5者のコラム 「学者」Vol.154

モラトリアムの時間

 tanukiinu先生がブログで次のように書いておられます。

子供が大人に近づいたとき、まともな感性を持つ人間なら、その人生観に大きく欠落しているものがあると感ずる筈です。「それは何か?」と考え人生観を自分仕様に再構成していきます。モラトリアム期間とはこの人生観を再構成する時間だと思います。「モラトリアム人間」は昔よりも生きにくくなっているのではないでしょうか。旧司法試験のように門戸が広く開かれていれば「モラトリアム人間」には魅力的なものに映ります。しかしロースクールに入らなければならず、しかも多額の入学金が必要ということになれば「モラトリアム人間」にとっては魅力がありません。社会に出ることに腰が引け、お客様気分でしばらく仮の人生を送りたい者にとってあまりにも負担が大きいからです。モラトリアム、モラトリアム人間という言葉は聞かれなくなりましたが、そうした人が居なくなったわけではありません。「ニート」「引きこもり」「スチューデント・アパシー」などと言葉が変っているだけです。

 私が司試受験を始めた背景に(当時の感覚で言えば)モラトリアムの時間が欲しいとの気持ちがあったことは否定できません。いずれ社会に出て責任を果たさなければならないことは判っていたものの、もう少し「時間の猶予」が欲しい。そんな人間が飛びつく対象として司法試験は完璧すぎる存在でした。「哲学のオタク」と表現されてもおかしくない学生だった私は良い「大義名分」を得て6年間もの時間稼ぎが出来ました。この大義名分に引き付けられて3万人を超す受験生が集まっていたのです。しかし今や受験資格を問わない「開かれた司法試験」の世界は消滅しました。昔風の「モラトリアム」を求める学生は何処に行けば良いのでしょう?