歴史散歩 Vol.82

医師の劇団1

 大正12年に近代演劇を開始した劇団が「浮羽郡山春村」という福岡県の片田舎に存在していました。主宰者の名前は安元知之。知之は「嫩葉(わかば)会」という農民主体の劇団を立ち上げ約3年にわたって内外の先端的演劇を上演し続けました。しかも、大正14年には地域住民の協力を得てギリシャ式円形劇場まで作り上げています。現代の目で見れば、ほとんど奇跡と言えます。これから数回にわたりこの劇団と安元医師について書き綴ります。
*参考文献・井上理恵「近代演劇の扉を開ける」(社会評論社)「風の散歩道5・6」(有限会社ライムツリー)樋口泰範「嫩葉会の足跡を偲ぶ」(浮羽町教育委員会)。なお添付した写真は安元知之の孫である安元知臣様より提供いただきました。記して感謝を申し上げます。

 まず当時の時代状況から考えてみましょう。第1次世界大戦(1914年)を「日独戦争」として戦った日本は戦争成金が増加し、貧富の格差が急速に広がっていました。10年ごとに繰り返した戦争費用を国債に頼った国家財政は破綻の危機に瀕していました。農村は疲弊し都市に貧困者が集まっていました。石川啄木はこれを「時代閉塞の状況」と表現しています。財政が苦しい政府は行政効率化のため町村の再編を推し進め、村の鎮守である神社や地域の求心力たる学校の統廃合を強引に行いました。都市と農村で同時に伝統的共同体の解体が進行し、新しい時代に相応しい民衆の精神生活のあり方が強く求められるようになりました。東北(花巻)でこの課題に答えようとしたのが宮沢賢治です。1924(大正13)年4月、賢治は『春と修羅』を、同12月にはイーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行しています。1926(大正15)年3月、賢治は農学校を依願退職し、花巻に「羅須地人協会」を設立して農民芸術を説いています。安元知之が「嫩葉(わかば)会」を立ち上げた大正12年頃とはこういう時代でした。かかる時代精神を浮羽郡山春村という地方の山村において鋭敏な感性で受信し、かつ実践したところに安元知之の先進性と素晴らしさがあります。

 安元知之は明治23(1890)年1月15日に、福岡県浮羽郡古川町で父・安元眞知(さねとも)母・シゲヺの長男として生まれました(シゲヺの弟は立教大学創始者・元田作之進)。安元家は鎌倉幕府に仕えた三善氏の子孫で医師を家業としています。久留米藩・有馬家の姫の病を治したことから有馬家の御典医となり實知の代に山春村へ移ったものです。貧しい山春村に於いて地主であり医師を業とする名家の長男として知之は大事に育てられました。
 知之は山春村尋常小学校・隈の上市杵高等小学校を卒業し、久留米の明善中学に進みます。優秀な成績で同校を卒業して明治42(1909)年、19歳の時に長崎医学専門学校に進学しました。が、希望に満ちて進学した知之に悲劇が降りかかります。心臓病(心臓弁膜症)です。医師の卵である知之は自分の生の短さを敏感に感じ取ったようです。しかし、これを知らない両親は知之の縁談を用意し、知之は両親への気遣いから、この縁談を承諾します。本来、知之は自己主張の強い先進的女性が好みだったのですが、婚姻した駒子はそのような女性ではありませんでした(知之は後にこの苦悩を「霊光」という私小説風の作品にしています)。知之は新妻を両親の元に残し、長崎で医学の勉強を継続します。かようにして開始された新婚生活でしたが、駒子が肺結核に陥ります。駒子は病院に入院することになりました。当時、結核は不治の病でしたが、長崎医専付属病院の職を得ていた知之は駒子を長崎に呼びよせます。回復する駒子の病状に知之は心を開き、忙しいながら幸せな日々が送られたようです。しかし幸福は長く続きませんでした。父眞知の老衰が進み、知之は山春村への帰郷を求められるようになったのです。研究者としての生活を開始した知之にとって早すぎる帰郷は無念であったことでしょう。しかも父は結核に陥った駒子を(子供が産めないとの理由から)離縁するよう知之に求めます。知之はこれを断ることが出来ませんでした。
知之にとり医専への進学も・早すぎる婚姻も・断腸の思いを残しての帰郷も全ては家長であった父の意思に沿うためのものでした。父系の血を残す(家父長制維持)という命題は安元家にとり絶対的なものでした。知之は大正4(1915)年、駒子と離縁します。父の意思に沿うこの離縁劇は後に知之の心に微妙な影を投げかけることになります。

 駒子と別れた知之は同年10月に小田ミツル(父方の親戚小田家の娘)と再婚します。自分の生命の短さを自覚していた知之は柳川の小田家を訪れ「10年の命であるが来てくれるか」と言ったそうです。ミツルの母は「お前が行かんと安元家はつぶれる」と言い結婚を勧めてくれました。「家の維持」に貫かれた再婚でしたがミツルは産婆免許を取って1人で生きようとしていた強い女性でした。知之が理想とする自己主張の強い先進的な女性だったのです。2人は大正7(1918)年に長男・道男を、大正10(1921)年に長女・知恵を授かります。小康を得た知之は残された僅かな時間を自分自身の夢の実現にむけて邁進することが出来るようになったのです。
 知之が演劇に取り組むようになったきっかけは次のようなものです。安元家のある集落から筑後川よりに大石水道が流れています。その近くに「万歳屋」という料理屋があり、芸者が多数在籍していたそうです。ここの御隠居が大の芝居好きで「万歳屋一行」という一座を店の芸者らと若主人らに作らせて村の祭りで上演していました。大正11(1922)年、知之が「万歳屋」に行ったところ、夏祭りの芝居の稽古中です。興味を持った知之が、御隠居に「たまには違う芝居をしてみたらどうか?」と持ちかけたところ「では新しい芝居をやってくれ」と請われ、知之はこれを引き受けることになったのです。知之が上演するようになったのは菊池寛の小説「恩讐の彼方に」(中央公論1919・1)を脚本化した「敵討ち以上」(人間1920・4)です。知之は台詞を抜き書きし、役者となるべき人々に読み方・意味・扮すべき人の気分等を説明したのですが、なんと言っても田舎のこと、文盲のような人々に台詞の意味を理解させるだけでも大変な作業であったようです。ちょうどこの頃、上京する用件が出来たので、知之は帰路大阪に立ち寄り宝塚歌劇を観ています。観劇しながら背景・音楽・照明を学び、帰りの汽車で「敵討ち以上」の背景・書割等をデッサンしました。帰郷した後は更に熱が入り、医師の仕事を終えると場面ごとの背景を考え、役者に演出をするという過密スケジュールをこなしました。しかし演者が緊張感から腹痛を起こして寝込む・知之自身も疲労から発熱するなどハプニングだらけでした。結局、7月の夏祭りには上演できず、8月6日の古河町の夏祭りで初演とすることになりました。この舞台には数百人の観客が集まり、大喝采を博しました。
 知之は公演後に次の文章を残しています。

私にはいろいろな道楽気がある。これも1つの道楽気の発露だったと思ふ。しかしこの道楽気があればこそ私は生き甲斐があり生の喜びをかなり味わうことが出来るのではないかと思う。こうしてみればこの道楽気がほんとうの私の姿であるかもしれない。

こうして万歳屋の御隠居から頼まれた1本の芝居が後に山春村を変えることになるのです。

 大正12年3月、村の青年たちが知之のところに出向いて「何か娯楽としてやりたい」と懇願します。知之が「芝居をやったらどうか?私の力で出来るだけ手伝いをする」と話をしたところ青年たちは喜び本格的な芝居に取り組みことになったのです。山春村には娯楽は何もなく若い青年たちは時間を持て余していました。万歳屋で自分の道楽気を目覚めさせられた知之にとっても青年たちの依頼は渡りに船でした。日没とともに野良仕事を終えた7名の青年は夕食後に安元邸に集まりました。中に入ると広大な敷地の右に自宅が、左に医院がありました。舞台は医院(診療室)の2階に設けられており、ここで稽古が続けられました。(知之による図・嫩葉会年鑑1号より引用)

用意された脚本は「屋上の狂人」(菊池寛)。7人の会員全員が出演できるという理由で選ばれたそうです。約1ヶ月の練習期間を経て大正12年4月30日、嫩葉会第1回目の試演会が行われました。観客は教員3名と好奇心で集まった僅かの村人だけです。観客の多くは「難しくてつまらん・何が何だかさっぱり判らん」という感想でしたし、演じている役者の方も「さっぱり判らなかった」というのが正直なところでした(試演会後の写真・後列右から2番目が知之)。

以後、多くの演劇が上演されていきますが、知之は演出を通して会員に戯曲の意味を理解させるとともに観客に対しても上演前に解説を加えたり趣意書を書いて配ったりしています。さらに上演後には「劇談会」という席を設けて観客と感想や意見を交換していました。こうした演劇活動は周囲の好意だけを受けたのではありません。当時、近代演劇の意義を理解する者は少数で、「芝居」を白眼視する者も多数存在したのです。布勢博一氏は安元知之と嫩葉会を脚本化した「あさきゆめみし」において登場人物に次の台詞を与えています(医師の劇団4を参照)。「演劇ち言うたら芝居じゃろが。芝居ち言うたら河原乞食たい。役者は白塗りにして、巡業して、行く先々で女子を騙して、孕まして、そげな商売たい。」この台詞は当時の「芝居」に対する人々の偏見を的確に描いています。

 嫩葉会では会歌をつくっていました。(曲は「ラ・マルセイエーズ」YouTube)
    起てよ 若者我等 ラララ ラーンラララン
    永久の光に幸を求めて 進め進め いざいざ
    行く手遙かに胸は躍る 神の御声に真理めざめぬ
    起て若者 起て若者 清き生の嫩葉に培わん 
    清き生の嫩葉に培わん
 嫩葉会では上演前や上演後にこの会歌を歌うことになっていたようです。

 嫩葉会は観客から観劇の料金を取りませんでした。嫩葉会会則で「会の経費は各会員の負担とする」と明記されていますが会員が全て貧しい農村青年たちであるため、実際に会員が会費を払ったことはなく、活動費は全て知之が負担していたそうです。当初の嫩葉会会員は大部分が男性農民でしたが、大正13年9月から安元医院の看護婦2名が参加し、さらに安元家から女学校に通っていた姪2名も参加するようになりました。その後、さらに参加者が増え、知之の友人(教員・美術学校音楽学校の生徒・画家たち)が裏方として援助してくれるようになりました。大正14年に会員は20名以上となります。(前列右から3番目が知之・その右にいるのが知恵とミツル)

 嫩葉会の評判が高まると遠方での公演もなされるようになりました。大正14年5月に日田劇場で公演したときの写真が残されています。

 大正14年8月には久留米恵比寿座で公演したときの写真が残されています。

 嫩葉会は(演劇以外にも)音楽会や運動会も催しています。大正12年8月に柳川伝習館中学のグリークラブを招き音楽会を開催しています。大正13年の正月には村の青年男女を集めて運動会を開催。射的・撃剣・やり投げ・スプーンレース・リレー、最後には参観者を交えて宝探しゲームなどが行われています。大正14年には柳川フィルハーモニーと嫩葉会の演劇が共演をしています。

  会の充実とともに演劇活動は活発化し多くの観客が(遠くは東京・大阪から)訪れるようになりました。若き日の詩人サトウ・ハチロウなども来ていました。遠方からの観客は安元邸に宿泊しました。山春村が文化サロン的香りに包まれるようになったのです。宿泊者の胃を満たすため演劇開催日の安元家には魚屋も肉屋も来て売りさばいていました。これらの費用もほとんど全て知之が負担しました。こうして知之は経済的にも村を潤していたのです。(前列左端が知之)

 嫩葉会の活動がいかに楽しいものだったか会員の表情が物語ります。会員と観客の笑顔こそが知之の残り少ない人生の希望となっていたことでしょう。(続)

* 宮沢賢治は大正14年4月13日付書簡(杉山芳松氏宛)で「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生ぬるいことをしているわけにはいきませんから、たぶんは来春はやめて、もう本当の百姓になります。そして小さな農民劇団を利害なしに作ったりしたいと思ふのです。」と書いています。賢治の夢は叶いませんでした。全く同時代に花巻から遠く離れた筑後の地において「小さな農民劇団を利害関係なしに作る」ことを実現したのが安元知之なのです。
* 大正7年から9年にかけて「スペイン・インフルエンザ」が日本を襲っていました。死亡者は74万人(内地45・3万人、外地28・7万人)。平時にこれほどの死者を出した事象は近代日本史に存在しません(速水融「日本を襲ったスペインフルエンザ」藤原書店を参照)。安元知之が多額の財産をかけて創始した農民演劇は「引きこもり」を強いられた社会に僅かでも希望の明るい光を灯したいという強い意志によるものでした。2020年パンデミックに直面し強く共感します。

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