歴史散歩 Vol.113

カトリック久留米教会

* 本稿は10年ほど前に「ミシェル・ソーレ神父の足跡」として上程していたものですが、その他の出来事をも加味するとともに改題してリニューアルいたしました。
(参考文献「久留米市史第3巻」、佐藤早苗「奇跡の村」河出書房新社、井手道雄「西海の天主堂路」新風社、横尾義明「幻の久留米カトリック教会」など)

久留米におけるカトリックの宣教は毛利秀包(毛利元就の末子・9男)が領主であった時代(1587年~1600年)に遡ります。秀包は黒田如水の仲介により大友宗麟の7女・マセンチア引地を妻とし、その勧めによって洗礼を受けました。秀包は宣教師を保護し信者のために城の側に教会堂を建立しました(イエズス会年報1600年)。領主秀包の庇護により久留米地方のキリシタンは約7000人に達していたようです。が、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた毛利は城を追われ、徳川幕府の命による全国的禁制によりキリシタンは潜伏の時代を迎えることになります(「長崎歴史散歩」参照)。江戸末期(1865年)長崎の外国人居留地に建築された大浦天主堂に数名の浦上の信徒が現れ「サンタマリア様のご像は何処」とプチジャン神父に尋ねました。世界的に有名なこの「信徒発見」から13年後の1878年、プチジャン神父の命によりミシェル・ソーレ神父が久留米に赴任し筑後地区での宣教を再開することになりました。ミシェル・ソーレ神父は1850年にフランスのオーヴェルニュ・サンジェルヴェで生まれた方です。1876年に司祭となられています。ソーレ神父は1878(明治11)年パリ外国宣教会に入会し、宣教師として来日しました。久留米に赴任した神父は櫛原町1丁目に仮教会を建て宣教を始めました(以前はツル写真館・現在は薬局になっている)。当時はキリスト教排斥の気運が強かった上に、櫛原町は旧有馬藩士の屋敷町だったので、排斥の気運は更に強いものだったようです。ソーレ神父のご苦労が偲ばれます。
 明治13年ソーレ神父は今村カトリック教会司祭に就任します。久留米の仮教会は週1回程度の兼牧となりました。現在でこそ双塔を持つ見事な今村教会堂ですが当時は寂しい隠れキリシタンの里でした。今村は16世紀の大友氏の時代から江戸時代の迫害をくぐり抜け明治までキリシタン信仰を守り続けてきた「奇跡の村」です。この村で、ソーレ神父は周囲の村の人々からの迫害を受けながら村民に対し教化を行いました。ソーレ神父は「ここの信者集団の精神はすばらしい。私が初めてここに来て感心したのは信者全員が使徒のようだということです。誰かが洗礼を受けると、その人はたくさんの人を家に集めて次の人の洗礼の準備をさせるのです。」と故国の両親に宛て手紙を書き送っています。農民の家に住み田畑を耕し村民になり切っての伝道でした(「今村カトリック教会」参照)。
 今村での約9年の重責を果たした後、ソーレ神父は明治22年に久留米に帰任し、まだ強いキリスト教排斥の機運の中を布教に勤めました。しかし、日清戦争後、フランスも加わった三国干渉(明治28年)により、日本人の中にフランスに対する強い敵意がわき起こり、フランス人であるソーレ神父も迫害を受けました。某柔道場の学生らがソーレ神父の司祭館に投石や破壊活動を行い、一時は国際問題にも発展しかねない状況に陥りました。フランス公使から日本の外務省を経由し警察に解決の要請がなされて、何とか穏便に解決されたそうです。ソーレ神父は明治32年9月、日吉町の士族屋敷(現在の日吉小学校正門の前)を購入し北側に教会堂を・南側に司祭館を建設しました。ここを拠点にソーレ神父は久留米・大牟田・柳川・基山・佐賀まで広く宣教しています。
 私は「ドイツ兵俘虜収容所2」(2015年2月6日)でこう記しました。「日吉小学校の近くにある松尾ハムは先代からこの地で手作りハムを製造しておられます。きっかけはドイツ兵が故郷の味としてハムを猛烈に食べたがり、これを聞いた久留米カトリック教会のミシェル・ソーレ神父が日吉小学校前にある神父自宅の一角に隠れキリシタンの末裔であった松尾さんの先代を呼び寄せ、ハム製造を依頼したことによるものだそうです。」上述した松尾ハムは大正時代の久留米の香りを残す貴重な存在だったのですが、残念ながら一昨年に廃業されました。店舗の跡は現在更地になっています。近いうちに何の変哲もない分譲マンションが建築されるようです(涙)。
 明治32年末、ソーレ神父は明治通りに面した土地を購入します。

 ソーレ神父は敷地内に斯道院(しどういん)という診療所を設け信者である医師と4名の修道女が診療にあたりました。ソーレ神父は普仏戦争の時に衛生兵として従軍した経験があり医学の知識と技術を有していたので信者であった井手用蔵氏(前聖マリア病院長・井手道雄氏の祖父)の母親の手術(乳腺炎)もしているそうです。井手用蔵氏は今村の出身で、長崎医学専門学校を卒業し医師資格を得ています。その長男である井手一郎氏は昭和27年「雪の聖母会」を設立し、昭和28年、津福本町に「聖マリア病院」を開設しました。現在、久留米は全国有数の医療先進地となっています(人口10万人あたりの医師数は久留米市が637・93人で全国1位)。その要因として九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)の存在は大きいのですが、もう1つの要因としてソーレ神父が種をまいたカトリックの精神による医療施設(現・聖マリア病院)の存在があるのです。正面入って右側に福岡市の大名カトリック教会から移設された「雪の聖母聖堂」が静かに佇んでいます。

ソーレ神父は故国フランスから取り寄せた西洋の草花を教会に植えていましたが、その種を地元の有力な園芸家である赤司喜次郎(久留米ツツジ育ての親)に分け与えて栽培法を伝授しました。他方でトマトや白菜などの種を福田忠太郎(農芸研究家)などに分け与えて栽培法を伝授しています。現在、久留米近郊は農芸王国として栄えていますが、その基礎はかかるソーレ神父の技術指導によって形成されたところが大きいと言われています。

ソーレ神父は故国に帰ることなく大正6年(1917年)に天に召されました。最期を看取ったのはソーレ神父から母の手術をして貰った井手用蔵氏でした。享年67歳。神父は第2の故郷となった久留米の地に埋葬されることを望みました。
 西鉄久留米駅から東に10分ほど歩いたマンションの谷間の一角に共同墓地があります。旧西野中村の共同墓地で、島山(島ノ山)墓地あるいは四万山墓地と言われています。久留米カトリック教会はこの一角をクリスチャン墓地としています。ここに外国人墓地第1号として十字架を掲げたソーレ神父の墓がありました(現在は移設)。*写真は「目で見る久留米の歴史」より引用。

 ソーレ神父の後を継いだグスターブ・ロー神父は、大正10年12月、日吉町(日吉小学校前・現在は教会の駐車場)に時計台のある赤レンガ瓦の教会堂を建立しました。

 この教会堂はフランス人技師を上海から呼び設計されました。資材は城島で調達されたようです。当時の金額で3万5000円(現在価値で約3億5千万円)という大金を要しました。当時、時計台の付いた教会堂は全国的にも珍しいものでした。この教会堂は昭和20年 8月11日、米軍の空爆により焼失しています。非軍事施設である教会堂への空爆に関しては浦上天主堂への空爆と同様の問題点が存在するのですが、現在も不問にされているのが悲しいところです(「ちょっと寄り道(見えるモノと見えないモノ)」「ちょっと寄り道(長崎歴史散歩)」参照)。

敗戦後、教会は螢川町の旧憲兵隊跡地(現・木下株式会社)に移ります。昭和23年に赴任した棚町正刀神父は新教会堂建築のための資金集めに奔走し、昭和30年5月15日、明治通沿いの現敷地(斯道院が開設されていたところ)において新聖堂の献堂式が執り行われました。

 教会堂の一角に赤レンガ旧教会堂の扁額が残されています。

 教会の敷地内には「幼きイエズス会」が経営する聖心幼稚園(昭和6年設立)がありましたが御井町に移り「信愛女学院付属幼稚園」となりました。他方、昭和21年に開園した孤児収容施設「聖母園」は同じく御井町矢取に移転しています。現在、久留米教会内に存続している「聖母幼稚園」は昭和12年9月20日レウツル神父によって開園されたもので、10月3日(幼きイエスの聖女テレジアの日)を創立の日としています。 昭和21年に開設された老人ホーム(久留米聖母園)は昭和41年に今村教会の横に移され現在は社会福祉法人聖母園として存続しています(「今村カトリック教会」参照)。「幼きイエズス会」は昭和31年御井町に久留米信愛女学院高等学校を設立し、以後中学校や短期大学も併設され、ミッションスクールとしての存在感を有しています。
 昭和56年、牧山勝美神父は1年がかりで宣教開始100周年の記念行事を準備しました。全信徒の集い・グループ活動・信心会の充実に努め「旅する久留米教会」と題する宣教開始100周年記念誌を発行しました。同年11月3日に平田三郎司教の司式により記念ミサが捧げられました。山田正章神父の時代(平成5年)に聖堂は再び改修されました。明治通りに面したカトリック久留米教会は市街地の顔として重厚な存在感を有しています。

 久留米を第2の故郷としたミシェル・ソーレ神父の精神の現われのようです。

* 私は2018年12月に鳥栖市の郷土史家・横尾義明様から論考「幻の久留米カトリック教会」を贈呈いただきました。本稿における旧教会堂と斯道院の写真は上記文献からの引用です。

* 筑後の郷土歴史雑誌「あげな・どげな」12号の巻頭論文である神山道子「聖マリア病院創設者井手一郎」から井手一郎先生の歴史を概説します。
 先生は県立明善中学を卒業後熊本の第五高等学校を経て九州帝国大学医学部に入学。放射線治療学教室に入る。昭和16年に太刀洗陸軍飛行学校付きの医師となる。終戦時は東京に居て8月25日立川航空研究所で召集解除。九州大学の放射線治療学教室に戻った一郎を待っていたのは長崎の原爆研究救護員としての派遣指示だった。原爆災害調査は2年半の間に7回行われ、一郎は永井隆博士をしばしば見舞っている。昭和23年九州大学を退職し再建された井手医院に勤務。昭和27年に「医療法人雪の聖母会」を設立した。病院名を「聖マリア」としたのは昭和28年大水害で全てが流失された中、井手家に伝わっていたマリア像が流されず奇跡的に助かったためであるという。

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