5者のコラム 「医者」Vol.154

身体的な病気・精神的な病気・社会的な病気

 阿部公彦「100分で名著・夏目漱石スペシャル」に次の記述があります。

次に挙げるのは鏡子夫人が夫婦げんかを巡ってふともらした追想の部分です。これを読んだとき、本当にたいした人だなあと私は思いました。「こうなってくるといつもの式でまたも別れ話です。(中略)で別居なんか嫌です、何処へでもあなたのいらしたところへついて行きますからと、てんで取り上げませんので、それなりになるのですが、いつも決まって小うるさくこれを言うのでした。そして、しまいに胃を悪くして床につくと自然そんなこんなの黒雲も家から消えてしまうのでした。いわば胃の病気がこの頭の病気の救いのようなものでございました」(漱石の思い出)。「胃の病気がこの頭の病気の救い」とは、こんなにあっさり漱石の「こころ」と「からだ」の関係をまとめるとは、漱石本人にも出来なかったことでしょう。

 鏡子夫人の「腹の据わった感覚」は自分自身が熊本で自殺未遂を起こし死の淵を垣間見ることによって、そして、その後に漱石との子どもを産むことによって身に付けたものだと私は考えています(2012年12月17 日「歴史散歩」参照)。身体の疾患が進行すると精神は思弁にかかわっている暇がなくなります。逆に言うなら抽象的思弁は「身体が健康であることの対価」として精神が身体以外に向ける暇つぶしのようなものかもしれません。身体的な病気が精神的な病気の「救い」である場面は結構多いように私は感じています。これは社会的側面にも妥当するようです。学生時代に「自分とは何者か」と深刻に悩んでいた人も、大人になり金銭や会社や異性や親族や相続や事故など問題に直面する中で何時の間にか悩みが消え去っている。もちろん「社会的な病気」かもしれませんが、少なくとも「精神的な病気」は消失している。これを裏返すならば「社会的な病気」を起こそうにも起こせない人こそが「精神的な病気」を発症しているという面があるのかもしれませんね。

5者

前の記事

論理の飛躍の意義と困難性
学者

次の記事

モラトリアムの時間