歴史散歩 Vol.161

ちょっと寄り道(秋田2)

秋田2日目はJR奥羽本線で土崎まで行き、港を歩いた後、バスで市中心部に戻りました。昼食に比内地鶏をいただいた後、午後は仕事です。夕食はちょっと贅沢でした。
(参考文献:「北前船寄港地あきたをめぐる」秋田市、「秋田のトリセツ」昭文社、渡部景一「久保田城ものがたり」無明社、同「秋田市歴史地図」無明社、「秋田県の歴史」山川出版社、「秋田市400年物語」秋田魁新報社、東北学院大学文学部歴史学科「大学で学ぶ東北の歴史」吉川弘文館)

午前5時頃から朝食前の散歩。広小路からアゴラ広場を抜け中央通りを経由してホテル前に戻る。この「時計回りの」廻り方は車両では絶対に出来ないので歩行者の特権である。それから「赤れんが郷土館」付近を散策。道を戻って日銀秋田支店前を通り通町まで羽州街道を北上する。突き当たって左側に「通町」の華やかな商店街が続いているのを確認。ここは明日じっくり巡ることにする。午前6時半にロイネットホテルの朝食会場がオープンしたので軽い食事をとり出発する。

川反停留所からバスに乗る。「反時計回り」感覚にも慣れてきた。JR秋田駅に到着。まずは秋田駅から考察しよう。秋田駅は明治35年(1902)10月21日に官設鉄道奥羽北線の開通により開設された。線路は城下町の東端・湿地帯とのキワに沿って敷かれた。当時の鉄道は煤煙を撒き散らす迷惑インフラだったので街中が忌避されたことによる。これは日本の多くの街と同じである。以後、レトロな駅舎が使用されていたが、昭和36年改築され、このとき秋田ステーションデパートが併設された。若干の時が流れ変革の契機が到来した。秋田新幹線の開業である。平成7年(1995)2月、新幹線開業を効果的にするために、県・市・JR東日本・秋田ステーションデパート間で「秋田駅関連整備事業に関する基本協定」が締結され、橋上駅舎が平成9年3月16日に開設された。これが現在の秋田駅の景観を創出している。期待しながら2階のコンコースに上がる。
 行先を決めずに改札を通った。時刻表と地図を観ながら奥羽本線のホームに降りる。すぐ目前に秋田新幹線の赤い先頭車両があるのに驚愕した。九州人の感覚では新幹線の車両は階層を異にする全く別のホームにあるべきものであって、同一平面上の向かい側ホームに新幹線型車両があることに強い違和感を感じた。でもこれが秋田の特徴なのだ。下り普通列車に乗車。平日朝なので結構な乗車率である。当然ながら通勤通学の乗客が多い。当初「八郎潟の干拓で有名な大潟村まで行こうか」と考えたのだが電車の行く先は「追分」行きであった(追分とは分かれ道の意味・羽州街道と男鹿街道との接点を意味する)。追分駅は大潟村より相当に手前だ。私のような単なる観光客が追分駅で降りても意味が無いと思われた。なので手前の「土崎」駅で下車することにした。

土崎駅前でタクシーに乗る。運転手さんに「港までお願いします」と言ったのだが「え、港?」という感じで直ぐに判ってもらえなかった。地元感覚では土崎全体が港街なので「港のどこか?」を具体的に言わないと運転手さんには通じないようなのだ。「船が発着するところにお願いします」と言い直すと「ああ、フェリー発着所ですね」と了解してもらえた。ただ、せっかくタクシーに乗ったのだから途中を見過ごすのはもったいない。「できれば土崎の目玉のようなところを経由していただけますか?」と言ったら「判りました」と今度はあっさり了解してもらえた。
 乗車して直ぐ現れるのが「土崎神明社」である。まず土崎の歴史を概説しよう。土崎は「港街」であるより前にまず「湊町」であった。港と湊は似ているが意味が違う。湊は本来は舟が集まる場所のことを指した。「奏」には「集まる」という意味があり、この奏に「さんずい」扁を加えることで舟が集まる場所を表す字になった。古くは海・川・湖など水の出入口や入り江など自然地形を表す言葉だったが、後に、こういった地形を利用して作られた舟の集積地のことを指すようになった。雄物川(付け替えられて現在は「秋田運河」という)の河口に位置した土崎は「湊」の要件を備えていたのである。他方「港」とは船舶が停泊したり船舶に乗り降りする人工的な場所のことだ。経済的発展に伴い①外国貿易に使われる港には検疫所や出入国管理・税関などが設けられた②漁港には水産物を扱う市場③商港には貨物やコンテナを扱う施設④工業港には各々目的に応じた施設が設けられた。北前船の寄港地である土崎は江戸時代を通して「湊から港へと」発展した。土崎は「城下街」でもあった。土崎神明社の地に湊城(土崎城)が存在したのだ。中世の城なので小さい城であった。前領主安東実季は慶長4年(1599年)頃から土崎城の大規模な改築に着手。二重の堀を巡らせた平城に拡大した。土崎城は慶長6年に完成したが当主実季が翌慶長7年常陸宍戸に転封となってしまった。代わりに出羽転封となったのが佐竹義宣だ。佐竹も当初はこの城に入城したが安東が5万石程度であったの対し佐竹は20万石の大名であった。家臣団数はけた違いに多く湊城はあまりに狭かった。地形的制約で拡張の余地が少なかった。そのため義宣は慶長9年「神明山」に新たに久保田城を建設して移ったのである。湊城は破却されたため元和6年(1620年)湊城跡に土崎神明社が建てられた。神明社は慶長7年(1602年)常陸から秋田にやってきた川口惣治郎の氏神だったが、その川口が土崎のために勧請したものである。以来「土崎の総鎮守」として崇められた。

タクシーは西進し左折する。「土崎みなと歴史伝承館」前を通る。毎年7月20日21日の例祭「曳山行事」は平成9年に国の重要無形民俗文化財として指定された。城の残地は多くが町人屋敷となった。土崎は北前船の寄港地であるため商品流通が盛んになった江戸時代を通して大いに繁栄した。その様子は「秋田街道絵巻」(市立千秋美術館所蔵)に表現されている。現代に生きる私たちは太平洋側を表・日本海側を裏とイメージしてしまうが、昔の日本人の感覚では日本海側が表・太平洋側が裏の感覚なのだった。表に面した土崎の賑わいは相当のものだった。土崎港の繁栄は明治・大正・昭和期も続いた。政治都市秋田の「外港」として土崎は重要な役割を担ってきたのだ。
 タクシーは右折して港へ。警察署の前を通ると眼前に大きな鉄塔が見える。秋田港ポートタワー「セリオン」だ。右前方に巨大な風車(風力発電施設)が目立つ。私には全く認識がなかったのだが、秋田は日本最大の風力発電先進地なのであった。運転手さん曰く「秋田で火力発電の新規増設はありません・地の利を生かした風力発電でこれからの電力需要を賄うことになっています」。港のモニュメント前でタクシーを降車する。前述のとおり土崎はかつて港町として大いに賑わった。しかし現在の土崎に昔の賑わいはない。その変化を生み出したのは港の機能変化である(詳細については稲吉晃「港町巡礼・海洋国家日本の近代」吉田書店を参照)。かつて港町には多くの港湾労働者が必要だった。何故ならば昔の船舶における荷物揚げ降ろし作業は大変な重労働で、膨大な人夫需要を生み出していたからだ。が昭和50年代以降急激に進んだコンテナ化で港は人夫需要を生まなくなった。横浜や神戸などの主要港には大規模なコンテナターミナルが構築され、少ない人で大量の荷捌きができるようになった。かような大規模施設は(大消費地から遠いという地理的制約の故に)土崎に構築されていないのである。かつて駅から港に向かって分岐する貨物路線の痕跡があった。陸上交通の主力がトラックに移る前、鉄道が主要運送手段であったため、土埼駅から港に向かう貨物線が必要だったのである。海岸のほうに目を移す。目の前に存在するのは「秋田運河」と呼ばれる旧雄物川である。昭和13年に新屋に新しく(ショートカットの)雄物川が開削されるまで、この岸沿いには多くの荷上場が並んでいたのだ。昔を偲んでしばし瞑想。

秋田にとり土崎との連絡通路は最重要路線であった。明治22年(1889)に開通した秋田馬車鉄道は旧羽州街道に沿って土崎と秋田の市街を結んだ。大正9年(1920)年に動力を馬車から電気に転換し社名も「秋田電気軌道」に改めた。秋田市街に電車が初めて走ったのは大正11年1月。区間は秋田(後の新大工町)土崎で途中3つの停留場が設けられた。昭和に入って社名を「秋田電車」と改名。更に遊園地を沿線に設置しつつ、秋田駅前から新大工町に至る基幹路線の着工にかかった。が、この路線は諸般の事情から廃止・撤去。大戦が始まった昭和16年(1941)秋田電気軌道は秋田市に路線や設備を営業譲渡した。秋田市は交通課を新設し、譲り受けた車両や設備を「市営事業」として発足させた。敗戦後の復興が始まると、秋田市制60周年を記念して再開発が進む。昭和25年(1950)発着駅を国鉄秋田駅前と決定し一度撤去された「秋田駅前から県庁前間の路線」が復元され「秋田駅前から土崎への直通電車」が走ることになった。新設された路線は「秋田市内線」と「新大工町線」(表鉄砲町~新大工町間)。復興の流れに乗って当初は大いに繁盛した。が昭和30年代に入り自動車化の波が押し寄せるとバスとの競争にさらされ昭和34年に新大工町線が廃線。昭和40年12月31日に市内線も廃線となり秋田市電の歴史は終わった。

帰路に付く。気温「38度」と表示されたが、アスファルト上は軽く「40度」を超えていた。夏の東北は涼しいという昔のイメージではない。あまりにも暑くて駅まで歩くのは無理だ。徘徊しているうちに昔の主要道路(本町通り)に出て郵便局前に着いた。この辺りは廻船問屋が立ち並んでいたところだ。郵便局の目前にバス停留所があった。10分ほど待ち「秋田駅西口」行きバスに乗車できた。この路線は「軌道の代替路線」たる意味がある。旧国道を通る路線もあるようだがバスは現国道(56号線)を通るルートに入った。これは旧軌道の路線とほぼ同じである。
 地図をみると護国神社裏参道から南に500メートル程のところに高清水公園・護国神社などが連なる一角がある。ここに「秋田城跡歴史資料館」が存在する。寺内地区は古代秋田城(城柵)があったところで「秋田城跡外郭東門」が復元されている。市内にある近世城郭を「久保田城」と呼ぶのは(地元で)秋田城とは古代城柵を指すからである。古代日本の歴史に触れる。「大化の改新」以降、中央権力は蝦夷対策に力を注いだ。蝦夷とは「ヤマト」からみた呼称で中央権力に服属しない未開の民を蔑視した言い方。ヤマト政権は東北地方に前線基地を置く政策を取った。この前線基地を「城柵」と呼ぶ。城柵は行政機関としての性格も持った。時代の進行とともに城柵は北上していった。708年(和銅元年)越後国に出羽郡が設置され庄内地方に出羽柵が築かれた。712年(和銅5年)出羽国が設置され国府が庄内地方に設置される。「続日本記」733年(天平5年)条に「出羽柵を秋田村高清水岡に遷置す」との記載がある。この出羽柵が760年(天平字宝4年)に「秋田城」と改称された。往時の姿が良く復元されているらしい。出羽国では服属した蝦夷の「反乱」がよく起きている。最大のものが「元慶の乱」(878年)と「天慶の乱」(939年)である。古来から秋田県域は中央と蝦夷との絶えない緊張関係にあった。秋田の先住民から言わせれば「これは『乱』ではなく自分たちの自立性を維持するための名誉の戦いであった」ということになるだろう。

バスは国道56号線を東南に向かって進み山王十字路で左折し竿燈大通りに入っていく。これが「秋田市内線」の痕跡である。「新大工町線」は一本手前の旧羽州街道(六道の辻から八橋に向かう道)に沿っていた。「新大工町」の停留所は「六道の辻」脇に置かれていた。「辻の湯」という銭湯まであった。この「六道の辻」周辺は明日じっくり回ることにしよう。
 中通2丁目で降車。昼食は県立美術館裏の「本家あべや」で比内地鶏の親子丼を頂く。農林水産省ウェブサイトに次の記述がある。比内鶏と比内地鶏の違いなど全く意識していなかった。

比内鶏は1942年に天然記念物に指定された地鶏です。秋田県で昔から飼われている比内鶏は肉はおいしいが成長が遅いのが欠点でした(ブロイラーは7~8週間で2.6キログラムになるが、比内鶏は体重が2キログラムになるのに20週間かかる)。そこで比内鶏のおいしさは変えないで早く成長するように交配育成したものが比内地鶏です。秋田県では比内地鶏ブランド認証制度をもうけて厳しい生産管理基準を守ったものを比内地鶏としてみとめています。秋田比内鶏(オス)とロード種(メス)の交配で生まれた子供だけを比内地鶏ということ・28日齢以降に平飼いまたは放し飼いで飼育していること・1平方メートルの敷地に5羽以下で飼育していること等の基準を守っています。

大事に育てられた比内地鶏の親子丼は実に美味しかった。食後、午後1時半から4時まで仕事。

仕事の終了後、歩いてホテルに戻る。夕食は川反の「お多福」にて。若干お高いけど良い店。従業員さんの対応が良く料理もお酒も美味しい。名物「きりたんぽ」は新米を炊いて粗くつぶし秋田杉の串に巻いて焼いたものである。野菜・きのこ・比内地鶏を煮込んで味わう鍋は絶品。秋田ならではの地酒も美味しくいただけた。川反の街を歩いてホテルに戻る。健康睡眠。(続)

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