歴史散歩 Vol.71

蒲池の姫君

西鉄大牟田線に「蒲池」という名の駅があります。現在の柳川市北部に残る地名です。今回はこの蒲池を舞台にした2人の姫君の物語です。以下、大城美知信他「柳川の歴史2・蒲池氏と田尻氏」(柳川市)河村哲夫「筑後争乱記・蒲池一族の興亡」(海鳥社)中川原廣吉他「ふるさと歴史探訪」(有明新報社)吉永正春「筑後戦国史」(葦書房)等を基礎にして御紹介します。

古代において筑後には中央権力を脅かした豪族・磐井がいましたが、中世において筑後に大勢力は出ず、弱小領主たちが互いに牽制する状況が続いていました。そのため筑後は他強国の草刈り場的な地勢にあり、特に豊後の大友氏の勢力下にある時期が長く続くことになりました。筑後領主(国人・国衆)の中で最大勢力を誇ったのが蒲池氏です。出自や系譜には明確でないところも多いようですが通説的には次のとおり理解されています。①「祖系蒲池氏」藤原純友の乱を契機とする、②「地頭系蒲池氏」鎌倉幕府の御家人となり地頭に任ぜられた、③「松浦系蒲池氏(前蒲池)」承久の乱後に肥前松浦党との繋がりで繁栄した、④「宇都宮系蒲池氏(後蒲池)」宇都宮家から養子に入り蒲池家中興の祖となった久憲を始祖とする家系。なお「後蒲池」は後に蒲池の勢力を弱めようとする大友氏から上下2家に分断させられている(下蒲池が本家・上蒲池は立花町山下城主)。
 蒲池城は松浦系蒲池氏が天慶の初め(938年頃)現在の崇久寺西側一帯に築いた城です。後の時代に廃城されているので周囲は田んぼや宅地になっています。崇久寺西北に「蒲池城跡」の碑が民間有志により建てられています。上記碑がある場所が本当に蒲池城址であるかに関しては異論もあります。この地域の西に三島神社があります。三島神社は周囲を堀で囲まれており神社としては変わった雰囲気です。蒲池城の中心はここにあったと考える史家もいるようです。後蒲池氏五代治久は現在の柳川市坂本町(日吉神社あたり)に柳川城を築き蒲池城の支城としました。治久は同じ頃それまで「長福寺」と呼ばれていた後醍醐天皇の勅願寺を「崇久寺」と改名して蒲池氏の菩提寺としています。七代鑑盛は柳川城を拡大して本城とし蒲池城を支城としました。このころが蒲池氏の最も栄えた時代です。
 蒲池氏は大友支配下にありましたが、天正6(1578)年の「耳川の戦い」(日向)において大友が島津に大敗すると肥前の龍造寺隆信の勢力が強くなりました。八代鎮並(しげなみ)は天正9(1581)年、龍造寺隆信によって佐賀で謀殺されます。経緯は次のとおりです。龍造寺隆信は耳川敗戦で大友の勢力が弱くなったことを感じるや、筑後大友諸将に働きかけて自分の勢力下に置きます。鎮並も同様です。が、猜疑心の強い隆信は天正8年、鎮並に謀反の疑いをかけ柳川城を包囲します。しかし何十にも堀やクリークで囲まれた柳川城は要害堅固であり力づくでは落とせませんでした。そのため隆信は鎮並の叔父(鎮並の母の弟)である鷹尾城主・田尻鑑種(あきたね)を使って鎮並といったん和議を結びます。天正9年隆信は再度鎮並に謀反の疑いをかけますが、前年の反省から正面攻撃はせず、「友好の宴を催す」という大義名分で佐賀に呼び寄せ、その帰路、与賀神社近くの馬場で待ち伏せして謀殺するのです。

(解説板の文章は史実を歪曲して作られています。「どんな行き違いであったか」という他人事ではありませんし「やむなき会戦」でもありません。)
 さらに隆信は田尻鑑種を使って留守の柳川城を落とすとともに蒲池残党が立て籠もる他の支城にも総攻撃をかけて、蒲池(宗家)の者をほぼ全滅に追い込みました。(ルイス・フロイスは「日本史」第2部24章で詳細に記しています。) 「南筑明覧」によると、柳川城陥落後、城を逃げた鎮並婦人(玉鶴姫・龍造寺隆信の実娘)や侍女たち108人は追っ手を逃れて隠れていましたが「もはやこれまで」と覚悟し全員が自刃したそうです。
 西鉄大牟田線塩塚駅の西にある宗樹寺に「蒲池氏百八人塚」の碑が残されています。

 かようにして筑後の名門蒲池氏宗家は皆殺しになりましたが奇跡的に命を救われた者がいました。鎮並の娘・徳子です。当時14歳の徳子姫は侍女らの機転で柳川を脱出し島原半島まで落ち延びます。そして城主・有馬義信の庇護を受けるのです。河村前褐書によると徳子は当初自分の身分を明かそうとしませんでした。が、島原の城で行われた七夕の祭りの際「自分にはもう家族がいないのだ」という悲しみを込めて「いざさらば 何をかかげん 七夕に 涙の他は 身にそわばこそ」と詠みました。この歌が城主有馬義信の耳に届きます。徳子が名門蒲池氏の姫君であることを知って義信はこれまでの非礼をわび、以後徳子は姫君として大切に育てられました。徳子は蒲池氏の主家である大友家の重臣(朽網家)に嫁ぎ66年の人生を全うします。こうして筑後の名門・蒲池家の生命は後世に伝わることになるのです。菩提寺である崇久寺に徳子の墓があります。
徳子姫の子孫は生命をつなぎ「蒲池」の名を世に残しました。徳川の世になり蒲池の名を受け継いだ応誉上人は柳川の名刹「良清寺」の開祖となりました。

 良清寺は柳川藩祖・立花宗茂が正室誾千代(戸次道雪娘)を弔うため元和7年(1621年)に応誉を招いて建立したものです。応誉は蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男である蒲池統安の次男です。統安は耳川の戦いで討死し嫡子鎮貞も龍造寺との柳川の戦いで討死していました。次男の応誉は僧籍にあり瀬高上庄来迎寺の第四世住職を勤めていました。柳川に戻った立花宗茂に招かれ、正室・誾千代の菩提寺良清寺を開き初代住職となります。応誉の子孫は代々住職を勤めるとともに還俗して蒲池を再興し藩士として寺を守り現在に至っています。

良清寺先代住職の弟さんは公務員となり久留米市荒木町に住んでいました。私と同じ昭和37年にこの家に生まれた女性は法子(のりこ)と名付けられます。「仏法に縁がある家の子として健やかに育って欲しい」との親御さんの願いが込められているのでしょう。蒲池法子さんは久留米で育ちますが18歳のとき「裸足の季節」でメジャーデビューします。法子さんは瞬く間に1980年代の歌謡界を席巻する歌姫となりました。蒲池法子さんが成功した要因として本人の素晴らしい才能があったことは間違いありません。しかしながら芸能界は素晴らしい才能に恵まれた人が多く集まる世界です。かような厳しい芸能界で長い長い時間を生き抜いていくためには何らかの「他力」(自分だけの力を超えた何か・神様から愛される何か)が必要だと私は感じます。素晴らしい才能に恵まれながら、そういった神様の愛を得られずに埋もれていった芸能人は山のように存在するからです。
 私は「蒲池の生命を後世に伝えた徳子姫の祈り」が、数百年もの時を経て、現代の歌姫である蒲池法子さん(芸名・松田聖子)に幸いをもたらしたに違いないと感じています。(終)

* 荒木中学校正門は平成9年11月2日に創立50周年記念事業で創設されています。寄贈したのは荒木窯業株式会社と蒲池法子さん(第30回卒業生)です。

* 佐賀与賀神社に胸高周囲6メートル超の大楠があります。本殿向かって左の1本が際立って巨大です。推定樹齢約1400年。この木は眼前で繰り広げられる悲劇を見つめてきたのです。

* 2023年、久留米市に義援金1000万円が届けられた。贈り主は松田聖子さん。
 原口新五市長「久留米市のためにお役に立ててくださいと義援金をいただきました。心から感謝を申し上げたい」。今年7月記録的な大雨により土砂災害など甚大な被害を受けた久留米市。義援金を募ると先月1000万円の振り込みがあった。市の担当者が贈り主を確認すると「felicia club」という文字があり担当者が連絡すると「聖子さんが設立した個人事務所ということが判りびっくりした」。聖子さんからメッセージが届いた。「被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。私の大切な故郷、久留米の一日も早い復興をお祈りいたしております」。

* 2024年3月9日、ミュージックフェア60周年企画第2弾は聖子さんの特集。現役として活動を続ける姿勢を拝見し感銘を受けました。彼女の下には今も多くのスタッフがいてその生活を支えていかなければならない・同時に娘を亡くした自分の精神状態も維持していかなければならない・この方は「本物の姫君」なんだと私は思いました。以下「毎日新聞」のネット記事から。
>その後歌ったのがクラプトンの「Tears In Heaven」だった。「この曲からたくさんのことを教えてもらったというか。何があっても・どんな時も前向きに生きていかなければいけない・頑張っていかなければいけないというのを、この曲から教えてもらいました」。同曲はクラプトンが事故で亡くなった4歳の息子を思い書いたものだった。

* 2024年3月24日のネットニュース。歌手の松田聖子(62)が中央大学法学部通信教育課程を卒業したことが24日、分かった。学士(法学)の学位が授与された。松田は数年前からレコーディングやコンサートなど音楽活動の合間を縫って勉学との両立に励んできた。スポーツ報知にコメントを寄せ「この度、中央大学法学部通信教育課程を卒業することができたことを大変幸せに思います。中央大学で法律を学ぶことができた4年間は私にとって素晴らしい時間でした。あたたかくご指導いただきました先生方、関係者の皆様に心より御礼申し上げます」と心境をつづった。

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