歴史散歩 Vol.83

医師の劇団2

「嫩葉会年鑑」(全3冊・大正12・13・14)は安元知之が残した「嫩葉会」活動の詳細な記録です。我々が嫩葉会の活動を振り返ることが出来るのは几帳面だった知之が活動の詳細を客観的に文章として保存しておいてくれたからです。

 さらに知之は「嫩葉会影録」(全3冊)も作成していました。これは公演の写真をアルバムにしていたもので、当時の具体的な背景・衣装・照明などを知ることが出来ます。おそらく知之は自分の演劇成果を自身で確認するとともに客観資料として残すことで後世の批評を得たいと願っていたのではないかと私は感じます。下記写真は安元家に残されていた原本です。

 上記著作をもとに約3年間にわたる嫩葉会の演劇活動を振り返ります。今回は大正12年です。初演作品には通し番号を振っています(再演には振っていません)。戯曲内容紹介にあたってはネット上の情報を適宜引用させていただきました。両著作は安元知臣様にお貸しいただいたものです。

 大正12年には6回の試演会が行われ計10本の新作が上演されました。年末には安元邸内に芝居小屋がもうけられて2日間計7本(3本が新作)上演がされる特別公演会も開催されました。 
第1回試演会(4月30日)
1 菊池寛「屋上の狂人」。狂人である兄・義太郎(24歳) と賢人である弟・末次郎(17歳)。屋根に登った狂人であるほうが世間人よりも幸福ではないか?と問う人生への懐疑と皮肉を描く作品と評される。末次郎の次の台詞が印象的である。「屋根へさえ上げといたら朝から晩まで喜び続けに喜んどるんやもの。兄さんのように毎日喜んでおられる人が日本中に1人でもありますか。(略)何でも正気にしたらええかと思って、苦しむ為に正気になるくらい馬鹿なことはありません。」(ちくま日本文学27「菊池寛」402頁)

 観客も演者も戯曲の意味が判らなかったようです。「狂人のほうが幸せでは?」と問うには社会の不条理に対する見識(狂っているのは社会ではないかという洞察)が必要ですが山春村の農民にこういう意識があったとは思われません。が知之は第1回目試演が出来て嬉しかったでしょう。

 次の試演会まで僅か12日間とは演劇準備期間として短すぎます。知之は溢れ出る自分の演劇イメージを抑え切れなかったのでしょう。知る限りの素晴らしい近代演劇の脚本を一刻も早く自分の手で上演したかったのではないか?こう私は推察します。

第2回試演会(5月12日)
2 武者小路実篤「わしも知らない」。満28歳の実篤が書いた出世作。釈迦を主人公とした5場の短い戯曲。釈迦と弟子目蓮の対話を中心とした場、釈種(釈迦族)を怨む流離王と手下の好苦梵士の対話を中心とした場が交互に展開する。

 次の試演会まで僅か9日間。狂気に取り付かれたように演劇に熱中している知之の姿が目に浮かびます。最初の上演作品が「屋上の狂人」だったのは決して偶然ではないと私は考えています。おそらく知之の脳の中には<屋上に上がりたい義太郎の狂気>と<これを冷静に暖かく見つめている末次郎の理性>が同居していたのでしょう。

第3回試演会(5月21日)
3 菊池寛「父帰る」。かつて家族を顧みずに家出した父が20年ぶりに落ちぶれ果てた姿で戻って来た。母と次男と娘はこれを温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え弟妹を中学まで出した長男は決して父を許さなかった。父は家を去る。が、哀願する母の叫びに長男は翻意し、弟を連れて狂ったように父を追う。(ちくま日本文学27「菊池寛」423頁)。知之には自分の人生を拘束してきた父に対する憎しみの感情があったはずです。しかし他方でかような感情を持ったことに対する自責や感謝の念も渦巻いていたはずです。それゆえ「父帰る」という作品の上演には父に対する知之の複雑な・屈折した感情が込められていると私は感じます。

次の試演会までには1ヶ月以上の間があります。今後の演劇活動をどのように展開していこうかと熟慮にふける知之の姿がイメージされます。

第4回試演会(6月30日・7月1日)
   「屋上の狂人」「父帰る」「わしも知らない」が再演されるとともに
4 山本有三「生命の冠」。南樺太の真岡で蟹缶工場を営む有村兄弟。清潔な志を守り通そうとする兄・恒太郎と合理性を重んじる弟・欽次郎は漁へ出た2号船が沖で消息不明になったのをきっかけに工場の経営について対立していく。海外からの大量注文の納品と工場の乗っ取りを目論む会社への借入金の返済、その両方の期日が迫る。

 ここで知之と郷土の先覚者・有馬頼寧の関連に言及しておきます。頼寧は大正8年に上層華族を説得して信愛会を設立しました。貧民の上級学校進学の機会を設けるために信愛学院(夜間中学)を創立し大正9年に貧民向けの無料診療所を設立しました。大正10年には日本教育者協会を設立するとともに部落問題解決のため同愛会を設立しています。大正11年には日本農民組合の結成に尽力し更には全国水平社結成にも賛同し積極的資金援助をしています(頼寧は後に「社会主義者」「アカ」のレッテルを貼られています)。頼寧は「いわゆる社会事業をやるのは僕たちのように何の苦労もなしにただ先祖から譲られた財産で恵まれた生活をしている者の、社会人としての義務であると思う。」という真摯な言葉を残しています 知之が嫩葉会に私財を投入したのは頼寧と同じ感覚を持っていたからだと私は感じます。大正時代は経済格差の拡大が進行した時期でした。他方で(マルクス主義を背景にした)理想主義が浸透した時代でもありました。裕福な者には(キリスト教的倫理を背景にした)贖罪意識が芽生えていたのです。大正時代に進行した「社会閉塞の状況」は前回「医師の劇団1」でふれています。大正7年から9年にかけてはスペイン風邪パンデミックも社会を襲っていました。政治における構造的問題噴出と意識面における理想主義の噴出の共存。大正時代は短いのですが深く研究されるべきです。ちなみに太宰治が同人誌を創刊し小説を書き始めるのが大正14年。太宰も名家の生まれであることに大変な負い目をもって作品を生み続けた作家です。
 かかる前提の上に知之と大杉栄との関連について言及します。大杉はロマン・ロランの「民衆芸術論」を翻訳しています(大正6:1917年)。「民衆芸術論」はロマン・ロランが自らの理想とする演劇のあり方を語った著作。内容を紹介する文献があるので引用します。

当時フランスでは社会問題が顕在化し、政治経済の領域ばかりでなく文化的領域でも民衆労働者の存在が意識されるようになっていた。しかし政府は暴動を予防するために演劇の教化作用を利用していた。ロマン・ロランは過去の演劇の用いられ方を批判し、今こそ民衆による民衆のための演劇を作り出そうと主張した。労働者は虐げられ憎悪に満ちている。だったらその憎悪を表現してみよう。荒々しい怨嗟の声をそのまま表現してみよう。劇作家は労働者の感情を掴み取らなくてはならないし、劇場は誰でも入れるようにチケットを無料か低価格にして誰でも入れるように拡大して座席の上下も無くさなくてはならない。さらに理想を言えば、人はみな表現の欲求を持っているのであり、劇作家と観客の垣根も取り払ってしまいたい。(「大杉栄・日本で最も自由だった男」河出書房新社186頁)。

知之が「民衆を教化してゆく運動としての演劇」というロマン・ロランおよび大杉栄の理念に魅了されていたのは間違いありません。後に作成される「嫩葉会戯曲集」のはしがきの前に「平民劇は流行の商品ではない・ディレッタント等の遊びではない・新しき社会の已むに已まれぬ表現である」というロマン・ロランの文章が引かれていることから明らかです。

 有馬頼寧や大杉栄に表象される大正時代の価値観を破壊する自然災害が発生します。関東大震災です。大正12年9月1日に発生した大地震は首都圏を中心として日本に壊滅的打撃を与えました。経済的に日本にショックをもたらしただけでなく文化的にも甚大な影響を与えました。最大のものが不安に駆られた民衆の流言飛語による朝鮮人虐殺と官憲(甘粕大尉)による大杉栄の虐殺です。大杉虐殺のニュースを聞いた知之は、その夜を徹して仲間と大杉の話をしていたそうです(井上理恵「近代演劇の扉を開ける」204頁)。知之にとって9月は悪夢だったでしょう。軌道に乗りかけてきた民衆演劇を続けるべきか否か、眠れないほどに苦悩する日々が続いたのではないかと私は想像します。が、苦悩の結果、知之はそれでも演劇の上演を続ける決意をします。

突如として起こった関東地方の大災害は国民全体の心をば如何に強く打ったか。国難末の声は全国に起こって上下は如何にしてこれを回復するかに苦心した。が、然し私たちは一方そのことを憂いながらも、やはり私たちの道を進むのがほんとうだと思った。特に今度の大災は帝都集中の文化をば一変して国民全体の文化を創る機運を促す機会となるかもしれない、然し多くの人間は生来案外もの忘れがちに出来ているので大災も1・2年の内には忘れ去られるかもしれないが・・と思ったりして、兎に角、試演の準備に取りかかる。

第5回試演会(10月7日)
5 武者小路実篤「死後のイスカリオテのユダ」
6 菊池寛「袈裟の良人」。平清盛が熊野参詣に行っている間に起きた争乱中、袈裟は上西門院の身代わりとなり、それを警護したのが武士・盛遠。清盛が熊野から立ち返って乱を平定。清盛が戦の褒賞を盛遠に尋ねると袈裟を娶りたいと願う。しかし袈裟は渡邊の妻。願いは退けられる。諦めきれない盛遠は思いを遂げようと袈裟に言い寄り思いを叶えるために「渡邊の命を奪う」と告げる。夫の身を案じた袈裟は「夫を殺してくれ」と言明しつつ渡邊と自分の寝所を取替え身代わりとなり自分が盛遠に討たれる。事実を知った盛遠は彼女の貞節を称え自分を恥じて髪を下ろし旅に出る。
 
 10月に嫩葉会会員は福岡市大博劇場で守田勘弥が率いる文藝座公演を観劇。農民である会員にとっては大変なことでした。知之は「嫩葉会年鑑」において次のように記しています。

農村の青年が十数里も離れた福岡へ、それも1日の職業を休み、かなりな物質上の消費を伴って芝居を見に行くということは易いことではない筈である。親達の理解が第一に必要だし他村の青年に対する弁明の必要。こんなことも田園の内に住む私達は考える必要があった。私達は親の理解を得た。一行10名は遂に望みを果たした。劇場に着いたとき私達の胸は躍った。今や会員の心は憧れていたものに接する喜びと真剣なる研究心とのために戦いた。恥ずかしさも忘れて舞台裏から俳優達の部屋々々まで見回った人達もあった。(略)勘弥氏をはじめ一座の人々の真剣なる演出は私達の魂のうちにある不滅な感動を与えた。

第6回試演会(11月3日)
7 菊池寛「仇討以上」。1919年に発表された菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」を戯曲に書き直したもの。豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬渓にあった交通の難所に青の洞門を開削した実在の僧・禅海に取材した作品。(実際には禅海は独力で掘ったわけではなく托鉢により掘削の資金を集め石工たちを雇って掘った。)

(特別公演会)
 大正12年の締めくくりとして(通常の試演会の他に)「特別公演会」が行われています。これは村の祭日である12月9日と10日の両日、安元邸裏の畑に簡易な芝居小屋を作り、7本を上演するという大がかりなものでした。知之は次のように記しています。

最初私達の劇に何らの感興も催さなかった人々も、次第に新劇に対する理解が出来てきたのか、また私達の演出も一歩一歩進んできたのか、一回毎に観衆は増えたが、狭い室内ではとても満足に入れないので、一度野天でやって多くの人にも見せてくれという様な希望も周囲から起こったが、私達は元々自分達のために劇を始めたのだし、また野天では台詞も聞こえまいというので、どうしようかと思ったが、自分達の喜びを同時に周囲の人々と一緒にすることも人として良いことであるから、また私達にとって更に大きい喜びを感じるので、村の祭日で休業の日にやることにした。

演目 9日 「父帰る」「わしも知らない」「ある日の一休」「真如」
    10日 「袈裟の良人」「光の門」「敵討ち以上」
 再演4本の他に次の3本が新作として上演されています。
8 額田六福「真如」
9 武者小路実篤「或る日の一休」
10 ダンセイニ「光の門」
 この2日間の観衆は約1700人(警察の見積り)。知之の感想は次のとおり。

これ迄のように酒食もなく皆静かに緊張して見てくれたことは、これ迄の田舎の芝居とは別種な気分を作った。これは全ての人に何らかの感動を与えたことと思う。翌12月11日は早朝から全員で舞台の取り除けにかかった。ある者は組み立てられた道具を解くと一部の人は或いは担いだり、牛車に乗せたりして、それぞれ借りた家へ運んだ。踏みつけた畑は各自に鋤をふるい、また二三の人は牛と鋤をもって瞬く間に土を耕し畑と為した。昨夜は上品な俳優今日は各自労働服を着て土を耕し、牛を使う有様を見た、都会からの観客で泊まっていた人達は感に打たれていた。「此処に真の人間生活を見る」と言って涙ぐむ人もあった。その夜、私達はささやかな宴を催して無事に終わったことを祝し合った。

ここに「民衆芸術」の理念が実現されているのを感じるのは私だけではないでしょう。4月に産声を上げ9月に激震に見舞われた「嫩葉会」の1年目はこうして終わりました。

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