歴史散歩 Vol.158

ちょっと寄り道(長崎1)

*本稿は2017年にアップしていたものですが、長くなり過ぎた(特に補注)ので2回に分説し実際に回った日付にあわせて再上程することとしました。内容にも若干の補正を加えています。

遠藤周作「沈黙」刊行から50年。2017年には映画も公開されます。そこで昨年12月に、キリスト教信仰における「強者と弱者」「加害者と被害者」という視点を意識しつつ長崎を散歩してみました。参考文献 遠藤周作「沈黙」新潮文庫、「切支丹の里」中公文庫、「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」新潮社、司馬遼太郎「街道を行くNo.11・17」朝日文庫、森一弘「日本の教会の宣教の光と影」サンパウロ、高山文彦「生き抜け、その日のために」解放出版社等。

長崎本線をゆく「白いかもめ」は浦上駅を過ぎ長崎駅で停車した。明治30年開業の「長崎駅」は浦上駅のことだ。8年間浦上駅が長崎本線の終着駅だった。「長崎駅」は長崎市内ではなく浦上山里村にあった(浦上山里村が長崎市に編入されるのは大正9年)。「長崎駅」に着いた客は徒歩や人力車で市内に向かった。市民の不満が高まったので長崎市は公債で長崎湾の浚渫を行い、その土砂で山里村から出島付近まで海を埋立てる計画を立てた。明治37年に工事は完了する。九州鉄道はここに約1・6㎞の線路を敷き先端に新しく駅舎をもうけた。これが現在の長崎駅である。

宿を取った駅前のホテルに荷物を預ける。路面電車に乗って出島で降りる。県庁への坂を登る。昔、この周辺は海であり、付近は海に突き出した岬であった。ここには安土桃山時代(世界史的には大航海時代)にイエズス会本部がもうけられ、江戸時代に奉行所が存在し、幕末には幕府の海軍伝習所が開設された。長崎を「誰が・どのようにして」支配しているのかを象徴する場所である。
 日本初のキリシタン大名は大村純忠。有馬晴信はその甥だ。莫大な利益を得られる南蛮貿易のため純忠は横瀬・福田・長崎を開港し、兄の有馬義直は口之津を開港した。輸入品には武器を含み、輸出品には奴隷を含む(ルシオデソウザ他「大航海時代の日本人奴隷」中央公論新社を参照)。日野江城主である有馬晴信も天正8年3月純忠の説得によりヴァリニャーノ神父の洗礼を受けた。日野江城には日本初のセミナリヨが建てられた。天正10年に大村純忠・大友宗麟・有馬晴信はセミナリヨで学んだ4人の少年使節をローマ法王に派遣した。天正12年3月、晴信は島津義久と組み佐賀の龍造寺隆信を滅ぼす(沖田畷の戦い)。キリストの御加護で勝利できたことを感謝し晴信は浦上をイエズス会に寄進した。大村純忠は先だって長崎をイエズス会に寄進していた。長崎と浦上はローマ領となったのである。後年、長崎と浦上が外国領になっていたことを知り驚愕した豊臣秀吉はイエズス会から両地を没収して直轄地とした。この政策は徳川政権にも引き継がれた。

岬の尾根である万才町を北に歩くと長崎歴史文化博物館。長崎奉行所立山支所があった処だ。この地で遠藤周作「沈黙」を想起してみよう。主人公セバスチャン・ロドリゴを取り調べた井上筑後守は実在の人物である(本名は政重・秀忠時代の老中井上正忠の弟・幕府の大目付として長崎仕置の業務を担当し長崎奉行に指示勧告をする立場にあった・詳細は木村直樹「長崎奉行の歴史」角川選書46頁以下)。筑後守は肉体的拷問を下策と考えていた。彼は宣教師を殉教させることは逆にキリスト教信仰を強めることを熟知しており宣教師を「転ばせること」が上策と考えていた。クリストヴァン・フェレイラも実在の人物で、転んだ後「沢野忠庵」なる日本人名を与えられている。
 遠藤は「沈黙」の創作過程を「切支丹の里」にて詳細に書いている。転びの問題を作品化する際に遠藤は「強者と弱者」という視点を中核に据え、執筆動機をこう書き綴っている。

こうして弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰の中に埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼らがそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く美しいと思っていたものを、裏切ったとき、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみに対して小説家である私は無関心ではいられなかった。彼らが転んだ後も、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならない祈りを唱えたとすれば、私の頬にも泪が流れるのである。私は彼らを沈黙の灰の中に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等を再びその灰の中から生き返らせ・歩かせ・その声を聞くことは-それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである。(30頁)

それまで「軽蔑」の視線しか与えられてこなかった「転び」(それは「棄教」ではない)に対してこれほどに暖かい視線を送ったキリスト者がかつて存在したであろうか?
 西勝寺を訪れる。フェレイラが沢野忠庵として署名をした転び証文がある(非公開)。遠藤はロドリゴとフェレイラの対面の場を、この寺に設定している。この先の山手の町を「筑後町」という。かつてこの町域に筑後出身者が多く居住したことから名付けられた。「長崎」という地名は大村の家臣・長崎甚左右衛門に由来するが、その長崎甚左右衛門は後に筑後領主・田中吉政(35万石)に仕えて余生を過ごしている(司馬No.11の196頁)。筑後と長崎の深い繋がりは海運によるものだ。海は人と人を隔てるものではなく繋ぐもの。当時の物資輸送の主力は船だったからである。長崎との深い繋がりを背景に筑後でもキリスト教の布教が活発に行われた(特に今村)。

西坂公園に向かう。慶長元(1597)年に豊臣秀吉により処刑された26聖人殉教の地として、カトリックの巡礼地に指定されている。殉教地の特定には紆余曲折があった。西坂が処刑地(殉教地)と確定したのは比較的最近のことである。脇田安大「大浦天主堂物語」によれば西坂説が定着したのは浦川和三郎神父による「切支丹の復活」(1927年)の刊行による。大浦天主堂は26聖人に捧げられたものであるが大浦天主堂が「殉教地西坂に向け建てられた」という説明は誤りである。大浦天主堂が建築された元治2(1865)年時点に於いて「西坂こそ殉教地」とは確定されていなかったからである。私が日本二十六聖人記念館に入るのは初めてであった。殉教者のコトバは弱者に過ぎない私にとってあまりにも強い。処刑前の聖パウロ三木の説教は以下のとおり。

私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に与えて下さった大いなる御恵だと思う。(中略)キリシタンの教えが敵および自分に害を加えた人々を赦すよう教えている故、私は王(秀吉)と私の死刑にかかわった全ての人々を赦す。王に対し憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。

キリシタン弾圧は教会から非難されたが日本の権力者にも言い分はある。天下統一を図る秀吉は1587年に「伴天連追放令」を出したものの貿易に配慮し本格的迫害はしなかった。高知に漂着したスペインのサン・フェリペ号船員の発言で「布教をたてにヨーロッパ人が日本を侵略する」と考えた秀吉はフランシスコ会宣教師・イエズス会修道士ら26人を京都で捕縛し、長崎まで引き回して処刑した。見せしめの意味が強いものであった。イエズス会が長崎・浦上を領地にして最初にしたことは領内の神社・仏閣を一軒残らず焼き払うことだったが、かかる無法行動に対する処罰的意味もあった(「海路9号」海鳥社6頁久田松和則「キリシタンによる仏教・神道の迫害」参照)。
 家康は有馬晴信の賄賂事件(岡本大八事件)でキリスト教が嫌いになった。幕府のキリシタン弾圧が激しくなった契機は天草島原の乱(1637年)。地元領主の圧政が直接原因だった。蜂起した農民にキリシタンが多かったこと・リーダーがキリシタンだったことから幕府は「キリシタン一揆」と認識し徹底的に鎮圧したのである(この点は複数の見方があり山本博文「殉教」光文社新書は宗教戦争の側面を強調している)。個々の信者からみればキリシタン弾圧は純粋な「被害」である。しかし社会と宣教師の関係という大きな枠組みで見れば宣教師には「加害」者的側面もあった。実際、世界史的には宣教師を中心とするキリスト教徒の加害者性は(特に中南米やアフリカで)顕著だった(高橋裕史「イエズス会の世界戦略」講談社選書メチエ、ラス=カサス「インデイアスの破壊についての簡潔な報告」岩波文庫、布留川正博「奴隷船の世界史」岩波新書など参照)。
 遠藤周作の「沈黙」は誤解されやすい作品である。欧米のキリスト教布教者からみれば日本の権力者の「野蛮さ」と転んだ司祭らの「弱さ」を感じさせる邪悪な物語に映るであろう。映画「沈黙」がどのように描かれるのか不安がある。キリスト教原理主義国家アメリカにはキリシタン弾圧をした日本人に対する「未開の民」という差別意識が濃厚に残っているからである。

上り下りが激しい旧浦上街道を北に向けて歩く。左に折れて聖徳寺を訪れる。ここは長崎と浦上の境界であり(民俗学的に言えば結界)特殊な場所的意義を与えられていた。聖徳寺もかつて岬であり直前は海だった。現在も道路側にそそり立つ石垣は城壁を感じさせる。ここが浦上キリシタンの檀那寺とされたところである(浦上四番崩れの舞台)。奉行は自ら手を汚しキリシタン捕縛を行ったわけではない。実際に捕縛を実行していたのは被差別民だった。奉行が矢面に立たないよう弱者と弱者の対立が意図的に作り出されていたのだ。浦上街道に戻り長崎大学医学部前を通って浦上天主堂へ向かう。この地は江戸時代において庄屋屋敷であった。浦上村ではこの屋敷で踏み絵が行われていた。幕末の開国後、カトリック教会として最初に入ってきたパリ外国宣教会によって長崎の外国人居留地に建てられた大浦天主堂で、浦上キリシタンたちは1865年、220年ぶりに司祭との再会を果たした。が国家神道による国民の教導を考えていた明治政府は禁教政策を継続したため信徒たちは再び迫害を受けた。信徒たちは宗旨を公にしたので棄教を迫られたが、再潜伏することはなかったため「浦上四番崩れ」とよばれるキリシタン迫害事件がおきた。事件は国際的に報道されたので外国訪問中の岩倉使節団はゆく先々で批判を浴び、1873年キリシタン禁制の高札を撤去せざるをえなくなった。キリスト教信仰が公認されることになったのである。迫害の「旅」から帰った信徒たちが心の拠り所として買い取ったのが元庄屋屋敷であり、この地に建設した「神の家」が浦上天主堂である。浦上天主堂は明治28(1895)年に建築が着工し30年の歳月をかけ大正14(1925)年に完成した。床面積1162平方メートル、塔の高さ24メートルに達する東洋一の大教会だった。浦上天主堂は長い迫害の旅から帰ってきた浦上キリシタン信仰の象徴であった。
 浦上天主堂を出た私は平和町商店街の中にある浦上キリシタン史料館を訪れた。貴重な史料を拝見するとともに片岡弥吉「日本キリシタン殉教史」(智書房)を購入して外へ出た。史料館前の道は旧浦上街道。昔26聖人が歩かされた約2キロのこの道を、自分で歩いて私はホテルに戻った。(続)

(以下、補注)
* 2017年1月21日、公開初日にスコセッシ監督の「沈黙(Silence)」を拝見。あらすじを知っている者であっても映像化された時にはこれほど鮮明な印象を抱くのかと驚きます。気分が重くなる(文字通り「沈黙」を余儀なくされる)映画ですからデートついでの鑑賞は止めた方が良いと思います。あと真のキリスト者の方も相当の意識をもって臨まないと気分を悪くされるかもしれません。遠藤自身、小説「沈黙」の発表後に中傷を受けたと聞きます。真摯なクリスチャンである遠藤は、自身の信仰を明らかにするため後に「イエスの生涯」「キリストの誕生」という著作を生まなければならなかったほどです。軽い気分で観ることが出来る映画ではありません。既に名誉を築き上げ商業的成功を気にする必要がないスコセッシ監督だからこそ出来た映画です。
* 「転び」が「棄教」ではないことについて遠藤自身が「沈黙」のエピローグに於いて強調しています。英語訳「沈黙(Silence)」では両者が混同されている箇所があるようです。事実であるならば重大な誤訳と言わなければなりません。ロドリゴはキリスト教の神を捨てたのではなく解釈を変えたのです。その解釈され直した神を・その子であるキリストを「今までとはもっと違った形で」愛しているのです。誤解を恐れず言えばイエズス会の神は極限状況において「死ね」(殉教せよ)と命ずる神でした。これに対しロドリゴの神は極限状況に於いて「死ぬな」(お前を生かすために・お前たちから踏まれるために・私は十字架にかかったのだ)と語りかける神でした。上記ロドリゴの思考形式は当時の宣教師の感覚から言えば「ありえない」もの(山本博文「殉教」光文社新書)。「沈黙」は遠藤周作が創造した現代小説です(特にキチジローの造形が見事)。
* ネット上で秀吉によるキリシタン弾圧や朝鮮出兵を「イエズス会やスペインの侵略から日本を救った義挙」として賞賛する記事を拝見。近時目立つ「外的視点の偏重による内的視点の暗愚化」の例。政治は両者の複眼的見地から評価すべきですが最近の日本は前者に偏り過ぎです。本文で「日本の権力者にも言い分はある」と記しているのは内的視点に偏りすぎていた見方を補正する必要があると考えたから。朝鮮出兵は明白に間違った政策でした。朝鮮半島の人々に甚大な被害を与えたこと・出兵した日本の武将に多大の負担を掛けたこと・豊臣家自身が権力保持に失敗したことから考えて明らかです。ヨーロッパ人が布教をたてに世界を侵略し膨大な富を強奪したことは事実ですが、だからといって非のない個人を処刑することが正当化される訳ではありません。
* 二十六聖人が当初聖堂をおいたのは今の京都下京区上通り彩小路東北角の妙満寺跡。聖堂に隣接して聖アンナ病院が建てられ、さらに聖ヨゼフ病院が建てられます。四条堀川通りの四条病院が二十六聖人の出発地。(詳細については杉野榮「京のキリシタン史跡を巡る」三学出版を参照)
* 転んだパードレは江戸:井上筑後守の屋敷に幽閉されました。東京メトロ・丸の内線・茗荷谷駅近く(東南)。キリシタン屋敷とも山屋敷とも呼ばれます。正保3年(1646)に井上屋敷内に牢や番所を建てて設けられました。この屋敷にイタリアの宣教師ジュゼッペ・キアラ(ロドリゴのモデル)が収容されました。後に火災で焼失、その後は再建されることもなく、寛政4(1792)に宗門改役の廃止と同時に正式に廃されました。現在、現地には切支丹屋敷跡の記念碑と拷問にあった信者の八兵衛を生き埋めにして石を置いたという「夜なき石(八兵衛石)」があります。
* 大航海時代のトリデシリャス条約(1494)サラゴーサ条約(1529)と日本との関連に言及します。両者は日本を2分割し、西日本はポルトガルの、東日本はスペインの勢力圏にありました(伊達政宗はスペインに通商を求めた:久能山東照宮にはスペインから家康に贈られた時計がある・家康自身は対外交易に積極的であった・鎖国的イメージは後の徳川官僚による印象操作)。スペインのサンフェリペ号が漂着した高知は本来はポルトガルの勢力圏でした。そのためにスペインの船員は(その場しのぎとして)「ポルトガルの世界征服の野望」を語ったと感じられます。秀吉は上記発言に過剰反応してポルトガルの宣教師ら26名を殺害したのではないでしょうか?
* FB友である伊崎祐介先生の書き込みを紹介。
 戦国時代に生き、その生涯を日本に捧げた宣教師で外科医だったルイス・デ・アルメイダのことを色々調査中。アルメイダはポルトガルの「ユダヤ人」だったことがわかりました。いわゆる「改宗ユダヤ人=マラーノ」だったんです。マラーノとは、元来の意味は「豚」という意味で、スペインやポルトガルにおいて、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々を指す言葉で、当時のイベリア半島ではレコンキスタ完了後、ユダヤ人に対する迫害が強まり、多くのユダヤ人が異端審問で殺害され、生きるために「ユダヤ教」を捨てキリスト教に改宗しました。彼らは改宗後もマラーノと蔑まれ、隠れてユダヤ教を守っていかなければならず、本国で生業につくことがしばしば難しく、折からの大航海時代の潮流に身を投じて、多くの人々が海外に新天地を求めたと言われています。スペイン・ポルトガル出身の宣教師が、しばしば日本の文化を見下し、内心では日本の植民地化を進めようと考えたのに対して、マラーノの人々はアルメイダに見られるように心の底から戦国時代の日本の民衆を愛し、医療や教育に身を捧げました。アルメイダは「本国に帰らなかったのではなく帰れなかった」のではないかとふと思いました。そう言えば遠藤周作「沈黙」のモデルとされる棄教者クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)も「マラーノ」だったいう説があり、スペイン・ポルトガルのユダヤ人たちは逆にカトリックの側から迫害と拷問にあっていたことをふまえてみると、その後の隠れキリシタンの人々の悲劇がそのまま繰り返されたような不思議な巡り合わせを感じずにはいられません。「マラーノ」の人々も追い詰められ命を守るために「転んだ」のかもしれません。あのロドリゴが呟く「神の沈黙」には歴史的なもっと深い意味があるのかもしれないと気づいたのでした。
* 処刑された26人の遺骸は分割され世界各地にもたらされました(当時、聖遺物は信者の崇拝対象でした)。26人が「聖人」に列されたのは1862年・教皇ビウス9世の時代です。
* 六条雅敦「隠された十字架・江戸の数学者たち」(秀和システム)は面白い。論旨に全面的に賛同するわけではないが所々に光る記述がある。江戸時代の知識人が高い数学的な知識を持っており、その多くがフェレイラやキアラから最先端の科学を学んでいたという視点は「ありうる」という感想を抱く。彼らが「転向」したのは拷問を加えられたからではなくカトリックの不合理性を論理的に説かれたからだという論旨も「ありうる」と感じた。彼らは元はマラーノ(改宗ユダヤ人)だったとの説がある。ユダヤ教の立場から観ればキリスト教は身勝手な宗教だ。マラーノであればそんな感覚を根底に有していてもおかしくない。日本で改宗以前の「ユダヤ的知性」を覚醒させられたというのはアクロバティックな展開だが、極めて面白い視点である。
* 不干斎ハビアンの「破デウス」とこれを基礎にした芥川龍之介「るしへる」は凄い作品。
* 島田裕己「宗教は嘘だらけ」(朝日新書)から。一神教の感覚では「嘘をついてはならない」という戒めは同じ宗教内部の規範に過ぎない。異教徒に対しては全く適用されない。異端尋問の場に置かれたら逃れることが最も重要。なので異教徒に嘘をついても全くかまわない。純粋に一神教の人が江戸時代の踏み絵を強いられたら(異教徒の作ったモノに過ぎないとして)平気で踏むのではないだろうか。その意味で「沈黙」は「純然たる日本的な物語」なのかも?