歴史散歩 Vol.128

ちょっと寄り道(奈良3)

奈良歴史散歩最終日(3日目)です。まず「ホテル尾花」と「ならまち」周辺を紹介し興福寺「宝物館」と奈良国立博物館「正倉院展」を見学します。最後にちょっと意外な現代を感じさせる近鉄奈良線とその周辺の歴史を表現してみました。
 参考文献:中野重宏「奈良の尾花座・百年物語」新版古寺巡礼「興福寺」淡交社、司馬遼太郎「街道をゆく24」朝日文庫、奈良国立博物館「正倉院展公式図録」、日本史ブックレット「正倉院宝物の世界」山川出版社、「奈良県の歴史」山川出版社、平岡昭利編「地図で読む100年近畿1」古今書店、寺本光照「こんなに面白い!近鉄電車100年」交通新聞社新書。

3日目の朝だ。けっこうな距離を歩き続けているからか、ぐっすり良く眠れた。
 地下の食堂で朝食をとる。通路に「ホテル尾花」の歴史を示す絵画・写真・説明がパネルとして展示されている。入口の上部に「尾花座」という芝居小屋時代の扁額が掛けられている。フロントで「尾花座」の歴史につき質問したところ、売店で先代社長・中野重宏氏が執筆された「奈良の尾花座・百年物語」を販売していると教えてもらった。即、購入。この地は明治時代に芝居小屋「尾花座」であり大正9年以降は映画館「尾花劇場」となった。テレビ普及に伴い重宏氏は昭和54年に尾花劇場を閉鎖し跡地にて昭和56年「ホテルサンルート奈良」を開設した。2011年に娘聖子氏が経営を引き継ぐ。聖子氏は2020年(尾花劇場オープンから100年目)サンルートホテルチェーンとの契約が終了することを契機に改名を決意し、屋号を「ホテル尾花」とされた。確かに「サンルート」より歴史を感じさせる「尾花」のほうがずっと良い。
 「百年物語」によれば中野重宏さんは昭和3(1928)年、大阪の生まれ。奈良に移られ、奈良女子大学附属幼稚園・附属小学校・奈良中学(今の奈良高校)旧制第六高等学校に進学された。皇紀2600年(昭和15年)の橿原神宮への勤労奉仕や愛知県の軍需工場への学徒動員(ゼロ戦等に搭載する20ミリ機関砲を製造)戦後の厳しい時代にまで言及がある。父親は奈良市会議員を25年間(昭和42年まで)歴任された。印象的だったのは奈良にとっての明治42(1909)年の意義である。市内に寧楽座・中井座が新築され、尾花座も改築された。同年、尾花座から見上げる位置に奈良ホテルが開業した。奈良女子高等師範学校がスタートし、転害門の北の坂には奈良刑務所(明治の5大監獄の1つ)も開設されている(現在、刑務所機能は終了したが建物は残っている)。当然ながら映画に関する記載が多い。戦時中に映画が戦意高揚に利用されたこと(特に「ハワイ・マレー沖海戦」)アメリカ映画は禁止されたがドイツ映画は上映できたこと(特に「民族の祭典」)松竹「愛染かつら」に観客が殺到したこと等の描写が印象的である。私が驚いたのは重宏氏は昭和24年に大阪大学へ入学するのだが、父が市会議員になり家業の仕事を出来なくなったために大学在学中から映画館経営をしていたことだ。凄い。重宏氏が映画からホテルへ転換を図ったのはテレビの普及に加え昭和52年に奈良市役所が平城京跡近くの現在地(もと三笠中学校)へ移転し商業環境が変化したこと・消防法によるスプリンクラー設置義務とトイレ浄化装置取付義務など難題が多かったことによるものだ。氏によると、採算上、ホテルは5階建て120室を確保したかったのだが風致地区内に課せられる高さ15mの制限により4階建てしか建てられず95室でスタートせざるを得なかったという。このホテルに初めて来た私は最初「良い立地だ」と感じたのだが、著書を読んで「良い立地であるが故の苦労もあるのだ」と思い知らされた。

食事後、ならまちを散歩する。寺社があり、その門前に芝居小屋があり、目の前に水(池)があるという風景は日本の多くの盛り場に共通の特性である。こういった盛り場にはほぼ例外なく花街がある。奈良の花街は元林院町という。興福寺の別院「元林院」があった地として名付けられたものである。明治5年にこの地で多く商売していた私娼を廃し「芸娼同率」の遊廓を設置したのが始まりという。明治24年に「娼妓」は木辻に移され元林院は純然たる「芸妓」の花街となった。大いに繁盛したため明治44年に元林院検番(元検)が設立され、さらに大正12年に奈良検番株式会社(新検)が設立されて2つの検番が両立することになった。それだけ客が多く入ったことを意味している。「全国花街めぐり」なる本によると昭和2年の規模は元検に属する芸妓135名、新検に属する芸妓57名であったとされる。一時、元林院の花街は廃れていたが現在は「花街復興プロジェクト」なる企画が立ち上がっており復活の兆しが見える(ただコロナ禍によって飲食業全体が厳しい時代であるので前途は多難である)。他方「娼妓」遊廓である木辻は養老2年に元興寺建立に際して工人らの足止め策として遊女を置いたのが始まりとされる。「全国遊郭案内」なる本によると、昭和5年調査では貸座敷が38あつて娼妓は318人もいたという。現在、まちの南端にある木辻の街並みを歩いても往時の雰囲気は全く感じられないが「静観荘」という旅館の玄関に当時の遊郭の名残がある(宿泊希望の方がおられれば関根虎洸「遊郭に泊まる」新潮社86頁以下を参照)。静観荘のすぐ南に称念寺がある。この寺は亡くなった遊女を引き取る引導寺であり(東京・三ノ輪の「浄閑寺」に匹敵する)本堂前に「無縁塔」が設けられている。これは浄閑寺の「新吉原総霊塔」に匹敵する。(2015年12月4日「都電歴史散歩」を参照)。ご冥福を祈り合掌。

午前8時半。チェックアウトを済ませフロントに荷物を預けて出発する。
 五十段階段を上がり三条通りに出る。南大門から入り、本来の信仰的視線を感じながら興福寺国宝館に入る。月曜日の朝ということもあって観光客が少ない。ゆっくり鑑賞するにはベストである。廃仏毀釈の嵐を潜り抜けたスター仏像たちがステージを埋め尽くしている。数年前、私は九州国立博物館で行われた「国宝阿修羅像展」を観に行った。他にも多くの仏像があるのに主催者は阿修羅像だけ表題に掲げていた。もの凄い人出であった。阿修羅像を観るために何万人もの人が足を運ぶのである。こんな仏像他には無い(匹敵するものを探すとしたら京都広隆寺の弥勒菩薩像くらいであろうか)。阿修羅像は興福寺にとって巨万の富をもたらす「宝物」なのだが、明治初期の写真を観ると(廃仏毀釈の嵐の中で)これらのスター仏像はほこりをかぶっており、今とは天と地ほどの扱いの違いがあったことが判る。私は、建替えされる前の旧国宝館においてこれらのスター仏像を真近で拝見したことがある。薄暗い狭苦しい室内で拝見した金剛力士像・天燈鬼龍燈鬼・千手観音菩薩・旧山田寺仏頭・十大弟子・八部衆(阿修羅像はその1つ)は自分にとって「作品」というよりも宗教的感受性を感じられる「仏具」だった。それを造った仏師たちの息遣いが感じられる祈りの対象であった。そのときの新鮮な驚きに比べると、美しく・広くなった現代の国宝館で拝見するスター仏像たちは、何故か遠くなったような感じを受ける。音楽にたとえて言うと(メロディーは変わらないが)アレンジが違うのだ。「仏具」としての展示ではなく「芸術作品」としての展示。キリスト教布教のため生み出されてきた西洋音楽が宗教的な背景を削除され(教会ではなく)コンサート会場の中で演奏されるのと似ていると表現できる。これも時代の流れなのであろうか?

私が所持しているのは午前11時入場指定「正倉院展」のチケットだ。まだ時間がある。猿沢池の横に最近できたスターバックス(天平ホテル跡)に入り珈琲を飲みながら本を読む。ゆったりとした良い時間である(幸福時)。午前10時40分スタバを出て奈良国立博物館に向かう。既に長蛇の列ができている。少し正倉院と宝物公開の意義について考えてみよう。正倉院は本来は一般名詞である。「正倉」とは元来「正税を収める倉」の意であり律令時代に各地から上納された米穀や調布などを保管するため大蔵省をはじめとする役所に設けられた施設のことだった。南都七大寺には各々に正倉院が存在した。が、歳月の経過で廃絶して東大寺正倉院内の正倉1棟だけが残ったため「正倉院」は東大寺正倉院宝庫を指す固有名詞と化している。天平勝宝8(756)年6月21日、光明皇太后は聖武太上天皇七七忌(49日)に際して、天皇遺愛の品を東大寺廬舎那仏(大仏)に奉献した。光明皇太后はその後3度にわたり自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これら献納品が正倉院に納められた。献納品目録である東大寺献物帳も正倉院に保管されている。これらが1264年もの時を経て現代まで残されているのである!もちろん長い時間の中で正倉院も何度か盗難に遭っている。公式図録の正倉院年表によると長暦2(1038)年や寛喜2(1230)年に盗人が入り、宝物が盗まれていることが判っている。したがって宝物が全て残されている訳ではないが、賊に狙われやすい宝物が1200年以上もの時を経ても、これだけ残されているのが奇跡なのである。正倉院の宝物は当然ながら通常非公開であるが明治8年から13年まで奈良博覧会のため大仏殿回廊で一部が公開された。明治22年から昭和15年までは正倉院内に陳列棚を設け曝涼(「虫干し」のこと)の際に限られた人々に拝観を許していた。最初の一般公開は昭和15年に皇紀2600年記念として東京帝室博物館で開催された「正倉院御物特別展」である。戦後は奈良国立博物館で「正倉院御物特別拝観」が開催され、これらを契機として、翌年以降、秋の曝涼にあわせて正倉院展が開催されるようになった。今年は72回目である。正倉院宝物は約9000点にも上る。公開される宝物の品目は毎年変更されており、収蔵品のごく一部である。開催のたびに学芸員が手作業で点検と陳列を行っているが、そのためにも前後約40日間ほどの時間を必要とするため、一般公開される期間は約2週間程度と短い。今年は楽器・伎楽面、遊戯具・調度品、佩飾品・染織品・文書・経巻などが出陳されていたが武具と薬物がまとまって出陳されているのが特徴的だった。薬物は光明皇后が病人に分け与えるために東大寺に献納したものを中心に6点が出陳された。光明皇后は今の病院に当たる施設(施薬院)を作るなど庶民の救済に尽力したと伝わる(先日紹介した法華寺の「風呂」もその1つである)。今回展示されている薬物の献納もその一環のようだ。コロナ禍で酷い目に遭っている現代社会の視線で観ても1264年前に献じられた宝物に薬があったことは印象深い。聖武天皇が仏教への帰依を強めた背景には「感染症(天然痘)の流行」がある。当時の国家観において疾病の蔓延は「国家の病気である」と認識されていたのである。病気に対して何らの実効性ある対処も出来ないことは統治権力の正当性を疑わしめることになった(これは洋の東西を問わない・西洋中世史の終焉はペストに対する教会の無力さの露呈に起因する)。展示物の中で私が一番面白かったのは「古文書」だ。特に周防国長門国の正税帳や遠江国輸租帳が目を引いた。正税帳とは国司が毎年作成して太政官に提出する財政決算報告書、輸租帳とは公民が口分田を受ける見返りに収穫物の一部(3~5%程度)を国に納める際の文書である。奈良時代の律令国家体制が現実に機能していたことを示す重要な書証である。学生は教科書で「律令体制」や「班田収授」や「租庸調」といった言葉を学ばせられるが、実際に地方と奈良の都が「どういう文書で結ばれていたか」を直接に知る機会は普通ない。これらの古文書は古代国家の具体的なシステムを知るための貴重な史料である。
 ミュージアムショップで買い物をする。正倉院展関連書籍と事務所待合室に飾る小物(五弦琵琶と鹿のストラップ)と洒落た手提げバッグを購入した。ショップ隣のレストランで昼食をとる(生ビールと中華ちまきと醤油ラーメン)。とても美味しい。至福の時である。神様仏様に感謝。

「ホテル尾花」に戻り荷物を受け取って帰路に付く。今では親しい感じがする南都銀行本店を右折し、東向け商店街を抜けると直ぐ左に近鉄奈良駅がある。街の構造を把握した後の奈良からの帰路はJRではなく近鉄線を使うのが良いと私は考えている。地下ホームを出た電車は昨日歩いたばかりの平城京跡史跡公園を斜めに横切る。ここが近鉄線第1の絶景だ。「奈良時代に日本の中心だったところを電車に乗ったまま踏み越えるのは不遜である」と主張する人が「地下鉄化」を叫んでいるのだが、前回も述べたように私は反対である。電車に乗ったままで1300年前の奈良をテーマにした公園を通り抜けられることのほうが凄いことなのだ。「近鉄踏切よ、永遠に。」大和西大寺駅で下車。目的は駅近くにあるジュンク堂書店西大寺店である。歴史書のコーナーを拝見する。率直な感想を言えば、豊富な在庫を誇るジュンク堂書店の奈良店にしては「地元奈良の歴史書の品揃えが今1つ」と感じてしまう。品定めをして若干の書籍を購入した。帰宅後にフェイスブック友のОさん(西大寺店のオープン準備を数日間手伝ったとのこと)に伺ったところでは「書店はオープン準備の際に各ジャンルのベテラン社員が棚入れ応援に行くのでオープン時の棚が一番良い状態であり、半年も経つと見る影もない状態になる」ということなのであった(涙)。アマゾンを筆頭とするネット書店の悪影響はここ奈良にも及んでいるのだ。「全国の読書人の皆さま、リアル書店で本を買おう。」

近鉄線に乗り「学園前駅」で下車。ここが近鉄線第2のポイントだ。この駅は昭和17年に開設された。開設当時は山間地にある無人駅に過ぎなかった。ところが1950年代に大規模な宅地造成が始まり周辺環境は一変する。南側(1952~60)の開発に続き北側(1957~59)の開発も実施され、百楽園・鶴舞東・西・登美ヶ丘・学園大和町など近鉄による「大阪通勤圏内の高級住宅地」が多数作られた。この波は高度成長の中で周辺地区へ拡大し1971年から木津精華街(京都府)にまたがる「平城ニュータウン」が造成されて現在に至っている。
 近鉄が誇る高級住宅地であるこの地域は地価が高いため、富裕層が多く進学熱も高いという。現在、奈良市の人口の約3分の1は駅南「奈良市役所西部出張所」管区に居住しているとされている。それは同時に現代奈良の「大阪に対する依存度の高さ」を表象する。これ即ち「近鉄奈良線への依存度の高さ」でもある。データ的にも近鉄奈良線利用者のほうがJR大和路線利用者より圧倒的に多いそうだ(ある統計で近鉄利用者はJR利用者の約10倍とされる)。私たち観光客は奈良に対し過去を求めてしまうが現在を生きている奈良市民にとって歴史は「観光の材料」(地域資源)でしかない。歴史目線に立つと奈良には飛鳥宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京と続く南北のラインを意識する。が地域住民の生活目線は東西のラインにある。東西と言っても奈良時代の「東向き」ではなく大阪を意識した「西向き」の視線なのだ。その象徴が「学園前駅」なのである。この駅ができた昭和17年頃、奈良は昭和15年(皇紀2600年)後の「官製旅行ブーム」であった。背景にあったのが皇国史観だ。旅行会社は聖蹟を巡る旅行をあおった。このブームで潤ったのが「神武天皇伝説」に沸く宮崎と奈良である(2019年5月2日「宮崎歴史散歩」参照)。昭和15年の橿原神宮への参拝者は延べ971万5000人、来県者は819万人に達したという。国家が煽る旅行の意味を私たちは意識する必要がある。今回の時期も政府が膨大な予算をかけて旅行を煽っていたが私は白々しい感じを受ける。「昔の中央集権国家の光と影」を考察することにより「今の中央集権国家の光と影」を認識することこそ現在を生きる我々が歴史を学ぶ真の意義なのであろう。

学園前駅から再び近鉄に乗る。奈良市に別れを告げ生駒市に入る。生駒といえば何と言っても「生駒トンネル」である。そもそも何故に旧国鉄は直線距離で25キロしかない大阪奈良を曲線ルートで(南の「天王寺奈良」で37・5キロ、北の「片町奈良」に至っては52・4キロもある)線路を引いたのであろうか?それは生駒山地があったからだ。明治初年の鉄道技術では生駒山地を貫通する直線ルートで蒸気機関車を走らせることは不可能だったのである。近鉄の前身である大阪電気軌道(大軌)はこの壁を打ち破った。大正3年のことである。中核にあったのが生駒トンネルだ。長さは3388メートル。当時、複線でこれほど長大なトンネルは日本の何処にも無かった。当然ながら完成には多大の時間と費用と労力を必要とした。もちろんトンネルだけでは駄目である。大阪側から生駒山地を登る際の35・7パーミルは列車にとって極めて大きい斜度であり、上り・下りの対策が要る。上記斜度自体が石切と瓢箪山の間を東西(斜面に直角に)ではなく南北(斜面に横方向に)に線路が引かれた成果である。それでも従来型電車では急傾斜を登ることが出来なかった。そこで大軌は高出力モーターを備えた最新鋭電車「デボ1型」を導入した。逆に下りに関しては連続的急勾配に備えるために電気制動と大軌式特殊外輪装置が必要であった(これらの特殊な装置がないと列車はジェットコースター状態になり極めて危険なのだ)。こういった努力によって電車通行が可能となり大阪奈良が最短距離で結ばれることになったのである。明治時代に「大阪からの独立」により自己の政治的生命線を得た奈良は大正時代に「大阪との接続」によって自己の経済的生命線を得たのだ。こうして大阪と最短で繋がった奈良は昭和30年代、高度成長の波に乗って急激な人口増加に直面した。旧生駒トンネルでは増大する鉄道需要に応えられなかった。旧生駒トンネルは小径であるため大型車の走行が不可能だったからである。そこで輸送力増強のため大型車が走行出来る新ルート開発の必要性が叫ばれた。こうして建設されたのが「新生駒トンネル」だ。このルート切り替えによって、昭和39年10月1日、奈良線全線で大型車両の運転が可能となった。学園前駅を象徴とする「大阪の高級住宅都市としての現代奈良」が誕生したのである。
 新生駒トンネルを抜けた列車は石切駅を過ぎてから先頭を大きく左(南)に切り少しずつ高度を下げてゆく。列車右手に大阪平野の素晴らしい大パノラマが広がる。それは夢の如き奈良の3日間から私が現実に戻る時間でもあった。私の奈良の旅はこうして幕を閉じた。(終)

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