歴史散歩 Vol.159

ちょっと寄り道(長崎2)

2日目は世界唯一のプルトニウム爆弾被爆都市長崎に焦点を当てました。参考:高瀬毅「ナガサキ消えたもう1つの原爆ドーム」平凡社、工藤洋三他「写真が語る原爆投下」、山田克哉「原子爆弾」講談社ブルーバックス、ながさき「学」さるく『幻の爆心地を訪ねて』レジュメその他。

2日目の朝(2016年12月24日)。路面電車に乗って市の中心部中島川にかかる賑橋に赴く。この地が長崎に於ける米軍の核兵器投下目標であった(戦後数十年を経ての情報公開により判明している)。この賑橋付近は「幻の爆心地」である。予定どおりに賑橋の上空でプルトニウム爆弾が炸裂していたら現在の長崎市の姿は今あるものとは全く違うものとなっていたであろう。
 時間を遡る。1941年12月6日(日本時間12月7日)ルーズベルト大統領は核兵器開発に関する研究と予算支出を決定した(当時の貨幣価値で20億ドル!)。このことを当時の日本政府は知らなかった。翌日に日本軍はハワイ真珠湾攻撃をしていた。日本政府の意思決定を米軍は暗号解読によって熟知していた。過去を振り返る形(結果論)で述べることが許されるのならば3年8ヶ月後の浦上の悲劇はこの時から始まっていたのである。核兵器の当初の攻撃目標はドイツであった。1945年に意外と早くドイツが降伏したためにアメリカは核兵器攻撃目標を日本に切り替えた。投下の政治的意味は対外的に戦後国際社会を威嚇することの他、対内的に20億ドルもの資金を投じた過去の米国政府決定を正当化することにあった。巨額の金銭投資に見合う政治的果実が求められた。ロスアラモス(所長オッペンハイマー)でプルトニウム爆縮型核兵器のトリニティ実験を成功させていた科学者らは「実験データ」を欲していた。背後には日本人に対する「人種差別的偏見」があった。
 米国本土から巡洋艦インディアナポリスで運ばれた核兵器の材料はテニアン島において組み立てられた。8月9日、出撃命令が下された。乗務員は祈った。「神のご加護を」。乗務員の多くはキリスト教徒であった。B29ボックスカー爆撃機に乗る彼らも不安だった。失敗なら自分の命がなくなるかもしれない。彼らが祈った「神」は浦上の信者が祈った「神」と同じものだったのか?
 B29ボックスカー爆撃機はテニアン島を飛び立った。巨額の費用を要して開発されたプルトニウム爆弾の投下は肉眼による目標確認が絶対条件とされた。第1目標の小倉が視界不良だったためボックスカーは長崎に向かった。この視界不良は前日の八幡空襲の煙が残っていたというのがこれまで推測されていた原因だったが、近時「当時小倉に住んでいた人が広島の新型爆弾報道に接し投下を警戒して煙を炊いていた」という見方も指摘されている。いずれにせよ、長崎は当日の偶発的事情によりプルトニウム核兵器攻撃の対象となったのである。悲劇という他はない。

賑橋の電停から路面電車に乗って松山町で降りる。道路を渡ったところに爆心地公園がある。昭和20年当時ここは公園ではなかった。普通の民家が多数並んでいたのである。昭和20年8月9日午前11時2分、この上空500メートルで、爆縮型プルトニウム爆弾が炸裂した。この500メートルという高さは、核兵器による人間の殺傷効果が最も高い高度として科学者(多くはキリスト教徒)により厳密に計算され尽くした高度である。浦上と長崎を隔てる金比羅山によって被害を免れた長崎の民の中には「古来の長崎が守られたのは諏訪さんのおかげ・浦上に落ちたのはキリシタンの報い」など陰口を言う者がいた。長崎の民衆の一部には、江戸時代から存在する浦上への差別意識が未だ明確に残存していたのである。「長崎の被害は軽微である」という公的文書すら存在した。
 キリスト教は「現世利益の宗教」ではない。逆に「現世の苦難こそが来世の栄光の証」とみる。現世で恵まれた生活を送っている者は死後の苦難を畏れて教会への寄進を行い、現世に於いて苦難を味わっている者は最後の審判後の栄光を夢見る。何故、義者に苦難が生じるのか?ヘブライ聖書(旧約聖書)以来のユダヤ教・キリスト教の公式見解は「それは神に選ばれた人間だからだ」というものであろう。だからこそ永井隆は「原爆の荒野に神の摂理を意識した」のである。
 爆心地公園の脇に高台がある。高台の崖には複数の防空壕の跡が残されている。エスカレーターを使い坂を登るとそこが平和公園だ。ここは長崎刑務所浦上支所跡である。私は小学校の修学旅行で出向いたときから平和祈念像が好きではない。長崎に出向く前にFBで「平和公園は某彫刻家の自己満足的作品が置かれているだけの歴史を抹消した場所だ」と悪態をついていた。私のいらだちはこの銅像が攻撃国であるアメリカに対し倫理的非難をする何の資格もないことに由来していた。坂を下りて再び坂を登り原爆資料館を拝見する。展示スペースの中で浦上天主堂の被爆遺構が強調されているのが救いである。アメリカから訪れるキリスト教信者の参観者はどんな気持ちで被爆遺構のジオラマを見るのだろう?私の中に意地悪い気持ちが芽生えていた。

少し歩いて浦上天主堂を訪れる。前回述べた通り本来の浦上天主堂は明治28(1895)年に建築が着工し30年の歳月をかけ大正14(1925)年に完成した。床面積1162平方メートル、塔の高さ24メートルに達する東洋一の大教会だった。浦上天主堂は長い迫害の旅から帰ってきた「浦上キリシタン信仰の象徴」であった。これに対し現在の浦上天主堂は(アメリカの援助の下)昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたものだ。北側の川岸に残る吹き飛ばされた鐘楼が唯一の遺構である。広く認識されていないが昭和33年まで旧浦上天主堂被爆遺構は現地に存在した。歴史遺産は13年後の政治的決定により永遠に失われた。浦上教区信徒で編成される浦上天主堂再建委員会が現地での再建を決定したことが契機だったが、真の問題は長崎市長の見解が変わったことだった。
 時の市長・田川務は米国セントポール(聖パウロ)市と姉妹都市締結を進めるにあたり浦上天主堂被爆遺構が現地に存在し続けることは良くないと判断。議会は「保存すべき」と決議していたが市長は撤去を強行した。この決定にはアメリカ側からの「強い働きかけ」があったと推測されている(高瀬毅「ナガサキ・消えたもう1つの原爆ドーム」平凡社)。私も被爆遺構を現地保存すべきと考えた(2010年12月15日「見えるものと見えないもの」参照)。「被爆遺構を加害国アメリカに対して倫理的な非難を続ける足場にできたのに」という政治的発想だった。

私は浦上天主堂を出て松山町の電停から帰りの路面電車に乗った。混み合う車内で私は外の景色を眺めていた。そのとき私の内面に突然ある人のコトバが降りてきた。
    「そのままでよいのです」 「あるがままにしなさい」
 それはあまりにも唐突のことであった。
    「現在の浦上教区信徒たちは今の浦上天主堂を愛しているのだ・他の地の人たちが政治的発想で彼らを非難するのは止めなさい」「でも今の鉄筋コンクリート製天主堂では浦上信者が30年掛けて作り上げた聖堂上でプルトニウム爆弾を炸裂させた愚行の意味を世界に示すことが出来ません」
 そんな問いを思い描いた私にその人は再びコトバを投げかけてきた。
    「想像しなさい」 「やってみれば簡単なことです」
 現在の浦上天主堂掲示板には被爆前の写真・被爆後の写真が多く載せられている。想像力さえ働かせれば浦上のキリシタンが受けてきた悲惨な過去をイメージできるようになっている。 近時は高原至他「長崎旧浦上天主堂1945-58」(岩波書店)も発刊されている。桃山時代から明治時代まで続く長い弾圧時代において浦上の信者たちに神は救済の手をさしのべることが無かった。悪魔の如きプルトニウム爆弾がB29から放たれたときも神は浦上の悲劇を避けるいかなる手立てもしなかった。人が行う政治の前に神は「沈黙」した。浦上信者たちは長い間「政治」に翻弄されてきたのだ。ここに集う信者の方々は世界に向け無言の意思表明をされているのではないか?
    「もう政治に翻弄されるのはゴメンだ!」
 政治は各人が信じる理念をたたかわせるリアリズムの舞台である。そこで語られる「神」は人間が作り出した幻影にすぎない。政治の前に神は存在しない(誤解を恐れず言えば政治に於いてそれは侵略や大量虐殺を正当化する悪魔的概念ですらあり得る)。おそらく神は「政治」を離れた日常生活に於ける平和な人々の心の中にこそ存在するものであろう。そしてそのように解釈された善き神ならば『黙示録的な破壊』を望みはしないはずである。
 路面電車は長崎駅に着いた。かつて海であったその場所を歩きながら、クリスマスで華やぐ市民の姿を眺めた。多くの思いを抱いて私は「白いかもめ」に乗り込み長崎を後にした。<終>

(関連する私のコラム)

原子爆弾の投下?

歴史コラム(見えるモノと見えないモノ)

(以下、補注)
* NHKスペシャル取材班「原爆初動調査・隠された真実」(ハヤカワ新書)によれば被爆直後の広島と長崎で残留放射線調査を行った者に対して上官からなされた指令は「君たちの任務は『ヒロシマとナガサキに放射能がない』と証明することだ」というものであった。結論は最初から決まっていた。実際には(アメリカが熱心に調査を行った西山地区その他において)「原因不明の死」が大量に発生していた。アメリカは「無知学」(当局や企業などが流布を望んでいない情報の拡大を阻止することで文化的に無知を作り出す行為について研究する学問)の知見を実践していた。
* 8月26日は倉場富三郎の命日。イギリス人貿易商トーマス・グラバー長男として明治3年長崎に生まれた富三郎は加伯利英和学校を経て学習院を中退。アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学とペンシルベニア大学で生物学を学び、1892年に帰国。父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社。長崎汽船漁業会社を興してイギリスから深紅丸を輸入しトロール漁業を導入するなど第二次大戦前まで長崎の実業界で活躍した。大戦によりイギリス人との混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ、官憲の監視の下で不自由な生活を強いられた。戦艦武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられた。原爆投下により故郷長崎が壊滅した事が追い打ちとなり終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で自殺(自殺の理由についてはスパイ容疑を晴らすために戦争に協力した姿勢により連合国から戦犯として裁かれるのを恐れたとする説もある)。現存する木造洋館として最古のグラバー邸は当主グラバーの死後、跡継ぎとなった富三郎が家主となる。昭和14年(1939年)三菱重工業長崎造船所が機密保持を理由としてほぼ強制的に取得。戦後は一時接収されて進駐軍の宿舎となった。昭和32年長崎造船所の創業100周年を記念し三菱造船(当時)から長崎市に寄付。昭和42年に修理が完了し明治20年代の姿に復元された。wikiより引用
* 長崎は現在「観光都市」としての色彩を強めています。上述のグラバー邸を中心とするグラバー園が目玉です。前回述べたキリスト教の聖地としての側面に惹かれる人も多いですし今回述べたプルトニウム被爆都市としての側面も長崎を訪れる理由の1つとなります(現に私がそうでした)。江戸時代(最も遠かった直轄地であるが故に)西洋への唯一の窓口とされた長崎は、自由貿易社会の中で経済特区としての優位性を失い苦境の中にあります。長崎新幹線開通は(高速鉄道により九州の経済的中心である福岡市と繋がることで)経済発展を願う長崎の悲願ですが、未だ武雄以東のルートすら確定していません。多くの政治的思惑の中で議論が百出しています。

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