ちょっと寄り道(阪急3)
旅の最終日は西宮神社を参拝後、阪神線を使って芦屋市に向かいました。ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)を見学した後、阪急神戸線とJR線を乗り継いで神戸南京町を散歩しました。
(参考文献:旅と鉄道編集部「阪急電鉄のすべて」天・夢・人、野添梨麻「阪急線歴史散歩」鷹書房、伊原薫「関西人はなぜ阪急を別格だと思うのか」交通新聞社新書、藤森照信「建築探偵放浪記」経済調査会、福岡市博物館「チャイナタウン展・もうひとつの日本史」ほか)
ホテル「西宮リブマックス」には朝食がないので早めにチェックアウトする。最初に友の案内で西宮神社を参拝することにした。この神社はえびす様を祀る神社である。そのために昨夜行ったバルは「エビス」を強調していた訳だ。道路沿いに並ぶ土塀(大練塀)が立派。これは室町時代に建造され(熱田神宮・三十三間堂とともに)日本三大大練塀として国の重要文化財に指定されているそうだ。赤い門(表大門)は豊臣秀頼の寄進によるものと伝わる。これも重要文化財である。西宮神社は全国で祭られている戎神の総本社として人々の信仰を集める。戎神は元来漁業神であるが(鯛を抱えているのはそのため)後に商業神となった。毎年1月9日から11日は十日戎の祭礼が行われる。10日早朝「開門神事福男選び」は近年テレビ中継をされて全国に知られるようになった。商売繁盛の神なので商売をしている方の寄進が目立つ(昨年訪れた仙台「藤崎」の寄進による石碑すらもあった)。今回の旅行まで私は西宮神社のことを全く認識していなかったのだが、友のおかげで新しい知見を得ることができたのだ。誠に持つべきものは良き友である。阪神電車西宮駅まで歩く。阪神西宮駅付設のカフェで朝食をとろうと一瞬考えたが「高級住宅地で優雅に朝食をとりたい」なる願望が生じた。これを友に話すと賛成してくれたので直ぐ阪神本線に乗ることにした。
私が阪神線に乗るのは生まれて初めてだ。阪神本線開設は阪急神戸線開設より早い。最初に旧国鉄線ができ、次に阪神線ができて、最後に阪急神戸線が出来た。阪急は「大阪・神戸」を結ぶ「ドル箱路線」の設置において競争に出遅れた。しかし流石に小林一三はタダ者ではない。小林一三は路線を先行2社よりも山沿いに設定した。これにより阪急神戸線の「山の手」上流路線が性格付けられた。阪神線は「下町」大衆路線なる性格が明確になった(これがプロ野球人気における「阪神>阪急」という図式の根底にある)。神戸線は現在の阪急電車を支える最重要路線であるが、その開設には紆余曲折がある。大阪と神戸を結ぶ路線は既に旧国鉄と阪神が営業していたので更に箕面有馬が免許を得られる公算は低かった。そこで小林は(現在の新神戸駅付近から国鉄線北側を通って西宮に向かい神戸に還る循環路線の免許を取得していた)「灘循環電気軌道」に着目。梅田から伊丹を経由し西宮で灘循環と接続する路線を計画した。伊丹を通るルートにしたのは梅田から直接西宮に向かうと国鉄と競線となり免許を得られない可能性があったからだ。この路線が大正2年に免許を取得する。小林は直ぐに伊丹を経由しない直線ルートへの変更を申請した。流石にこれは許可されなかったので妥協案としてルートを当初予定よりも北側とし、途中の塚口から伊丹への支線を繋ぐ線を提案。地元の同意も得て大正6年に許可された。次に小林は灘循環を巡る阪神との争奪戦に勝利し自陣営に引き込んで買収に成功した。阪神が既存市街地を多くの駅で結んだのに対し阪急は未開発の山側を直線状に結び駅も少数に留め「速さ」を実現した。小林はこれを機に箕面有馬を「阪神急行電鉄」と改称する(「阪急」の通称はこのときに誕生)。こうして阪急神戸線は大正9(1920)年に開業した。小林は「奇麗で早うて・ガラアキで・眺めの素敵に良い・涼しい電車」というキャッチコピーを発案。出来たばかりで客が少ないことを「ガラアキ」と自虐し顧客を誘因するセンスは凄すぎる。「阪神との競合」の中から阪急は自己のアイデンティティを確立した訳である。
現在阪神は阪急傘下にある。契機となったのは「阪神淡路大震災」(1995年1月17日)による経営危機と「村上ファンドによる阪神株式大量取得事件」(2005)である。村上ファンドは私鉄経営には関心がなく第3者への高価売却により利益を得ることだけが目的だったから「誰が幾らで購入するか」にしか関心が無かった。当初は京阪が打診されたが挫折する。そのため急浮上したのが阪急である。2006年4月1日阪神・阪急の社長が経営統合に基本合意。4月28日にこれを正式発表してTOB(株式公開買い付け)の準備を進めた。村上ファンドは反発したものの(村上代表が逮捕される事態となったため)6月初旬にTOBに応じる方針を決定。これにより同年10月1日に阪神電気軌道は「阪急ホールディングスの子会社」となったのだ。
阪神芦屋駅で降りる。東口で降りるべき所を間違えて西口で降りてしまった。凄く狭い。近くに喫茶店がある雰囲気は皆無だ。東口なら何かあるだろうと思い道路沿いに出たら交差点に見覚えのあるレトロ建築物が見える。以前フェイスブック上のグループ「レトロモダン建築」で知った芦屋警察署である。昭和2年竣工のレトロ建築。正面玄関のアーチや正面上部に配されたミミズクの彫刻などで長年市民に親しまれてきた。設計は兵庫県営繕課によるものだが当時営繕課長であった置塩章の影響が大きいとされる(置塩章は宮崎県庁の設計者として名高い・昭和7年・ちょっと寄り道「宮崎」を参照)。ロマネスク様式の素晴らしい建物であるが昔のままではない。この建物は阪神大震災の時に大きく被災した。取り壊しも検討されたが保存を望む市民の声が大きかったので外観保存された。2001年竣工の新館は芦屋川に沿う西側に正面玄関が設けられている。しかし庁舎南東部の旧正面玄関部分周辺は保存され、新館も色調や窓の形状などが旧庁舎の外観と適合するよう配慮されている。芦屋は文化度が高い!もし私が間違えず最初から東口に出ていたら芦屋警察署には気付かなかった。降り口を間違えたおかげでこの建物に出会えたのだ。私は運が良い。友はスマホを検索し東口に渋い喫茶店「にしむら珈琲店」があることを発見。入ってみると調度品や什器が立派だ。雰囲気が良い素晴らしい店だ。快適朝食。目前にタクシー乗り場がある。本来であれば阪急「芦屋川」駅まで歩ける距離である。しかしながら今日は重い荷物を持っているのでタクシーを使うことにした。快適乗車。駅前でタクシーを降りる。コインロッカーにリュックを預けて気分よく出発する。
芦屋のお目当ては何といっても「ヨドコウ迎賓館」である。世界的に有名な建築家フランク・ロイド・ライトの設計になる凄い建物だ。たいして建築に詳しくない私ですらその存在は早くから認識していた。ここを訪れることは若い頃からの私の夢の1つであった。今日その夢が叶うのだ。テンションが上がる。芦屋川にかかる橋を渡り坂を登っていくと左手に緑に囲まれた特徴的な建物が見えてきた。ネット上は「時間予約制」とされていた。私は予約していなかったので断られても仕方が無いという感じで中に入った。当然ながら先客がいて受付中。でも玄関からの海の眺めも素晴らしく、このまま帰っても文句は無い。だが友は諦めることなく館長さんとかけあってくれた(私が遠く九州から見学に来た等と説明してくれたはずだ)。その結果、私どもは中に入れて貰えることになったのだ!
この建物は大正末期に山邑家の別邸として建てられた。1974年に国の重要文化財に指定されている。施主である山邑家は灘の酒造家で、当時の当主八代目太左衛門がライトの弟子である遠藤新を通じてライトに設計を依頼した。山邑家別邸として使用された後、他人の手にわたり、ヨドコウ(株式会社淀川製鋼所)が購入した。維持費がかさむために取り壊しの危機もあったのだが、建築家たちの反対運動が起こり、重要文化財に指定されて回避された。努力された先人に感謝である。
藤森照信氏によるとライトは日本建築からの影響を強く受けている(「藤森照信の建築探偵放浪記」経済調査会)。自然と調和する建築のあり方。たしかに落水荘(ピッツバーグ)には「自然環境との調和」を感じる。土地の特性を生かした建て方は有機建築そのものである。しかし落水荘とヨドコウでは「視線」が逆だ。落水荘は明確に「見られる」視線を意識して設計されている。その証拠に主要な部屋からは滝が見えないのである。滝を眺める建物ではなく滝と一緒に眺められる建物だ(@藤森)。これに対しヨドコウは明確に「見る」視線を意識し設計されている。海に面した細長い建物正面が眺望室になっている。芦屋の街を「見る」視線にこそ最高の価値が置かれているのである。他方、道路からは建物の全体像が判らない。ヨドコウは「見られる」視線を意識していない。同じ設計者でありながら全く違う設計思想になっているところが面白い。ちなみにライトはこの建物の基本設計ができた段階で帰国してしまったため実施設計を担当したのは弟子の遠藤新だ。建物内部の細部の意匠はライトの建築思想を受け継いで遠藤が創作したものである。大谷石をふんだんに生かした建築思想は代表作「帝国ホテル本館」(明治村)に通じるものがある。幾何学的な模様を施した大谷石・マホガニーの複雑な木組み装飾・植物の葉をモチーフにした飾り銅板などが素晴らしい。特に応接室(2階)和室(3階)食堂(4階)が見事である。手の込んだディテールだけにメンテナンスは大変そうだ。現物をみて感じたのは施工の難しさ。「自然環境との調和」の理想は口で言うのは簡単だが施工するのは難しい。山邑が提供した土地は尾根の先端部分で、高低差もあって一歩間違えば崩壊の危険がある。設計図を手にしたときの建設作業員たちは大変だったに違いない(特に基礎工事)。それを可能にしたのは戦国時代以降に培われた日本の建築技術だったのだろう。
坂を下りて芦屋川を渡り再び坂を登る。「滴翠美術館」は休館中であった。休館中なのに人がいて口頭で説明されるところが凄い(張り紙で済まさないところが流石に芦屋である)。せっかくなのでリーフレットを希望したところ快く提供された。この建物は大阪財界で活躍した山口吉郎兵衛の邸宅であった。昭和26年の山口氏逝去後に夫人が氏の古美術品コレクションの一般公開を目的に雅号「滴翠」を冠して美術館にしたものである。謝意を述べて退出する。歩いて芦屋川駅への道を下る。豪邸が立ち並ぶ芦屋の高級住宅街をのんびり歩くのは良い目の保養になった
阪急「芦屋川」駅から阪急電車に乗り神戸三宮に向かう。「御影」「六甲」という高級住宅地を通り抜け「阪急三宮」で下車。JR線に乗り換えて元町で下車する。コインロッカーを探したが全て既に満杯だ。他に空きが見当たらない。やむなく荷物を手に持ったまま南京町に向かう。日曜日の正午前だったので物凄い人出であった。コロナ禍はもう終わっている。フカヒレ料理店「友好飯店」でランチ。十分に美味しい。食事中、日本における「チャイナタウン」の歴史について考える。九州の博多長崎が古代からの長い歴史を有するのに対して横浜神戸は明治の開港以後に発展した極めて新しいチャイナタウンである。何故開港地に中華街が形成されたのか?初期の西洋人は日本語が全く判らなかった。日本人は西洋の商慣習に習熟していなかった。そのために「西洋の商慣習に通じ日本人とも漢字で筆談できる華僑」が香港や上海などから大勢やってきて定住したのである(「チャイナタウン展・もうひとつの日本史」福岡市博物館を参照)。食事後、友とはここで判れる。友のおかげで私は充実した休日を過ごすことができた。誠に持つべきものは良き友である。感謝。
2泊3日の阪急の旅は終わったが、私はこれで満足していない。何故ならば阪急のもう1つの主要路線「京都線」に乗っていないからである。逸翁美術館における次の企画展も是非鑑賞したい。今年中に再度阪急へ!心に留めながら私は新神戸駅で新幹線「のぞみ」に乗車した。<終>
* 「日本経営史の基礎知識」(有斐閣ブックス)に次の記述があります(210頁)。
国有化された阪鶴鉄道の第2会社として休眠同然の箕面有馬電気軌道(現阪急)をアイデアマンの小林一三が引き受け、1908年、電灯電力の供給・娯楽機関の経営・土地家屋の売買・賃貸営業を行うことに定款を変更し、遊覧鉄道の資本回転率の低さを不動産業の兼営でカバーしようとした。最初の池田市街地では会社直営の購買組合や娯楽機関としての倶楽部を新築すると宣伝するなど着想の斬新さが見られた。1910年、宝塚線を開通させたものの、好立地の阪神と比べ2流の遊覧電車に過ぎなかった。阪神急行電鉄と改称後、1920年に阪神に対抗して神戸線を一挙に開通させた。