歴史散歩 Vol.133

旧三本松町通り

久留米城は、元和7年(1621年)における有馬豊氏の入部以前は、田中吉政が居城していた柳川城の支城でしたから、本城たる柳川と久留米を結ぶ道路(柳川往還)に特別の重要性が与えられていました。この南北のラインと通町が形成する東西のラインが、筑後弁護士会館の南でT字型に接します。この場所は江戸時代に「札の辻」と呼ばれており、高札が掲げられていました。ここが久留米藩における街道の起点でもありました。通り沿いに「札の辻」の跡を示す石碑が設置されています。

 この場所は以前「TSUTAYA書店」でしたが現在(2021年9月)は回転寿司「スシロー」になっています。駐車場向う側に筑後弁護士会館が見えます。その奥が福岡地裁久留米支部です。
 柳川往還の最初の部分(後述する三本松公園あたりまで)は特に「三本松町通り」と言われ、昭和20年8月11日の久留米空襲まで久留米一番の繁華街でした。
 

南側に「紳士服のフタタ」があります。三本松町通りはこの駐車場を貫通します。駐車場を抜けて南に数十メートル分だけ昔の面影が残されています。三本松町通りが繁華街であった証拠に道の両側に銀行がありました。東に一七銀行・西に第一銀行です。三本松町通りは久留米空襲で焼け野原となりましたが、木造でなかった2つの銀行建物は生きながらえて現在も雄姿をとどめています。

 旧一七銀行は、ロマネスク様式風の鉄筋コンクリート造2階建です。明治5年の国立銀行条例によって設立された銀行は数字が名称とされており、明治15年の日本銀行条例による普通銀行への転換後も、そのままの名称で営業するものが多く残りました。長崎の一八銀行は今も当時のままの名称ですが、一七銀行は福岡県内の他銀行を吸収する際に「福岡銀行」と名前を改め現在に至っています。 戦後復興の区画整理で三本松通りが消滅したので福岡銀行はこの建物で営業することを止め、現在の繁華街である明治通りに店舗を移しました。
 
 この建物は1968年に久留米市に売却され久留米市立中央図書館西分館として市民に親しまれてきました。入口上部の看板に当時の文字をかすかに読み取ることができます。中には分厚い金庫用の扉が残されており、ここが銀行であったことを偲ばせるものとなっています。旧三本松町通りは建物の前の御影石のところに痕跡をとどめています。現在の道路は正確に南北を意識して形成されていますが旧三本松町通りは東に傾いて形成されていたので御影石が少し斜交するかたちで残されています。

戦後の復興計画の中で、小頭町公園や東町公園と共につくられたのが三本松公園です。三本松町通りのライン上に池町川を渡る橋が創られています。橋を渡ると道路に白いラインが引かれています。この旧三本松町通り上に碑が設置されています。
  

戦災後の遊び場のない子供達のため、昭和29年、三本松公園に無料の動物園が木下勇氏の寄付により開設されました。昭和27年の構想開始から2年近い努力の賜でした。動物は別府ラクテンチ・宮崎の子供の国・鹿児島の鴨池動物園・熊本動物園・大牟田動物園等から寄付を募ったそうです。当初の敷地は300坪。今から考えれば小さいものですが当時の状況で考えれば夢のような楽園でした。最初の3日間は入園者2万5000人を数えました。2年目に700坪に拡大され、動物は90種・330匹にまで拡大しました。

 昭和30年春、園はインドクジャクの寄贈を受け繁殖を試みたところ大成功します。36年に成鳥は260羽に達しました。昭和39年に財団法人久留米市鳥類センターに組織を移管し、東櫛原に出来た総合スポーツセンター横に移転して現在に至っています。クジャクの一部は国鉄久留米駅にも飼われ、久留米駅のアイドル的存在となっていました。
 
 旧第一銀行(現みずほ銀行)久留米支店は大正15年の建築。第一銀行本店などをてがけた西村好時氏の設計・清水組の施工による鉄筋コンクリート造2階地下1階建の建物です。いわゆる銀行建築様式で、窓が小さく、太い縦の柱を強調しているのが特徴です(東京の三井本館・名古屋のUFJ貨幣資料館などが典型的な銀行建築様式)。新築記念資料には「鉄骨鉄筋コンクリートで絶対耐震耐火を主眼とす」と記載されています。3年前に発生した関東大震災が念頭に置かれていたようです。三本松町通りは昔この建物の東側を通っていたので建物は東を向いて建っています。戦後区画整理で道が西に付け替えられたため、現在は建物が道に背中を見せているのです。

 明治時代、この地に石橋徳次郎が営む「志まやたび」がありました。石橋正二郎氏の出生地はここです。志まやたびを母体に設立されたのが日本足袋株式会社。同社発展の契機は大正11年に開発された「地下足袋」(ゴム底を張った足袋・建築・農作業で重宝された)の大ヒットです。最初の大口需要者となったのは三池炭鉱。試作品が完成すると正二郎は団琢磨(三池炭鉱事務長)に試用を依頼しました。草鞋に比べ格段の耐久性がある上にゴムは電気を絶縁するので事故防止にもなります。鉱山特有のワイル氏病予防にも効能を発揮しました。農作業や建築工事などでも有用であることが判り爆発的に売れたため日本足袋は巨万の富を獲得しました(2017年3月8日「アサヒコーポレーション」参照)。正二郎は成功をふまえて昭和6年にタイヤ事業に乗り出します。反対ばかりの周囲の声を振り切って進もうとする正二郎の決断を後押ししてくれたのも団でした。ここに両者の深い信頼関係が形成され、後に正二郎の長男・幹一郎は団の孫娘・朗子(作曲家・団伊玖磨の実妹)と結婚することになります。このようにして設立されたのが「ブリッヂストンタイヤ株式会社」です。成功の背後にはドイツ兵俘虜収容所から就職した優秀な技術者の存在がありました。

戦後造られた「本町交差点」には以前「ロータリー」が設置されていました。年配者の方には現在でもこの交差点を「本町ロータリー」と呼ぶ方がおられます。

現在の様子です。上記写真と同じ場所(みずほ銀行屋上)からの撮影です。
 

* 2020年2月「石橋正二郎生誕地の碑」が設置されました。「三本松・本町通明るい街づくり推進協議会」の寄贈によるものです。しまや足袋工場をつぶして道路が付け替えられたので道路になった西側に向けられています。
 

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