歴史散歩 Vol.94

山ノ井堰と人柱

八女市黒木町から国道442号線で八女市に向かう際は星野川にかかる山内橋を渡ります。橋を渡ってすぐ右脇に公園があり巨大な石碑があります。この場所に何故石碑があるのかを知る人は多くはありません。そもそも石碑が存在する場所が堰であることを認識している方が少ないと思われます。堰の中に民家や公園があるため俯瞰的観点で堰の全体像を認識することが難しいのです。

時は寛永19(1642)年、将軍家光の時代。八女市の北方にある吉田村は緩やかな丘陵地帯となっており、水さえあれば、とても良い農地となり得る場所でした。しかし星野川は低いところを流れており農業用水として使うことが出来ないため日照りになると直ぐに農作物が駄目になってしまいました。久留米藩の役人は村を仕切る庄屋に対し収穫を上げるように言い伝え、星野川から用水路をひくよう厳命しました。村民総出による大土木工事が始まります。吉田村まで通じる用水路を造り、なんとか器が出来ました。あとは川を堰き止め取入口から用水路に流すだけです。しかし星野川は急流。堰き止めるのは大変な工事です。江戸時代ですから堰は山田堰と同様のななめ堰です(「山田堰と水車群」参照)。問題は斜めに並べた大量の土嚢や石による堰を大雨の時でも水流に負けないように強く築けるか否かです。当初つくった堰は大雨による濁流で簡単に流されてしまいました。
 当時、自然の力には神が宿っていると信じられていました。水の流れを人間の力で変えることは神に逆らう行為として認識されました。ゆえに築いた堰が流されるのは「人間の行いを水神様が怒っているからだ」と村民が認識するのは当然でした。吉田村の庄屋・中島内蔵助はこういった村民の心を知り、何百人もの村民の前で次のように述べました。

水神様から人柱(ひとばしら)を立てるようにとお告げがあった。それは明日の朝、集まるときに、草履の緒が左結びになっている者だ。

村民達は驚き、明日は絶対に左結びの草履を履かないように決意しました。誰も死にたくはないので皆が右結びの草履を用意し、何が何でも明日はこれを履いていこうと準備を整えました。翌朝、工事現場に村民が集まりました。皆が右結びの草履を履いてきました。人柱になるべき左結びの草履を履いてくる者はいませんでした、ただひとり中島内蔵助を除いては。そのとき初めて村民の誰もが内蔵助の思いを理解したのです。その後、精力的に工事は続けられました。内蔵助の思いを共有した農民らの仕事ぶりは、以前とは比較にならないほどで、大雨の時でも水流に負けないような立派な堰がつくられました。完成を誰よりも喜んだのは他ならぬ内蔵助でした。完成を見届けた内蔵助は、白装束に包まれて星野川に身を沈めました。内蔵助は水神様に捧げられたのです。こうして内蔵助は地域農民の「神」となり、その徳を顕彰するために堰の中に立派な碑が建てられるようになったのです。

公園内の水天宮は久留米水天宮を本宮としていますが、祀られているのが安徳天皇であるとは思えません。住民が信じているこの神社の「神」は中島内蔵助だと私は感じます。
中島内蔵助のお墓は八女市吉田・筑水会病院の脇にあります。現在も農家の方々やご親族の皆様方によって毎年秋に感謝祭が執り行われています。 
 中島内蔵助の碑があるこの公園には、かつて学校がありました。変則中学中州校と言います。明治11年から16年にかけて、当時の郡立(上妻・下妻)中学校として設立されました。生徒達は中島内蔵助の物語を繰り返し聞かされて育ちました。アメリカでポテトキングと呼ばれた牛島謹爾は本校の出身。久留米市梅満町で生まれた牛島はこの学校で学んだ後、江崎塾(当初は八女郡黒木町に所在、後に上陽町に移転)で学びます。牛島は26歳で渡米し、カルフォルニアで農場の経営に挑み最終的には4万ヘクタールの農園を所有するほど成功しました。後、牛島は日米親善に尽くし無冠の大使とも呼ばれました(「ポテトキング2」参照)。
 この物語は近くの小学校の校歌に歌われ演劇の題材にもなりました。修身の教科書に採用されなかったのは生命を失った内蔵助の物語がテーマ的に暗すぎる上、人間を神様に捧げる行為が科学時代に共感されにくかったからだと思われます。もっとも大戦末期の特別攻撃が長期化していたら、この物語も「皆のため人柱になれ」という形で修身の教科書に採用されていたかもしれません。水を確保することは、かつて人間が生きることそのものでした。今もきれいな水を求めて彷徨う人々が世界中に存在します。日本でも人々は水を恐れ水に感謝を捧げてきました。その中で水にまつわる多数の物語が形成されてきたのです。こういった水と人間の物語の多くは高度成長期の大規模土木工事と人心の変容によって消滅してしまいましたが、幸い筑後地方には水と人間の生き生きとした係わりを示す痕跡と物語がまだかろうじて残っています。大事に保存し語り継いでいきたいものです。(終)

* 山ノ井堰は九州北部豪雨で大変な被害を受けました。当時の状況をアップします(「平成24年7月九州北部豪雨・災害と復旧復興の記録」より引用)。

現在の写真をアップします。大きく被災した山ノ井堰は現在も尚、修復工事を施されています。5年近くになるのに未だ工事は続いています。
            (上流部に向かって撮影・修復工事)

            (水天宮は大きく被災・支えがないと崩壊する)

           (山内橋から見る水天宮遠景・大規模な護岸工事)

           (山内橋から下流を見る・両岸とも大規模工事)

* 執筆当時はあまり深く考えずに「人々は水を恐れ水に感謝を捧げてきました」と記していました。事後「水の怖さ」を表象する大きな出来事が立て続けに起きています。しかし「水の有り難さ」も普遍的なものです。人は水なしでは生きていけないからです。人間が水と調和しながら生きていく物語が今ほど求められているときはありません。(2017年5月後記)

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