歴史散歩 Vol.7

寺町の遍照院

遍照院には江戸から昭和にかけての久留米の歴史が凝縮しています。以下「久留米市史第二巻」及び「第三巻」高山精二「久留米の町・寺社めぐり」福岡県歴史教育者協議会編「福岡歴史散歩北九州筑後コース」(草土文化社)などを基礎にしてご案内いたします。

寺町は久留米城を東側の攻撃から守るため整備された寺院群で17カ寺が甍を連ねます。遍照院は元和8(1622)年、臨済宗妙心寺派の僧(漢室)が開いた金剛寺に遡ります。三世住職のときに廃絶されましたが、祇園寺(法務局横・神仏分離によりスサノオ神社が残され他は廃寺)の四世・快応が藩の許可を得て小堂を建立し遍照院と号したのが始まり(真言宗)。遍照院は高山彦九郎の墓がある寺(菩提寺)として全国的に著名です。高山彦九郎は江戸時代中期に勤王論を唱えて30年間全国を放浪した人。高山が勤王に目覚めた背景には自分が南北朝時代に北朝方と対峙した菊池氏側近の末裔だとの自覚がありました。南北朝の争いの大舞台の1つが久留米から小郡であり、高山は久留米に特別の思いを持っていました(「筑後の南北朝時代」参照)。付近には「宮の陣」や「大刀洗」など故事にちなむ地名が残されています。朝廷は勤王の「宣伝マン」である彦九郎に注目して、光格天皇に拝謁させる特別待遇まで行いました(一坂太郎「幕末歴史散歩京阪神篇」中公新書4頁)。この頃の高山の姿を示した銅像が京の三条大橋東詰南側にあります(揮毫・東郷平八郎)。
しかし幕府の追求が激しくなり高山は逃れられなくなります。寛政5年、高山は久留米の友人森嘉善宅(東櫛原町)で自刃します。ここに饅頭塚が設けられています。

辞世の句。

朽ち果てて身は土となり墓なくも、心は国を守らんものを

 高山彦九郎は後の倒幕運動に多大なる影響を与えました。真木和泉守は高山を崇拝し尊皇思想を高めたものと言われます(「水天宮界隈」参照)。真木が天王山で自刃した際の辞世の句。 

大山の峯の岩根に埋みけり我が年月の大和魂

 遍照院はこの自刃地より300メートルほど南側にあります。

入り口を上がって真っ直ぐ歩いていくと正面に墓が見えてきます。
 萩の吉田虎次郎は彦九郎の諡「松陰以白居士」から以後「吉田松陰」と名乗るようになりました。

身はたとい武蔵野の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 松陰の辞世の句は高山彦九郎と真木和泉守を意識して作られたものと考えられます。

久留米は幕末に勤王の志士たちが活発な交流をした所です。軍事力(軍艦や大砲等を多数保有)や技術力(東芝の始祖である田中久重が著名)も抜きんでていました。政治的な巡り合わせがよければ薩長土肥に続く勢力とすら言い得たのです。しかし、幕末の有馬藩は政治的なセンスに欠けていました。有馬藩は当初は家老有馬監物や参政不破美作らの公武合体派が藩政を担当し、現実的な開港策をとっていました。しかし慶応4年1月25日、参政不破美作が暗殺されます。久留米城下の上級武家屋敷にあった屋敷の前です(現在の篠山小学校三島門の前。)久留米藩における「桜田門外の変」と表現できるものです。首脳部は実行犯の行動を是認し公武合体派を処分します。藩政はテロにより観念論的な尊王攘夷派へ転換させられました。テロ実行者の意向に添う形で尊攘派の幹部である水野正名が藩政を担うことになります。藩論は転換し、時の尊攘派政権により佐幕派と開明派のうち主要人10名が翌年、屠腹を命ぜられました。罪状は「国是の妨げ」。それまで懸命に藩のため働き成果を挙げてきた面々です。無念だったことでしょう(明治2年殉難十志士)。

久留米藩は戊辰戦争で武器や軍艦を提供して新政府に協力します。しかし、テロで方針転換した観念論的な藩の性格(外国交易への反対・廃藩置県への反対)により開港や廃藩を進めようとする新政府から反政府的と見られました。特に木戸孝允は反体制の主要勢力として久留米藩を見ていました(薩長の尊王攘夷論は権力を奪取するためのポーズに過ぎず長州藩や薩摩藩はイギリスに留学生を派遣していた)。明治3年、長州藩で発生した騒擾の指導者大楽源太郎が久留米に潜入したため久留米藩への嫌疑が更に大きくなりました(薩長の「主張と行動の矛盾」の指摘は新政府への反抗を意味した)。明治4年、政府の追求により大楽源太郎らは筑後川河畔(小森野)で誘殺されます。誘殺した松村雄之進らは大楽源太郎ら4名の死を悼み遍照院に墓を建てました。これを「耿介四士」と呼びます。久留米藩は処罰を受けて更に有為の人材を失いました。これは「久留米藩難事件」と呼ばれており九州における「士族の反乱」と称される国内混乱の魁とされます。 

遍照院には高山彦九郎や大楽源太郎を慕う陸軍軍人が多数参拝しました。大楽の教え子で後に総理大臣にもなった寺内正毅は大楽源太郎の命日に欠かさずお参りをしていました。着任した第18師団師団長も必ず参拝しました。著名軍人の寄進による植樹碑が残されています(山縣有朋・寺内正毅・井上良馨・大山巌など)。遍照院は軍(特に陸軍)の精神的支柱となっていたのです(海軍の精神的支柱になっていたのは水天宮・「水天宮界隈」を参照されたし)。
 遍照院には昭和35年に月星化成株式会社(現株式会社ムーンスター)より寄贈された見事な日本庭園があります。同社は久留米のゴム3社(他の2つは株式会社アサヒコーポレーションと株式会社ブリヂストン)の1つであり、「つちやたび」以来の長い伝統を誇る久留米の老舗です。庭園内には同社から寄贈された立派な茶室もあります。

* 教科書で刷り込まれる「明治維新」のポジティブなイメージには懐疑の目を向けるべきです。薩長両藩の尊王攘夷論は徳川家から権力を奪取するためのポーズに過ぎませんでした。実際にイギリスと交戦することによって両藩は「攘夷」なるものが不可能であることを熟知しており、「攘夷」どころかイギリスに留学生を密かに派遣していました。この対内的主張と対外的行動の矛盾(2枚舌)は事後の薩長藩閥政権の基本となり、そのスタンスは現代にまで続いています。

* 小澤先生(久留米市文化財保護課)の記事。
 今回は長州藩の奇兵隊をモデルに久留米藩で結成された「応変隊」を取り上げる。武士や農民の混成部隊で、戊辰戦争では新政府軍として戦果を挙げたが、地元で乱暴狼藉(ろうぜき)を働き評判は芳しくなかったという。久留米市文化財保護課の学芸員小澤太郎さんとゆかりの場所を巡った。
 久留米市史によると応変隊は戊辰戦争まっただ中の1868年6月に発足した。農家や商家の子弟、足軽の次男、三男の500人が隊員に選ばれた。久留米出身の洋画家青木繁の父親も隊員だった。応変隊は英国式の訓練を受け、久留米藩の尊皇攘夷派のクーデターで藩政を握った水野正名の親衛隊的な存在だったとされる。ちなみにクーデターで粛清されたのは海軍創設に尽力した今井栄ら開明派だった。水野は藩の尊攘派の中心人物で、長州派の公卿三条実美に近かったが、投獄生活が長く、小澤さんは「藩内に自らの基盤がなかったため農民などを集めて、しがらみのない組織をつくろうとした」とみる。久留米藩は長州征伐に参加しており、奇兵隊の強さを身をもって知っていたと考えられるという。戊辰戦争で久留米藩の藩兵は新政府軍として旧幕府側の彰義隊の鎮圧に参戦した。応変隊はこの戦いに加わっていないが、発足間もない68年9月に若津港(大川市)を出て、翌年にかけて榎本武揚が率いる旧幕府軍との箱館戦争で激戦を繰り広げ、松前城や五稜郭の攻略に貢献した。華々しい戦果の一方で、地元久留米では応変隊への悪評が目立つ。高良大社の逸話もその一つ。応変隊は久留米城や高良山にあった藩主の御殿を警備したが、殺生が禁じられた放生池の魚を捕って食べ、神仏習合だった境内の仏像の首を切り落とした。「隊員の中には不逞の徒も交じっていて、勢いに任せて乱暴狼藉を働いたので後には蛇蝎のように嫌われ、かつ恐れられた」。久留米人物誌はそう伝える。混成部隊で規律や統制が取れていなかったのか。「血気盛んな若者たちが戦争がすぐに終わってしまい、やることがなくなったのでしょう」(小澤さん)
 市内の南薫地区には昭和40~50年代まで応変隊の屯所跡の建物が残っていたそうだ。小澤さんと周辺を歩くと鍵形の狭い路地が往時をしのばせる。屯所跡の近くには東芝創業者の一人として知られる田中久重(1799~1881)が応変隊と同時期に所長を務めた製鉄所跡の石碑が立つ。久重は開明派の今井に請われて佐賀藩から招かれ、当時は洋式銃をまねた鉄砲の製造に携わっていた。政権は代わっても今井の殖産興業政策は踏襲された。市史によると応変隊は1870年に解体。藩の常備隊に合併されるが過激な尊攘思想が藩の危機を招く。長州藩の兵制改革に反発して脱藩した奇兵隊幹部を応変隊がかくまい新政府打倒を画策したため新政府が官軍を派遣する久留米藩難事件に発展した。藩主(知事)は謹慎、事件関係者の他に水野も捕らわれ青森で獄死。水野は支持基盤だった尊攘派に権力の座を追われた形だ。小澤さんは「新政府と尊攘派との間で板挟みになり尊攘派を抑えることができなかったのではないか」と推測する。一連の騒動は急速な中央集権化や開明的な改革を進める新政府への反発を強め後に九州で頻発する士族の反乱や西南戦争へとつながっていく。(2018/03/02付 西日本新聞朝刊)

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