歴史散歩 Vol.134

江戸時代における筑後の刑場

江戸時代には自由刑(懲役・禁固)がありませんでしたから、現在の刑務所にあたるものは存在しません。牢屋敷と処刑場が刑事施設です(江戸においては前者は小伝馬町の牢屋敷・後者は鈴ヶ森と小塚原の刑場が著名)。古来、刑事施設には強い規範的な意味が付されていましたから、その内容を知ることは「都市の成り立ち」を知ることにも密接に繋がります。以下では「江戸時代における筑後の刑場」を久留米藩・柳川藩の順で見ていくことにしましょう。

久留米藩の場合、柳川往還を南に進んだ右側、現在の荘島小学校に牢屋敷(未決囚の溜と既決囚の牢獄)がありました。もともと牢獄は現在の裁判所辺りにありましたが、享保7年に荘島に移転されました。罪人はここで裁判を待ちます。極刑の沙汰が出た罪人は処刑のため縄につながれて処刑場に連れて行かれます。聖ルチア病院手前(本町7丁目信号)を右に曲がり踏切を渡って更に進みます。これが柳川往還の旧道です(現在の柳川県道は直進しガードをくぐっていますが、このルートは近年に整備されたものです)。鳥飼小学校の前を通り過ぎます。この辺りは掛赤という地名で、ポテトキングこと牛島謹璽出生地として著名です(2010年5月5日「ポテトキング1」参照)。先の道路は江戸時代のままの狭い幅ですから車の離合にも苦労します。右手に池青寺があります。善導寺の末寺で寛延3(1750)年に盛徳院殿婦人(七代藩主生母)の願意により造営されました。山門の竜宮門が特徴的です。藩主生母に縁があるため格式が高かったようです。

 池青寺はいわゆる駆け込み寺であり、死刑囚が刑吏の隙に乗じて駆け込めば刑吏は見て見ぬふりをすることになっていたそうです。同情すべき点が多い死刑囚に対して刑吏が意図的に紐を緩めるということもありました。寺内には罪人の縛り方を記した書が残されています。重罪のほうがキツイ縛り方になっていました。 

 池青寺は芝居や相撲を興行する特権を認められており、久留米を訪れる芸人の宿舎ともなっていました。芸人の宿舎としての性格は近年まで残っており、ご住職に伺ったところでは三波春夫さんが泊まったこともあるそうです。池青寺の石垣には「とっくりと杯」の形をしたものが残されています。池青寺が駆け込み寺であるとともに祝祭の場でもある性格を持っていた象徴です(刑場と祝祭場が隣りにあるのは江戸のディープノース・大阪のディープサウス・京都の四条河原と共通)。

池青寺を右目に見て左側に曲がると「男橋」「女橋」なる小さな橋があります。言い伝えによると見送りに行く男は「男橋」まで女は「女橋」までしか付いていけず、ここでこの世の別れをしました(江戸の小塚原における「泪橋」と同じ趣旨です)。この両者を「二ツ橋」と呼びます。


この地は二つの川が合流する不思議な感じのある所です。民族学的に言えば、川は「結界」の象徴であり、この世とあの世を分ける意味がありました。

 橋を渡って、歩いて3分ほどで時の流れが止まったような異次元的なにおいのする空間に到着します。左手に小さい丘があります。コンクリート製の祠の中に閻魔大王様がいます。

 向かいの六体のお地蔵様(六地蔵)は道に背中を向け立っておられます。言い伝えによるとお地蔵様は当初は道を向いて立っていましたが、道向かいの刑死者の姿があまりに悲惨で顔を向けて立っていられなくなったので、道に背中を向けたのだとされています。

六地蔵の「六」というのは天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を指す数字であり、六道はあらゆる生命が生まれ変わりする世界を意味していました。六地蔵は多くの場合、村と村の境にもうけられましたが、それは同時に<この世とあの世の境>をも意味していました。日本の他の刑場でも六地蔵が建つ場所は少なくありません。背景に地蔵菩薩は「閻魔大王の仮の姿」であり「六道において人間の悪行を監視している」という信仰が広く存在したからです。
 道の向かい側に長徳寺(廃寺)があります。久留米藩の刑場はここにありました。この刑場は享保6(1721)年に設けられ、多くの罪人の処刑が行われました。刑場は柳川往還の目立つ場所に設けられていました。処刑とは見せしめであり、権力に反抗する者がいかに悲惨な目に遭うかを庶民に見せつけるものでした(そのため行刑に従事する者に対して憎しみが向けられました)。久留米藩の百姓一揆の指導者達もここで処刑されています(「天才とバカ殿」参照)。左手の小さい丘には宝暦時代に作られた墓石が複数存在します。これらの墓が処刑された指導者の墓であるのかどうか私には判りませんが、この地がかつて「義民」の血を吸った場所であることは確かです。

ここから柳川までは遠いので車で行くことにしましょう。二ツ橋刑場前の道(柳川往還)をしばらく進むと現在の柳川県道に出ます。柳川までほぼ一直線の道路が約20キロほど続きます。蒲池小学校の前を通り過ぎ(「蒲池の姫君」参照)旧柳川藩領に入ったところに藩境の碑があります。5分ほど南に歩いたところに交差点があり(左が西鉄柳川駅・右は大川方面)この交差点を超えると道右側に矢加部地蔵があります。この地は柳川藩の刑死者を晒していたところです。 

 本来の柳川往還はここを直進する堀沿いの狭い道です(2018年11月1日「田中吉政の遺産2」参照)。今の道路を右に曲がると直ぐ交差点があります。左に曲がると福岡地裁柳川支部がある城下町中心部に入りますが、直進します。左手に大きな広場があります(You遊の森公園)。かつて「国鉄・柳河駅」があったところです。これを通り過ぎた右側に、大きな樹木が植えられている一角があります。ここが柳川藩の刑場だったところです(日切地蔵尊)。
 
 柳川藩と久留米藩は特に矢部川の水利権をめぐって対立がありました。そのため両藩には互いに「仮想敵」の意味合いがありました(一般に軍事体制を維持するには常に仮想敵を想定する必要があります)。処刑場は相手方に対する呪祖的意義をもち、晒し場は往還をする者に対して威嚇的効果を与えるものでした。久留米藩が南に向け・柳川藩が北に向け晒し場を有していたのはこのためです。同様のことは福岡藩と小倉藩にも妥当します。福岡藩は東に向け、小倉藩は西に向け晒し場を設けています。阿部謹也「刑吏の社会史」(中公新書)はヨーロッパにおける刑吏に対する差別意識の問題を深く論じています。江戸時代の久留米藩も例外ではありませんが、詳細は割愛します。深く勉強したい方は「久留米市史第2巻」845頁以下を参照。

* 久留米藩(有馬家)と柳川藩(立花家)、小倉藩(小笠原家)と福岡藩(黒田家)の対立は江戸幕府との距離感に起因していたと考えられます。有馬と小笠原が徳川との緊密性を誇ったのに対して、立花・黒田は豊臣恩顧の大名であり徳川から若干遠い気分を持っていたからです。

前の記事

旧三本松町通り

次の記事

ちょっと寄り道(横浜1)