歴史散歩 Vol.49

歴史コラム(見えるモノと見えないモノ)

昭和20年8月9日午前11時2分、浦上天主堂斜め上方でB29ボックスカー爆撃機が投下したプルトニウム爆弾(爆縮型)が炸裂します。30年の歳月をかけて建設され大正14年に竣工した東洋一の大聖堂はその瞬間に破壊されました。今、現地に遺構は存在しません(川岸の鐘楼以外は)。鉄筋コンクリートで再建された建物があるだけです。そのため直ぐに遺構は撤去されたかのように思いがちですが、昭和33年まで浦上天主堂の遺構は現地に存在していました。貴重な歴史遺産は13年後の政治的な決定によって永遠に失われてしまったのです。貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情がありました。1つは浦上教区の信徒で編成された浦上天主堂再建委員会が現地に再建を決定したことがあげられます。所有者である教会の意向が無視し得ないものであることは明白。そのため原爆資料保存委員会は「旧天主堂は貴重な被爆資料なので遺構を保存したい。代替地を準備する。」と提案します。問題は長崎市長の見解が大きく変わったことでした。時の長崎市長田川務は米国セントポール(聖パウロ)市との姉妹都市締結を進めるにあたり、浦上天主堂の被爆遺構が現地に存在し続けることは良くないと判断し、市議会で「原爆の必要性について国際世論は2分されている。天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁します。市議会が「保存すべきだ」と決議していたにもかかわらず、長崎市長は撤去を強行してしまいました。この決定にはアメリカからの強い働きかけがあったのでは、と推測されています(高瀬毅「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」平凡社)。

 広島の旧産業奨励館の遺構は「原爆ドーム」として世界中から認知され、その歴史的な意義が高く評価されています。これに対し浦上天主堂の遺構は、吹き飛ばされた鐘楼の一部が近くの川岸に・柱の一部が爆心地公園に存在するものの広く認識されないままです。被爆都市としての長崎の認知度が広島に比べ圧倒的に低いのは(広島の旧産業奨励館のような)直接的に視覚に訴えかける証拠物件が現存しないからです。浦上天主堂の遺構が現地にそのままの状態で保存されていたならばキリスト教に立脚する欧米世論に働きかける影響力は旧産業奨励館よりも遥かに大きい。それはキリスト教信者が集う<天主堂の上で>プルトニウム爆弾を炸裂させるという行為の意味を世界中に知らしめていたでありましょう。それはアウシュビッツに匹敵する「世界遺産」として歴史の生き証人になっていたことでありましょう。本年4月に「長崎旧浦上天主堂1945-58・失われた被爆遺産」(岩波書店)が発刊され、我々は昭和33年まで現地に存在していた浦上天主堂の遺構を(写真上ですが)認識できるようになりました。有り難いことです。ですが、現地において「見えないモノ」を心眼で想像するという作業は極めて難しいものです。歴史を感じるには「見えるモノ」が必要なのです。日本の文化行政の貧困は「見えるモノ」と「見えないモノ」の違いに対する為政者(政治家と行政職員)の驚くべき鈍感さに由来すると私は感じています。

* 被爆遺構をめぐる政治的思惑と祈りの場としての相克について「長崎歴史散歩」で論じたのでお読みいただけると嬉しく思います。

前の記事

大刀洗飛行場2

次の記事

歴史コラム(日本の自然)