歴史散歩 Vol.69

夏目漱石と久留米4

原武哲先生の研究によると漱石は久留米に5回も来ています。漱石が松山を発ち、熊本の第五高等学校に赴任して離任するまでの約4年3ヶ月の間に集中しています。以下、原武先生の「夏目漱石と久留米・伝記と作品」(日本英学史学会九州支部発足30周年記念誌07年10月10日号18頁以下)「夏目漱石と菅虎雄・布衣禅情を楽しむ心友」(教育出版センター)を底本にご紹介します。小城左昌「夏目漱石と祖母『一冨順』」も参考にさせていただきました。

第1回目は明治29(1896)年4月。愛媛県尋常中学校(松山市)を離任して新任の第五高等学校(熊本市)に赴任する途中で立ち寄ったものです。漱石は4月10日高浜虚子とともに松山を発ち、宮島を見物して宇品港から瀬戸内航路定期汽船で門司港に向かいました。船中で俳人水落露石・従弟武富瓦全の2名と偶然に逢い、太宰府や二日市を一緒に散策して久留米を訪問しています。この点に関する漱石の直接資料はないのですが水落露石の日記から裏付けられるようです。久留米では水天宮を参拝しています。その後に菅虎雄が待つ熊本に向かっています。

第2回目は明治29(1896)年9月。新妻の鏡子を連れ叔父(中根与吉)を訪ねて福岡市に出向いた際、久留米に立ち寄ったものです。この旅行は鏡子との結婚後最初のもので、長期休暇を利用した実質的新婚旅行でした。このときに漱石は多くの句を残しています(9月25日付漱石書簡「子規へ送りたる句稿」17・「漱石子規往復書簡集」岩波文庫228頁)。
     博多公園    初秋の 千本の松 動きけり
     箱崎八幡    しほはゆき 露に濡れたる 鳥居哉
     香椎宮     秋立つや 千早古る代の 杉ありて
     天拝山     見上げたる 尾の上に秋の 松高し
     太宰府天神   反り橋の 小さく見ゆる 芙蓉哉
     観世音寺    古りけりな 道風の額 秋の風
     都府楼     鴫立つや 礎残る 事五十
     二日市温泉   温泉(ゆ)の町や 踊ると見えて さんざめく
     船小屋     ひやひやと 雲が来る也 温泉(ゆ)の二階
 この途中で漱石は久留米にも立ち寄り次の句を詠んでいます。

梅林寺     碧巌を 提唱す山内(やま)の 夜ぞ長き

この句が菅虎雄先生顕彰会が今年中に建立する句碑になります。

第3回目は明治30(1897)年。春期休暇の3月から4月にかけて、高良大社を参拝するとともに高良山を越えるハイキングを行ったものです。この旅行は小宮豊隆が著書「夏目漱石」において虎雄の病気見舞いとしているため一般に「菅の見舞いのため」と解釈されているようですが、原武哲先生によると菅虎雄の病気は1月と2月の欠勤による静養(1月は13日・2月は9日)で治癒しており3月にはすっかり回復しているそうです。したがって3月のこの旅は虎雄の病気見舞いが主目的ではありません。では何が目的だったのか?歩きながら追って考えることにしましょう。
 漱石は府中の高良大社大鳥居から続く参道を歩いて登ったはずです。府中は薩摩街道の宿場町であり高良大社門前町としても栄えました(「薩摩街道と松崎宿」参照)。府中には昔の風情を偲ばせる街並が僅かに残っています。街道沿いに高良大社の下宮社が設けられています。藩主クラスが宿泊する御茶屋は現在の御井小学校にありました。
高良大社一の鳥居は承応4(1655)年に久留米藩二代藩主有馬忠頼が寄進したものです。現在は菅虎雄の揮毫した石碑があります(当然、漱石探訪時に石碑はありません)。この下をくぐって少し参道を歩きます(自動車道は左・歩道は右です)。左手に御井寺があります。御井寺は天台宗の寺院で、明治初年に廃仏毀釈により高良山から撤去された仏教法具などが納められています。現在の高良大社に仏教臭はありませんが、かつての高良山は典型的な神仏習合の山であり、参道沿いに多くの仏教施設が並んでいました(「中世高良山の終焉」参照)。

 右手に巨大な門が現れます。石橋正二郎氏別荘である「水明荘」です。<久留米の成功者(支配者)は高良山に拠点を設ける>という歴史に鑑みて正二郎はこの場所に別荘を設けたのではないかと私は感じます。

少し歩くと御手洗橋があります。参拝者はここを渡ることによって結界をくぐり、身を清めて聖域である高良山に入ることになります。険しい石段が参拝者を迎えます。少し歩くと神籠石の象徴である馬蹄石があります。
山道を登り切ると最後の石段が待ち構えています。これを昇ると正面に高良大社本殿が現れます。振り返って石段から下を眺めると向こう側に雄大な久留米市内が広がります。その遥か遠くには佐賀(肥前)の背振山地が見渡せます。漱石はこの情景をこう詠みました。

石磴(せきとう)や 曇る肥前の 春の山

その後、漱石は高良大社を参拝して次の句を詠んでいます。

 拝殿に 花吹き込むや 鈴の音


 参拝を終えた漱石は奥の院方面に向けて足を運んだことでしょう。奥の院の入口から左手の土手に「飛雲台」と呼ばれる見晴らしの良い高台があります。
 「草枕」の一にある「巌角を鋭く廻って、按摩なら真逆様に落つる所を、際どく右へ切れて、横に見下すと菜の花が一面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのかと思った。いいや、あの横金の原から飛び上がってくるかと思った。」の記述はこの情景のようです。漱石は次の名句を残しました。

菜の花の 遥かに黄なり 筑後川


イメージされていた風景はこのようなものだったのではないでしょうか。

久留米ツツジ公園(旧・毘沙門岳城)を後にして、車で耳納スカイラインを走らせると、次の2基の句碑が目に付きます。
 

人に逢わず 雨ふる山の 花盛   
 筑後路や 丸い山吹く 春の風

  
「人に逢わず」の句碑は字を間違えています。漱石の原文は「人に逢はず」なのですが、久留米市の担当者が原文との照合をせずに制作者に発注してしまったもののようです。結構な予算を使って制作したものでしょうから、こんなミスがあると残念な気持ちになります。
 句碑は作られていませんが、次の句も詠まれています。
    雨に雲に 桜濡れたり 山の陰        
    花に濡るる 傘なき人の 雨を寒み              
    山高し 堂ともすれば 春曇る
さらに耳納スカイラインを車で走ると発心城(天正5年に草野家清が築いた山城・天正16年家清が豊臣秀吉家臣により謀殺され廃城となった)跡の西側に次の句碑が目に付きます。

濃(こまや)かに 弥生の雲の 流れけり


この句碑が置かれている現在の耳納スカイラインを車でゆくと、明治時代の漱石がこの道を歩いたかのように誤解します。明治の当時、耳納山脈の尾根沿いに、現在のような整備された自動車道があったわけではありません(耳納スカイラインが出来たのは昭和43年)。漱石が発心城跡まで歩いたとは到底思われません。小城左昌氏はこう述べています。

漱石は強健な体力を持っていたわけではない。目的は発心の桜見学であるので、わざわざ山道を歩く必要は無かったはずであるし第一山歩き出来るような服装でもなかったと思われる。おそらく高良山から追分付近に下り善導寺木塚の一冨家に行き一冨家に1拍。翌日山の下の旧道を通り発心山ではなく発心山下の発心公園の桜を見て帰りに久留米で買い物をしたに違いない。健脚の人でも、このコースを1日でこなすことは物理的に出来ない。

私も同感。「漱石の道」の名でこの地に設置するのは止めるべきと感じます。

 漱石の久留米訪問は何が目的だったのか?物見遊山の側面もあったようですが、善導寺の一富家を訪ねることが主目的だったようです。小城氏によると漱石は善導寺の一富家で1泊しています。この一冨家の1泊は鏡子に内緒でした。ところが、この密泊の事実が後で鏡子の耳に入ります。疑念を募らせた鏡子が(流産した後の精神的不安定も手伝い)翌年の自殺未遂事件を引き起こしたのではないかと小城氏は推測されています(小城左昌「夏目漱石と祖母一富順」22頁)。
一冨家で1泊した漱石は発心公園で桜を見物します。発心公園は(第七代藩主有馬頼ゆき等)久留米藩の歴代藩主が桜見物をした桜の名所です。ここで漱石は次の句を残しました。

 松をもて 囲ひし谷の 桜かな

 
 発心公園は発心城下にありますから「濃やかに」の句碑を設置した担当者は漱石が発心城跡からこの発心公園まで下ったものと推察したもののようです。しかしながら前述の通り漱石は(善導寺で1泊した後)下の道から発心公園に上がったものと思われます。見学を終えた漱石は久留米に戻り、正岡子規への土産物を買って熊本に帰りました。

 第4回目は明治30(1897)年11月で、佐賀県と福岡県の英語教育を参観して報告書をまとめる完全な公務です(原武哲先生が発見した熊本大学資料により裏付けられる「喪章を付けた千円札の漱石」笠間書院46頁以下)。漱石は10月29日「学術研究のため福岡佐賀両県下へ出張を命ず」との辞令を受け11月に第五高等学校教授武藤虎太とともに以下の学校を視察しました。
     11月 8日 佐賀県尋常中学校(現佐賀西高校)
     11月 9日 福岡県尋常中学校修猷館(福岡)
     11月10日 福岡県尋常中学校明善校(久留米)
     11月11日 福岡県尋常中学校伝習館(柳川)
 明善校では3時間(1年生・4年生・5年生)の授業を参観しています。漱石による各授業の評価は以下のとおり。
    1年生クラス(生徒56名)  直訳法すぎ・あまり良い授業ではない
    4年生クラス(生徒約35名) 一方的講義・教科書も難しすぎ
    5年生クラス(生徒約30名) 普通・学生に英語力足りない
 英語の達人・夏目金之助に参観される教師と生徒達はとても緊張したでしょうね。

 第5回目は明治32(1899)年1月で、五高教授である奥太一郎とともに耶馬溪を旅行した際に久留米に立ち寄ったものです。耶馬渓の帰りに山川追分を訪れ次の句を詠んでいます。

親方と 呼びかけられし 毛布(ケット)哉


これは名作『坊っちゃん』三に登場する「親方」のモデルとされています(ただし舞台は鎌倉・大仏見物の場面に移し換えられている)。追分は分かれ道・分岐点という意味で、当時この場所には人力車の車夫が客待ちをする立て場がありました。当日は雪が降っており、毛布を頭からかぶっていた漱石は車夫から「親方乗っていかんのう」と久留米弁で呼びかけられたのです。日頃は五高教授として「先生」と呼ばれることに馴れている漱石が不意に「親方」と呼ばれたのが可笑しかったようです。小城左昌氏によると、この時も漱石は善導寺の一冨家を訪れているようです(「夏目漱石と祖母一富順」18頁26頁)。が、管虎雄は東京におり善導寺にはいません。漱石は順に会いに来たのです。一冨家では宿泊を薦めたようですが、漱石が固辞したため叶いませんでした。滞在したのは約1時間くらいのようです。漱石は、前回の一冨家訪問が鏡子の自殺未遂という不測の事態を生じさせたため宿泊を固辞し足早に久留米から熊本まで帰ったのでしょう。

 以上が原武哲先生の研究によって判明した漱石の久留米に残した足跡です。久留米の人は夏目漱石が久留米に5度も来ており、作品中にもその痕跡が見受けられることをあまり認識していないのですが漱石の中で久留米は特別の意味を持った都市だったのです。4回にわたり夏目漱石と久留米の係わりについて書きつづってきました。夏目漱石と久留米の縁は全て菅虎雄を通したものです。「菅虎雄先生なくんば漱石の『坊っちゃん』なく『草枕』なし」は原武哲先生が菅虎雄先生顕彰会会長として作られている名刺に書かれている名文です。「菅虎雄先生なくんば漱石と久留米の縁なし」とも言えます。平成25年10月20日、梅林寺外苑に菅虎雄先生顕彰会によって顕彰碑が建立されました。これを機に夏目漱石と久留米の縁が広く世に知られますことを願っています。

(14年7月後記)
 「夏目漱石と久留米1~4」執筆に際し多大なるご協力をいただいた原武哲先生が大著「夏目漱石周辺人物事典」を刊行されました(笠間書院)。本稿で取り上げた菅虎雄・夏目鏡子・俣野義郎・土屋忠治などが詳細に解説されています。
(16年5月後記)
 平成28年5月22日、郷土史家・増原達也氏の講演会がありました。要旨
① 「石磴や曇る肥前の春の山」の句は茶屋横駐車場の辺りから詠んだ。
② 漱石は尾根を歩いていない。茶屋横から山川に下り人力車に乗った。
③ 漱石が訪れたのは二松学舎の同窓生飯田氏であろう。
④ その後、漱石は筑後川を船で(瀬の下まで)下った。
⑤ 本文で紹介した句は船で下りながら耳納連山を仰ぎながら発句。
 真偽は良く判りません。いろんな見方があるということを心に留めて漱石と久留米の関係について各自イメージを膨らませていただければと思います。

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