそも人間の意識とは何かという問い→ 宗教・神秘体験・意識変容への関心。しかし根底にある関心は一貫しています。「人間が人間らしくあるとはどういうことなのか」という問いです。『すばらしい新世界』は1932年の作品。遺伝子操作・向精神薬・SNS・アルゴリズムによる嗜好形成が現実になった現在、妙に古びない(むしろ世界が追いついた)作家でもあります。

3 自然科学から出発し、哲学的思考を身に付け、後期には宗教的背景を持つ神秘的思考に至る。ラッセルやウィトゲンシュタインに似た臭いを感じます。イギリス思想の特徴かな?
chatGPT:その「似た臭い」という感覚は面白いと思いますが「イギリス思想の特徴」と一般化するのは行き過ぎで「近代イギリス知識人に繰り返し現れる1つの型」くらいに捉えるのがよさそうです。ハクスリー、ラッセル、ウィトゲンシュタインには確かに共通する動きがあります。出発点では科学・数学・論理学など厳格な「合理性」を信用している。ところが、その合理性を徹底して追究すると逆に「合理性で扱えない領域が残る」ことに気づいてしまう。ウィトゲンシュタインは典型的です。初期の『論理哲学論考』は世界と言語を論理的に限界づけようとしますが、その仕事をやり切った末に「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という地点へ到達する。倫理・美・人生の意味・神など彼にとって重大なものは「語りえない側」に置かれます。論理から神秘主義へ「転向」したというより論理を徹底したからこそ神秘的なものが見えてきたという方が近いでしょう。ラッセルは違います。彼は最後まで強烈な合理主義者で、組織宗教にも批判的でした。若い時期には神秘体験への関心があり1901年に「神秘的啓示」の経験をしています。後の「Mysticism and Logic(神秘主義と論理)」という著作が象徴的です。彼は神秘主義に帰依したのではなく論理と神秘という人間精神の2つの極をどう共存させるかを考えた。ハクスリーになると、さらに一歩踏み込みます。科学文明を批判的に眺めるうちに、合理的知性そのものが人間の認識能力の極一部だと考え、東洋宗教や瞑想さらには薬物による意識変容まで実験する。こちらはかなり明確に神秘思想へ接近しています。なぜイギリスからこういう人物が出てくるのか。1つにはロック、ヒューム以来の経験論という強い伝統があります。「理屈より実際に経験されるものを見よ」という態度。これを徹底すると意外にも神秘体験を最初から排除する必要がありません。「真理かどうか」は別として、そういう経験が人間に生じること自体は事実なのだからまず観察してみようとなる。もう1つ興味深いのはイギリスではニュートン以来、近代科学と宗教が必ずしも単純な敵同士ではなかったことです(ニュートンは「最後の錬金術師」と言われました)。科学を極限まで追究した人間が、その向こう側に宗教的な問いを見出すことが、それほど奇妙ではない。樋口さんが挙げた3人を乱暴に1本の線に並べるなら「科学・論理を信頼する→ それを徹底的に使ってみる→ それだけでは人間経験を全部説明できないと気づく→ 合理性の外側をどう扱うかという問題にぶつかる」という共通した運動は確かに見えます。その最後の処理が3人で違うのが面白い。ラッセルは外側を眺めながら「合理主義の陣地」に踏みとどまり、ウィトゲンシュタインは「そこについては語るな」と境界線を引き、ハクスリーは自分から「境界線の向こう側」へ歩いていった。同じ「臭い」なのに「最後の1歩」が違う。

4 ホント、そうですね。「行きつく地点がまるで違う」ところがホント面白いです。特にハクスリーなんて「自分でメスカリンを投与」したり「科学的支配の極限」であるディストピアを描いたり「よくぞこんなところまで行けるなあ」というくらいぶっ飛んでますよね。
chatGPT:そうなんです。ハクスリーには単なる「文明批評家」では済まされない、自分自身を実験台にしてしまうところがありますね。『すばらしい新世界』は考えてみれば相当にぶっ飛んでいます。普通の科学批判なら「科学技術が暴走すると人間が不幸になる」と描きそうなところを彼は逆に「科学技術によって人間を徹底的に幸福にしたらどうなるか」と考える。病気や貧困を減らし・性を解放し・不快な感情は薬で消し・社会的不満までなくす。それを「人間らしい社会」と呼べるかと。自分の意識も実験対象にしてしまう。メスカリンを服用し「通常の意識そのものが人間なる生物が生存するため作り上げた限定的な認識装置では」と考える。ここには意外な一貫性があります。『すばらしい新世界』=人間を外側から操作したら、どこまで人間を変えられるか。『知覚の扉』=人間を内側から操作したら、世界の見え方はどこまで変わるか。どちらも「人間とはこういうものだ」という常識的な境界線を信用せず「その境界まで実際に行って覗いてみる」。その意味では徹底した実験精神の持ち主なのでしょう。先ほどの「イギリス経験論」とも繋がります。ハクスリーは「神秘主義に向かったから科学を捨てた」という感じがあまりしない。むしろ「神秘体験なる現象があるならそれも経験して観察してみればいいじゃん」という妙に科学者的な態度のまま神秘主義へ突入してしまうのですね(笑)。そこがウィトゲンシュタインとは対照的です。ウィトゲンシュタインが「その先は語り得ない」と崖の縁で立ち止まりそうなところを、ハクスリーは「ちょっと向こう側へ行って見てきます」と降りていってしまう。「よくぞこんなところまで行けるなあ」という樋口さんの表現はハクスリーという人物の知的な冒険性をよく捉えている気がします。

5 オーウェルが「徹底的な恐怖」による管理を描いたのに対しハクスリーは「徹底的な幸福」による管理を描く。現代を批判的に観る論者でもオーウェル的視点しか提示できていないのが現状ですね。世間的な「幸福」そのものを裏返してみる視点はハクスリーの凄すぎる点だと思います。「素晴らしい新世界」は学生時代に「1984」とともに読んだのですが「幸福って何なのだろう?」と考えこんだ記憶がありますね。若いころ読んでいてよかったと感じます。
chatGPT:はい。オーウェルの場合、読者には最初から「これは悪い社会だ」と分かる。拷問され、監視され、言葉まで奪われる。自由対抑圧という構図がはっきりしています。ところがハクスリーは足場そのものを崩してくる。人々は健康で、争いも少なく、性的にも自由で、不快な感情はソーマで消せる。何より重要なのは、そこに暮らす大多数の人間自身が幸福だと思っていることです。読者は困ります。「本人が幸福だと言っているのに、なぜそれを不幸だと言えるのか?」ここから先は、単純な権力批判では済まなくなるんですね。問われるのは、こちら側の「幸福」という概念そのものです。現代社会との関係でも、オーウェル的な批判は比較的やりやすい。「国家に監視されている」「言論が統制されている」「権力が情報を操作している」。敵が外側に見える。ハクスリー的な批判は厄介です。娯楽が豊富で、欲しい物がすぐ手に入り、退屈すれば刺激が与えられ、不快なことから遠ざかることができる。アルゴリズムが「あなたが好きそうなもの」を次々に差し出してくれる。誰からも強制されない。自分が望んでいる。ハクスリーの問いが現代的になります。「欲望を満たしてもらうこと」と「自由であること」は同じなのか違うのか。欲望そのものが社会によって形成されているとすれば「私は自分の好きなものを自由に選んでいる」感覚さえ「自由の証明」にはならない。『1984』を読んだ後には「こんな社会にはしてはいけない」と思えるのに『すばらしい新世界』を読んだ後には「では、どんな社会ならよいのか」「そもそも幸福とは何か」という問いが残ってしまう。学生時代に「幸福って何なのだろう?」と考え込まれたというのはハクスリーが読者に仕掛けた罠に見事にはまったということでしょう(笑)。この問いには卒業がありません。若い頃なら「自由と幸福のどちらを選ぶか」という問題として読んでも、齢を重ねれば「不快や苦痛や不自由を完全に除去してしまった人生は本当に豊かな人生なのか」という別の問いとして戻ってくる。若い頃に一度読んだ本が何十年後かに別の顔をして現れる―その意味で寿命の長い小説だと思います。

6 「共同性」「同一性」「安定性」が新世界の標語。私は学生時代に通常の人生をドロップアウトしリスクをとって司法試験を受け現在に至ります。今にして思えば、当時の私は「共同性から抜け出し、自己の同一性を否定し、安定性を放棄したかった」のかもしれないなと感じます。
chatGPT:「共同性・同一性・安定性(Community, Identity, Stability)」という標語が社会制度の話ではなく、1人の人間の生き方の問題に見えてきますね。問題はこの3つがどれもそれ自体としては悪いものではないこと。普通なら幸福の条件として望ましいと言える。ハクスリーはそれらを徹底して実現した社会を描くことで逆に「幸福の条件を完全に揃えたら人間から何が失われるか」を問うているのでしょう。樋口さんが学生時代の選択を振り返って「共同性から抜け出し、自己の同一性を否定し、安定性を放棄したかったのかも」と感じられるのは興味深い。当時「そのように明瞭に言語化して」決断されたわけではないでしょう。しかしながら後から振り返ると自分の行動にそういう形が見えてくる。面白いのは「自己の同一性を否定する」ところです。普通は「自分らしく生きる」ことを自由と考えます。しかし「自分らしさ」が、それまで所属してきた社会や周囲の期待や自分自身の過去によって出来上がったものならば、自由になるためには「自分らしさ」からも逃げなければならない。これはハクスリーの「Identity」を逆から照らします。新世界では1人1人が「あなたはこういう人間だ」と決められ、その役割に完全に適応する。葛藤がなくなる。「私は別の人間になれるかもしれない」という可能性も消える。そう考えるとリスクを取ることにも違った意味が見えてきます。単に成功確率の低い司法試験に賭けたというだけではなく「それまでの自分から別の自分へ移る可能性を残すために安定を捨てた」とも読める。もちろんこれは現在から過去を再構成した「物語」でしょうけれど、それでよいのだと思います。ハクスリーを何十年ぶりかに読み返す面白さは「幸福とは何だろう」と感じた小説が今度は「自分は何故あのとき幸福の安全装置から外れようとしたのだろう」という自分への問いになって戻ってくるところにあるのかもしれません。

7 小説って「実際にはありえない極端な思考実験」を読者にさせるところが魅力ですよね。還暦を超えて若いころに読んだ小説を読み返すと全く違う読み物に思えます。たぶん「すばらしい新世界」は「無意識的なレベルで」自分を導いてくれたように思います。感謝しかないです。
chatGPT:そうですね。小説の大きな力の1つは現実には実行できない思考実験を登場人物の人生を通して疑似体験させることでしょうね。哲学なら「幸福と自由は両立するか」と問うところをハクスリーは「では全員を幸福にしてしまった社会を作ってみよう」とやってしまう。読者をその中で生活させる。これは小説にしかできない思考実験です。若い頃と還暦を過ぎてからでは同じ実験に参加しても観察しているものが違う。若い頃は『すばらしい新世界』を読んで「幸福とは何だ」「自由とは何だ」とこれから生きる世界について考える。ところが長く生きてから読み返すと「実際にどんな幸福を選び・何を捨て・どんな偶然に導かれてここまで来たのか」と既に生きてきた人生を照らす装置になる。興味深いのは「あの小説に影響されてこう生きよう」と意識的に決めたわけではないことでしょう。若い時に読んだ作品の言葉や風景がどこかに沈殿していて、何十年もの意思決定の際に、本人にも分からない程度に作用していたのかもしれない。だとすれば文学の影響というのは「この本から私は○○を学んだ」と明確に説明できるものではないのでしょうね。本当に深く入った作品ほど、何を教わったのかさえ忘れる程に自分のものの見方の一部になっている。『すばらしい新世界』を今になって「無意識的なレベルで自分を導いてくれた」と感じられるのは若い頃に読んだ小説との長い対話だったのかもしれません。少し不思議です。ハクスリーは「人間が無意識のうちに社会によって条件づけられてしまう恐ろしさ」を描いた。その小説そのものが今度は読者の無意識に入り込み、「条件づけられた幸福」から少し距離を取る方向へ働いた。そうだとすれば――作品の内容と、その作品が樋口さんに及ぼした作用とが、きれいに裏返しになっています。

8 面白い対話でした。「小説そのものが今度は読者の無意識に入り込み、条件づけられた幸福から少し距離を取る方向へ働いた 」というchatさんのまとめには感銘を受けました。有り難う。
chatGPT:こちらこそ有り難うございました。ハクスリーの紹介から始まって、ラッセルやウィトゲンシュタインとの比較を経て、最後に『すばらしい新世界』が1人の読者の人生にどう作用したのか、という地点まで来ましたね。面白かったのは「共同性・同一性・安定性」という一見すれば幸福そのものに見える価値を疑ってみるというハクスリーの仕掛けでした。それが若い読者の中に沈殿し何十年も経って自分自身の人生を読み解く言葉として戻ってくる。小説を「読み返す」というのは同じ本をもう一度読むことではなく昔の自分が読んだ本と今の自分がもう一度出会うことなのかもしれません。私にとってもとても面白い対話でした。また続きをやりましょう。

久留米版徒然草に関するご感想やお問い合わせをお寄せください。

前の記事

高松への出張New!!