5者のコラム 「学者」Vol.61

教育の成果としての「いじめ」

内田樹教授は「いじめ」という現象についてこう述べています。

私の見るところ「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。(略)「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に「いじめることは良いことだ」というイデオロギーが既に学校に入り込んでいるから起きているのです。生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは現在の日本の組織の雇用においては既に常態です。「生産性の低いもの・採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。そういう社会環境の中で「いじめ」は発生し増殖しています。

日本社会に「いじめ」が蔓延しています。子供はその「構造」を観察し熱心に学んでいるのです。各地の教育委員会が多数の「いじめ」を必死で隠蔽しようとするのも、彼らが「職務を適切に履行していない」が故に「処罰の対象」となりメディアや政治家からの「いじめ」のターゲットになることを恐れたからと断言できます。失態のあったものは「いじめ」を受けて当然だと彼らが信じていたからこそ教委は「いじめ」を隠蔽したのだと内田教授は喝破します。彼らは、自分たちこそが「いじめ」の標的になることを恐れたのです。そのような「他罰的なふるまい」そのものこそが子供たちの「いじめマインド」を強化していることについてはもうすこし不安を抱くべきでしょう。何故ならば子供は大人が「言っていること」を学ぶのではなく「していること」を学ぶものだからです。

5者

前の記事

壁と卵のメタファー