歴史散歩 Vol.93

ちょっと寄り道(鴨東)

鴨東(おうとう)とは鴨川から東山までの低地を指す言葉です。鴨東は京都近代化の中心であり、吉田・岡崎・南禅寺辺りまでを指して使うことが多いようです。この鴨東を2月に長男と共に散歩しましたので御紹介します(他に御所と修学院離宮の見学を含めています)。
(参考文献・三好和義「京都の御所と離宮」朝日新聞出版、梅林秀幸「京都の凸凹を歩く」青幻社、「日本を解剖する京都図鑑」JTBパブリッシング、川上貢「京都の近代化遺産」淡交社、「大学的京都ガイド・こだわりの歩き方」昭和堂、「京都明治大正地図本」ユニプラン、「地図で読む京都岡崎年代史」、「京都大学の歴史」京都大学文書館、「琵琶湖疎水記念館図録」など)

午後2時に御所の青所門で待ち合わせ。昔、京都御所を見学するには予約を必要としたが現在は事前予約なしで見学できるようになっている(仙洞御所は要・予約)。青所門は私たちの他に外国人を含む多くの参観者であふれていた。よく知られているように現在の京都御所は平安京開設時点の内裏の場所から大きく(東へ約1・7㎞)離れている。現在の位置に御所が置かれるのは南北朝期だ(旧土御門邸)。現在の京都御所の特徴は官衙(官庁街)の不在である。平安京の内裏が多くの官衙を有していたことと対照的だ。江戸時代中期まで周囲にあったのは僅かな公家町だけである。この公家町は豊臣秀吉が大規模な京都改造を実施した際に設けられたものであるが、それは即ち、武家に政治の実権を奪われたことの象徴だった。現在この公家町は存在しない。公家宅跡は砂利が敷かれ植え込みになっている。公家は天皇と共に(冷泉家以外)東京に行ってしまったのだ。
 歩いて京都大学に向かう。東京に続き日本で2番目の帝国大学。百周年時計台記念館に入る。2003年に創立百周年記念事業として大規模改修を受けたものだ。その1室に常設展示室「京都大学の歴史」が設けられている。創立から現代まで8つのテーマに分けて文書・写真・資料が展示され部屋中央に本部構内のジオラマが再現されている(基準時昭和14年)。隅に戦前の学生下宿の様子を再現したコーナーがある。京都に帝国大学を創設することは、東京帝国大学に対抗しうる、もう1つの学問の核を作る意義があった。加えて京都復興の原動力として学問の力を活用する趣旨もあった(現在も京都の活力は多数の大学・研究所と学生・研究者が産み出している)。この趣旨に沿って当初大阪に予定された第三高等中学校が京都に開設されることになり、これを母体として正式に発足したのが京都帝国大学である。琵琶湖疎水の開通(明治23年)第4回内国勧業博覧会の開催(明治28年)に加えて吉田に京都帝国大学が開設(明治30年)されることにより鴨東の近代的意義は決定づけられた。ただ明治30年に発足したのは理工科のみで、明治32年に法科・医科、明治39年に文科を加え、理科と工科が分かれて京大が総合大学になるのは大正3年のこと。京大は発足から総合大学になるまで17年もかかっているのである。初代京大総長・木下広次は最初の入学式で「当大学は東京帝国大学の支校にあらず・また小模型にもあらず」と述べるとともに「自由な学問研究と学生の自主性」を尊重した。国の要請する官吏養成を至上命題とする東京帝国大学への対抗心が明確であった。現在、多くの大学で普通に行われているゼミナールや卒業論文の必修化は京大から始まった。かかる自由と自主独立の精神は現在も尚「京大スピリット」として受け継がれている。
 長男の住むアパートに荷物を置き2人で街に出る。買い物をしながら新京極をぶらついた後、先斗町にて夕食をとる。1日目はこれで終了である。

2日目の朝。叡山電鉄に乗り修学院駅で降りる。20分ほど歩き、ゆるやかな坂道を昇ったところに修学院離宮の門があった。参観許可を得ている若干名と共に中に入る。修学院離宮は後水尾上皇により造営された離宮である。桂離宮が都の西南(裏鬼門)にあるのに対して修学院離宮は東北(鬼門)の位置にある。比叡山麓の眺めの良い場所である。現在は上中下の3つの茶屋から構成される。中茶屋は明治18年に組み込まれたもの。後水尾上皇時代は上下2つの茶屋だった。江戸幕府との軋轢により34歳で将軍秀忠の娘・和子(東福門院)との間の娘・一宮(明正天皇)に譲位した後水尾上皇は離宮の造営を早くから望み、ここ修学院の地に理想の離宮を造営することを決意した。心血を注いだ上下茶屋が完成したのは万治2(1659)年。時に上皇は63歳。関ヶ原から江戸初期まで激動の時代を生き抜いた上皇はこの地に平安を見いだす。行幸は85歳で亡くなるまでの70数回に及んだ。3つの茶屋は畦道で繋がれており間に日本の原風景である田んぼや畑が広がっている。宮内庁の職員さんに案内されて各茶屋の説明を聞きながら歩く。圧巻はなんといっても上御茶屋の隣雲亭からの眺めだ。急に視界が開け、浴龍池の向こう側に右(岩倉・鞍馬)中央(京都市街)左(遠方に山崎)の素晴らしい風景が広がる。ため息が出るほど美しい。
 離宮を出て叡電を戻る。地下鉄東西線に乗り換え蹴上駅で降りる。坂を降りてゆくと右手に南禅寺への近道がつくられている。左手に水力発電所の遺構がある。琵琶湖疎水は多くの目的で構想されたが当初重視されていたのは舟運だ。見立てられていたのは京都「外港」としての大津である。しかし舟運は陸上交通の発達により急速に廃れてゆく。もしも舟運だけの目的で琵琶湖疎水が計画されていたならば巨額の工事費用(125万円)に見合わぬ無駄な公共事業として「失敗」の烙印を押されていたであろう。琵琶湖疎水が現在の視点から見ても「成功」例であるのは発電と上水道という近代都市に不可欠なインフラの役割も担っていたからである。水力発電が早い段階で疎水事業目的に盛り込まれたことは先見の明であった。これは弱冠21歳の若さで責任者に抜擢された田辺朔郎がアメリカ視察で水力発電の重要性を認識したことにより目的に加えられたものだという。一般論として言えば水力発電を行うためには「ダム」を建設する必要がある。が、この琵琶湖疎水事業は琵琶湖を巨大ダムに見立てることで、その位置エネルギー(京都との水位差)により電力を産み出すという田辺の凄い発想によるものだ。日本で最初の水力発電に成功したことが日本初の路面電車開通(明治28年)に繋がり京都の近代化を引っ張っていった(現在の広い道路は路面電車開通と戦時の建物疎開によるもの)。上水道としての意義も見逃せない。京都盆地は巨大な連続扇状地の性格を有しており地下に膨大な水資源が存在する(貯水量は約211億トンと推計)。京都が「千年の都」としての地位を保ってきたのは豊富な地下水により飲み水に困らなかったからだ。が、近代都市整備にあたり上水道は生命線である。京都の上水道は明治末の第二疎水によるものであるが、第二疎水は明治23年竣工の第一疎水があったからこそスムーズに作ることが出来たのだ。
 昼食は南禅寺の名物・湯豆腐をいただく。食後に水路閣を見学する。水路閣は京都盆地北部を潤す疎水分線のために設けられた施設だ。長さ93・2メートル、高さ12・9メートル。花崗岩と煉瓦で整然と積み上げられている。何故、南禅寺境内にかかる施設が設置されたのか?人工水路に於いて高度は命である。疎水主線は水力発電で位置エネルギーを解放し電力に変換された後、鴨東運河の舟溜まりに流れ落ちた。位置エネルギーを生かした噴水も設けられていた。が、疎水分線には京都北部を潤す目的が与えられている。北部の連続扇状地のラインを超えるためにはトンネル等で水位を維持する必要があるが、南禅寺東には塔頭寺院や御陵がありトンネルを掘ることが出来なかった。そのため田辺朔郎は高さ12・9メートルの空中で「水をカーブさせながら流す」アクロバット施設を設計し見事に実現させたのである。水路閣を下側からだけ眺めて帰る人が多いが、せっかくだから右手の山上に昇り水路閣上を水が流れていることを確認して頂きたい。水路閣を通った水はトンネルを抜けて銀閣寺方面に流れてゆく。いわゆる「哲学の道」脇の水路である。気を付けて見て欲しいのが水の流れの方向。京都盆地は北から南に向けて低くなっているが、疎水分線の水は南から北に向けて流れている。琵琶湖の水位を生かして京都盆地北部から南を潤すという目的が疎水分線に与えられていたことの証左である。琵琶湖疎水記念館を見学する。上述した琵琶湖疎水の意義や大工事の難儀が詳細に説明されている。記念館の前は広い舟だまりになっており、ここからレールに沿って舟を坂上にあげる施設(インクライン)が良く見える。明治初期の大工事の凄さに感動を覚える。
 無麟庵に入る。これは山県有朋の別荘で、日露戦争を決めた「無麟庵会議」(明治36年)の舞台として著名なところである。感慨を覚える。庭園には琵琶湖疎水の水が引かれている。この周辺には明治以降に力を付けた新興勢力が好んで邸宅や別荘を構えていた。
 舟溜まりから先の水路は「鴨東運河」と呼ばれており、周辺に近代化象徴的な施設(動物園・美術館・公会堂など)が多く作られた。北部に平安京大極殿を模写して作られた平安神宮がある。これは平安遷都1100年祈年祭(明治28年)の際に作られたものである。岸本千佳「もし京都が東京だったらマップ」(イースト新書Q)は岡崎を東京の上野に見立てている。たしかに博覧会・美術館・動物園・公会堂・博物館など岡崎と上野の類似性は明らかである。
 南禅寺村と岡崎村は明治21年に京都市に組み込まれたが、それは琵琶湖疎水事業を京都市の事業として行う必要性にもとづくものだった。「洛中」を豊臣秀吉の「お土居」の範囲と定義すれば、鴨東は明らかに「洛外」だった。と言っても岡崎が歴史上つねに農村としての地位に甘んじていたわけではない。白河上皇が開始した院政時代、この周辺は「六勝寺」と呼ばれる絢爛豪華な寺院(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)が建てられ政治の中心となった。法勝寺の八角九重塔は推定81メートル。人々に院の権力を見せつけた。しかし「承久の乱」後の朝廷弱体化を経て周辺は田畑に戻ってしまった(聖護院大根など京野菜の産地となる)。周辺が注目を浴びるのは幕末に御所が政治の中心となり諸藩から広い土地を求められるようになってからのことだ。
 岡崎公会堂で「全国水平社大会」が開催されたのは大正11(1922)年3月3日。解放運動の開始を告げる大会が「身分制秩序の本家本元である京都」で開かれた意義は極めて大きい。現在、公会堂の跡には京都市美術館別館が建てられている。玄関の西側に「全国水平社創立の地」碑がある。
 聖護院に赴く。神仏習合に立脚した修験道の本山。聖護院は江戸時代まで勢力を誇ったが、神仏分離を進める明治政府から弾圧を受けた。が寺内には素晴らしい寺宝が多く保存されている。特別公開時だったので通常非公開の寺宝を拝見することが出来た。期待しないで入ったのだが、ここの寺宝は質量共に凄いものがある。夜は聖護院郵便局横のジャズバー「ZacBaran」で上田秀行さん他3名によるライブを拝聴。伝統が強調される京都だが音楽や演劇など西洋芸術の活動も活発に行われている。お酒を飲みながら聞く生演奏は良いものだ。終了後、タクシーで長男の下宿に帰る。

3日目朝。長男は未だ寝ている。小声で礼を言い私は下宿を出た。北キャンパスを抜け老舗喫茶店「進々堂」にて朝食。昭和5年に開業した老舗だ。朝8時から開店している。後に人間国宝となる黒田辰秋が製作した巨大な机と椅子が心地よい。美味しいクロワッサンとコーヒーのセットをいただく。満足。時計台記念館の脇を抜けて吉田南キャンパスに入る。旧制第三高等学校があったところだ。ここでは何としてでも吉田寮を拝見したかった。多数のニワトリが飼われている奇跡的な風景。ネット上で評判を呼んだからであろうか「プライバシーに配慮し写真撮影はご遠慮ください」と張り紙が為されていた。吉田寮は第三高等学校寄宿舎の貴重な遺構である。旧制高校の雰囲気を未来に伝えるために後世まで大事に残して頂きたいと願う。近衛中学校前を通る。旧制府立一中。鴨東に一中・三高・京大という京都のエリートコースが並ぶラインが出現した。このラインに乗るためには「生まれ」ではなく「知性」が求められた。知性は地道な努力により磨かれねばならなかった(その象徴がノーベル賞学者・湯川秀樹)。生まれを凌駕する知性の出現。それは生まれを何より重んじてきた京都人にとって革命的出来事であっただろう。しかし、それを受け入れ、未来に向けた科学的考察に敬意を表することによって京都は世界水準の学問レベルを維持出来たのだ。
 京大付属病院前から市営バスに乗り京都駅に着く。明治以降、京都は「伝統」だけでは生きていけなくなった。京都人はそれを自覚しており自己改革の努力を続けている。伝統の象徴のように見える寺社だって昔の写真と比較すると全く変わっているものが多い。「伝統」を表現しているように見える祇園も近年になって形成された一種の「テーマパーク」である。円山公園の瓢箪池・平安神宮の神苑・南禅寺付近の多くの庭園の池は琵琶湖疏水がもたらした明治後の風景である。京都の伝統は「保守」ではなく明治以来の絶えざる「革新」から産み出されたものなのだ。
「前衛都市としての京都」。近未来を感じさせる現代の京都駅はその象徴なのだろう。 

* 京都の前衛都市たる性格は五木寛之「宗教都市大阪・前衛都市京都」(講談社)が詳しく論じています。五木氏は京都の先進性こそが島津製作所・立石電気(オムロン)・ローム・任天堂などの優良企業輩出に繋がったと論じています。
* 帰宅後にフェイスブックにアップしたオヤジギャグ。楽しかったな。
 ①御所の御学問所(上・中・下・各段の間がある)にて
 「この一番奥の部屋でギャグを考えていたのよ」「本当?」「じょうだんの間だからね」
 ②修学院離宮にて「ここは抹茶が飲みたくなるみたいよ」「?」「りきゅうでございます」
 ③南禅寺にて「ここで400字詰め原稿用紙10枚を書くと」「?」「なんぜんじ?」

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