歴史散歩 Vol.46

のだめロケ地ツアー

7月11日「筑後川まるごとリバーパーク:のだめロケ地ツアー」に参加したので報告をします。 フジテレビ「のだめカンタービレ」(主演:上野樹里・玉木宏)のロケ地めぐりは複数の方がなされています。映像とロケ地の細い対比はマニアのサイトをご覧頂くとして、今回は大川・佐賀の風景に若干の味付けをしながらロケ地を散歩することにしましょう。

最終回の大川市冒頭画面で出てくる景色はロケ隊が宿泊した大川セントラルホテルから撮影したものです。「五郎丸家具店」は二ノ宮知子氏の創作であり、壁に書かれた文字はテレビ局がCG合成したものだそうです(原作は9巻69頁)。船着場は筑後川の河口(新田)で撮影されています。漁船が停泊している所から、のだめが坂を上ってくるシーンです。路地でのだめが老婆と挨拶するところは新田の船溜まりから上がって直ぐ右側のところです。

のだめが口笛を吹いているシーンのロケ地は筑後川中州にあるロイヤルパークホテル前です。眼前に筑後川昇開橋が見えます。


 大川市を象徴する昇開橋は国鉄佐賀線(鹿児島本線瀬高駅から長崎本線佐賀駅まで)の鉄道橋梁として昭和10年に建設されました。橋桁の一部が垂直方向に上下する橋として日本に現存する最古のものです。 全長は507・2メートル、可動部分の長さは24・2メートル、昇降差は23メートル。建設地が筑後川河口付近で、有明海の潮の干満の影響を直に受ける場所でした。付近には港もあり当時は大型船の往来もありました。そこで中央部の橋が稼動して船が通れる構造にしたのです。
佐賀線は国鉄民営化を契機に昭和62年3月27日廃線となり、昇開橋も閉鎖されるに至りました。一時は解体も検討されましたが、大川を象徴する風景として保存の要望が強くなり、維持されることが決定されました。平成8年に遊歩道として開放されます。平成15年には国の重要文化財に指定され、平成19年には日本機械学会より機械遺産に認定されています。平成21年7月から同22年12月までは橋脚の修復や塗装の塗り替え等が行われています。

「大川ハグ」なる言葉を生み出した有名なシーンのロケ地は昇開橋を臨む前述の場所から東へ進み国道208号を渡った先の堤防上です。中州なので福岡市から来るタクシーがこの道を通ることはあり得ません。この場所がロケに採用されたのは夕日がきれいに撮れることや交通のじゃまにならないこと等によるもののようです。

「大川ハグ」という言葉は「大川家具」があって初めて意味が判るものです。そこで「大川家具」について説明をします。足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として生まれた榎津久米之介は兄の戦死後、天文4年(1535年)に出家します。久米之介は家臣の生活のために当時盛んだった船大工の技術を生かし、指物(家具)を作らせました。これが「榎津指物」の起こりです。久米之介は天正10年(1582年)に96才で死去ますが、家臣が指物作りを受けついでいきました。中興の祖、田ノ上嘉作は文化9年(1812年)榎津長町に生まれ、家大工の傍ら建具製作に携わっていました。嘉作は、大阪で指物の修行した優秀な細工職人が久留米にいると聞いて弟子入りします。そして、箱物の製作技術を修得して榎津に戻り、これが榎津箱物のはじまりと言われています。大川独特のデザインと機能を持った衣裳箪笥が生まれたのは明治10年頃です。材は杉・桐・欅を使い、素木・透漆・黒塗などで仕上げられているのが特徴です。大正期、増大する需要に応えるべく、木工機械の導入が進められます。榎津で問屋を営んでいた松本由太郎は大正8年に京都大学工学部武田教授の指導を受けて機械化を実践します。大正11年に工場を完成させました。導入された機械は「鋸・帯鋸・カッター・手押鉋・自動鉋・自動角のみ盤」などです。日中戦争・太平洋戦争により大川の家具生産は中断されますが、終戦後は戦禍により家を失くした人々の家具需要が高まり、家具産業は急速な発展を遂げるのです。大川家具の近代化に大きな功績を残したのが河内諒。熊本産業試験場長であった河内氏は昭和26年から大川に定住し、デザイン・塗装など、技術の指導や助言を行い、デザインのシンプル化と機能性を追求しました。業界も研究グループを作り、近代的センスにあふれた大川家具への脱皮に向けて尽力します。その結果生み出されたのが「引き手無したんす」です。昭和28年に大阪で開催された「筑後物産展」で改良された大川家具を発表し好評を得て京阪神地区への足掛かりがつくられました。それに続き、河内が東京在住の友人の協力を得て大倉商会との契約を結ぶと同時に地元にも「大倉会」を発足、東京との取引が始まりました。昭和30年に東京で開催された第1回全国優良家具展に出品しモダンなデザインで全国に家具の街大川の名を広め、今日の基礎を築きました。昭和30年代後半、生産の近代化が進み、約1000の事業所が年間生産額70億円以上の売上げを記録し大川は日本一の家具の街となりました。が近時は海外産の安い家具に圧倒されて大川家具は売上げが低迷。家具産業全体が苦しい状況に置かれています。熟練した職人が良い材料を使って制作する家具が若干高価になるのは避けられません。しかし良い家具は長持ちしますし飽きることもありません。消費者の方々には(安かろう・悪かろうではなく)職人が精魂込めた良い家具を見極める眼力を養って頂きたいと切に願います。

古賀政男記念館は入口を示す標識だけが撮影されました。しかし古賀政男は大川が生んだ日本を代表する名作曲家です。短時間で良いから生家の映像も写して欲しかったものです。

カラオケ「ベトベン」は大川市から諸富橋を渡ったところにあります。「ベートーベン」のように見えますが、のだめの口調で「ベトベン」と言いたくなります(原作170頁)。


のだめ父が千秋と会話をする「干潟よか公園」は佐賀空港の隣にあります。有明海の周囲には福岡県から長崎県にかけて広大な干拓地が広がっています。干拓地であることを示す堤防の跡は多くの場合道路になっています。
 ロケ隊が食事休憩をした料亭「三川屋」で私たちも食事をいただきました。上野樹里と玉木宏の写真を見せてもらいながら交流会を行いました。遠方からの参加者もいて根強い「のだめ」人気を実感させられました。
私は何故か画面の中央に写っています。プライバシー保護のため少し写真をぼかします(笑)。

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