歴史散歩 Vol.120

ちょっと寄り道(渋谷)

* この「渋谷歴史散歩」は2013年10月15日にアップしたものですが相当の時間が経過し現在の状況に合わない記載が目立つようになりました。武田尚子「近代東京の地政学・青山渋谷表参道の開発と軍用地」(吉川弘文館)「重ね地図シリーズ・東京・マッカーサーの時代」(光村推古書院)など重要な著作も発刊されています。そこで状況変化をふまえて改訂しました。

私は司試受験生時代にデパート「高島屋」の配送助手の仕事をした。松涛・青山・赤坂・広尾・麻布・白金の周辺を廻っていた。普通なら絶対に入れない高級居宅に入り込んで東京の富裕層の生活を見分したことは貴重な経験だった。今般、仕事で東京に行く機会があったので延泊して渋谷を中心に散歩してみた。(参考文献・上山和雄「歴史の中の渋谷」雄山閣、館野充彦「山手線29駅ぶらり路地裏散歩」学研、秋尾沙戸子「ワシントンハイツ」新潮社、竹内正浩「地図と愉しむ東京歴史散歩地形篇」中公新書、皆川典久「東京『スリバチ』地形散歩」洋泉社、月刊「地図中心」521号日本地図センター、三好好三「渋谷の今昔アルバム」彩流社)

渋谷は文字通り「谷」の街である。何処に行くにも坂を上る。私が泊まったエクセル東急ホテルはバス発着所が5階に設けられていた。帰る際はここから空港行のバスに乗ったが道玄坂に出るとき上下差を感じなかった。それだけ駅周辺と坂上には標高差がある。渋谷駅は明治18(1885)年に山手線の前身である日本鉄道(品川・赤羽線)の開設により誕生した。当初、路線は道玄坂上を予定されたのだが、沿線住民の激烈な反対運動に遭遇したため、当時は人があまり住んでいなかった渋谷川沿いの雑種地が選ばれた。その頃の鉄道は煤煙を撒き散らす蒸気機関車が通る迷惑施設だったからである。駅とは「街の外れ」に作られるものだった。街の真中で「人の動きをさばくネットワークの核」と駅が認識されるようになるのは電化が進んだ後のことである。
 もともと渋谷は「東京」ではなかった。豊多摩郡渋谷と世々幡と千駄ヶ谷の3つが東京市に編入された(大東京の成立)のは昭和7(1932)年であり、特別区(渋谷区)として指定されたのは昭和22年のことである。「東京を代表する街・渋谷」という感覚は比較的新しいものなのだ。渋谷が現在に繋がる繁栄を誇るようになったのは駅東側に東急文化会館(現ヒカリエ)が出来た1950年台以降のことだ。東急は1967年に渋谷駅から離れた坂上に東急本店を開店した。背後に松涛を控える高級感で街の雰囲気が変わった。翌年、代々木公園に向かう坂に西武が出店する。1973年にパルコが出店し「すれちがう人が美しい・渋谷・公園通り」なるコピーで一世を風靡した(ちなみに「パルコ」とは公園を意味するスペイン語である)。
 東急東横店東館には地下階が無かった。建物が渋谷川を跨いで建てられていたからだ。山手線と渋谷川に挟まれた渋谷駅に隣接して百貨店を建てる際、東急は必要な敷地を確保できなかった。そのために東急は川を跨いで建物を建てたのである。上山は「法律上、公共用地である河川の上部には橋以外の建築物は建てられないが、ここでは例外的に認められたのだろうか。詳細は不明だが運輸通信大臣も勤めた東急グループの五島慶太氏の政治力が働いたのだろうか」と推測している。
 渋谷駅前のシンボルがハチ公の銅像である。東大農学部が駒場にあった頃、上野栄三郎教授は飼う犬を「ハチ」と名づけて可愛がった。学生は「ハチ公」と尊称で呼んだ。1925年に上野教授が亡くなっても主の帰りを待つハチの姿が渋谷駅頭で見られることから1932年に朝日新聞が「いとしや老犬物語・今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間」という見出しで大きく取り上げた。人々の感動を呼び、2年後の1934年に銅像が建立された(製作・安藤照)。ハチ自身が除幕式に参列した。翌1935年(昭和10年)にハチは死んだ。日本一有名なこの犬の剥製は国立博物館に保存され遺骨は青山墓地(上野教授の墓)に埋葬された。当時の軍国主義の嵐の中でハチは「忠犬美談」に仕立てられるが、ハチにとって本意ではなかっただろう。この銅像は戦時中の金属供出で潰され、戦後に再建されたものである。(上野教授と一緒の銅像につき「本郷」参照)。
 駅前のスクランブル交差点は今や世界的に著名である。信号が変わるたびに無数の人が秩序だって交差する様は「この世のものならぬ雰囲気」を私に感じさせる。若者が集うセンター街にはその名の通り「宇田川」という川があった。谷底にある渋谷川に合流し、この地域は豪雨の度に水害が発生していた。そのため昭和4年頃から渋谷川下流の治水工事が進められた。昭和10年代には渋谷駅周辺の繁華街を形成する飲食店・カフェなどが並びだし歓楽街として人気を集めた。昭和30年頃から区画整理事業が駅前一帯で始まり、歓楽街も近代化され「宇田川有楽街」として新宿歌舞伎町と並び称されるようになった。昭和36年頃から街に若者の姿が目立つようになり、バーやキャバレーに代わり若者向け飲食店が増え出した。昭和48年にアーチの建設・街路灯の設置・街路のタイル塗装などハード面の充実に努め現在に至る。
 「渋谷109」は、セゾングループの渋谷公園通り開発に対抗し、東急グループが本店通り(文化村通り)に顧客を吸引するために旧「東急商業開発」(当時の社名はティー・エム・ディー)が1979年(昭和54年)に渋谷区道玄坂二丁目の道玄坂下交差点に面した角地(三角地帯)にオープンさせた店舗だ。 店内の多くが10代後半から20代前半の女性向けのテナントで占められる。鋭角立地を活かした円柱形のエレベーター・タワーが特徴のビル設計者は竹山実。アルミパネルで覆われた壁面はスクランブル交差点から容易に見通せるため、化粧品・携帯電話・旬の歌手等の広告が掲げられ最先端の商業戦略を伺うことができる広告塔である。戦後この三角地帯は台湾人によって事実上占領され、日本の統治権力の及ばない「租界」的色彩を帯びていた。台湾人らは道玄坂下付近を中国租界とする計画を立て昭和21年に凱旋門を建設。警視庁は撤去を命じたが台湾人は拒否。逆に道路の検問所を設けて通行人の検問を始めた。これに対抗するため同年7月19日、渋谷警察署と落合一家の連合軍は台湾人28人を逮捕し、拳銃3丁を押収した(いわゆる「渋谷事件」)。当時の警察は単独で対処する実力を有していなかったのだ。昭和24年、露天商整理勧告がなされ昭和32年に地下街が整備されるのを機に駅前から露店が消滅した。
 道玄坂を登る。右に曲がると百軒店。「道頓堀劇場」(老舗ストリップ劇場)を超えて更に上ると名曲喫茶「ライオン」(1926年創業)がある。席に座ると曲名が印刷されたプログラムが置かれる。なじみ客ばかりのようだ。立派な音響装置。若い人には名曲喫茶という概念自体が判らないかも。百軒店を開発したのは堤康次郎を社長とする箱根土地株式会社。大正12年に目白文化村・大正15年に国立学園都市という大規模な土地開発をてがけていた同社は巨額の資金を回しながら渋谷にも力を注いでいた。この百軒店は関東大震災の後「平面的デパートメント」として売り込まれたものだが昭和9年に東急が渋谷駅に隣接して百貨店を開店させている。時代は既に「立体的デパートメント」に移っていた。駅に隣接したデパートという発想は阪急の小林一三が昭和4年に梅田阪急百貨店を開設したのが最初だ。従来の呉服店発祥のデパートとは違う系列である(小林一三が東京における田園都市開発の要として育てたのが後に東急グループ総帥となる五島慶太だ)。
 百軒店を抜けると円山町。昔は格式のある花街だった。今はラブホテル街だが昔を偲ばせる料亭「三長」がある。横に道玄坂地蔵尊があり所縁を感じさせる。私は昔の花街の建物で酒を飲むのが趣味だ(名古屋中村の稲本・京都島原の輪違屋・大阪飛田の百番・長崎丸山の花月など)。いつか「三長」で一杯飲みたいものだ。昭和41年発行「新修渋谷区史」はこう記している。「道玄坂上の花街がわずかに焼け残っていた事実は連合軍の進駐当時に於ける本区内の治安上に重要な役割を果たす結果となった。すなわち本区内にあっては厚木周辺のごとき不祥事を見ることが無かったが、これは彼らの進駐と同時に円山の花街がその慰安所に指定され、当時の芸妓が身をもって一般婦女子の防波堤となっていたからである。」(秋尾198頁)
 円山を下ると神泉の低地になる。ここは弘法大師の湯が出たという故事にちなんで付けられた地名らしい。駅近くのコンビニの前には由来を記した石碑(明治19年建立)が残されている。井の頭線の渋谷駅と神泉駅の間は当初は切り通し工法の予定であったのだが、この工法だと丸山花街の土地を買収しなければならず莫大な出費が予想されたので、浅いトンネル式となったそうである。浅いトンネルを通り抜けた先で井の頭線は地上2階に出る。このことで駅付近の低さが際立つ。
 神泉を通り過ぎ再び坂を上ると都内有数の高級住宅地である松涛である。渋谷駅から徒歩15分前後の地域にはいくつもの高級住宅地がある(松涛・南平台・代官山・東・常盤松等)。この点が新宿や池袋などとは最も異なるところである。東京近郊の宅地は時計進行方向に地価が下がり、東横線や田園都市線沿線住民の平均所得が最も高いといわれている。渋谷は豊かな郊外住民を後背地に持ち、徒歩圏に裕福な階層を抱えている(「歴史の中の渋谷」の叙述)。狭い範囲の地域内に「猥雑さ」と「高級感」を併せ持っているのが渋谷特有の面白いところなのだ。
 NHK前に渋谷税務署がある。昔は刑務所があったところだ。226事件の青年将校たちはこの地で処刑された。今は慰霊碑が建てられ事実が簡潔に記されている。
 NHK西側の崖は急である。奥のほうは城壁のように感じられる。この中が昭和38年まで占領米軍将校住居(ワシントンハイツ)であった。原宿駅南側には表参道から直進し代々木公園を貫通する広い道路があるが、かつてこの道路に日本人は入れなかったのである。NHKが渋谷に進出したのはオリンピック中継のためだった。千代田区内幸町の放送会館が狭くて主競技場から遠かったためNHKは米軍に接収されていた青山公園の一部解除を昭和36年に申請した。しかし、それも手狭だったためワシントンハイツが全面返還されることが確定した昭和37年8月にテレビラジオの一元化を目指し、ハイツ跡地に一大放送センターの建設を意図して国と都に3万坪の払い下げを求めたのだという。代々木公園の中を歩く。ワシントンハイツ時代の遺構は見当たらない。が、1件だけ小型住居が「オリンピック選手宿舎」として保存されていた。この建物は元は米軍将校の住居として建てられたものだそうだ(ただし説明版には何も書かれていない)。代々木公園の現況からワシントンハイツの面影を感じ取るのは難しい作業である。1日目はこれで散歩終了。

2日目は早朝の明治神宮から。原宿駅を降りると直ぐに神宮入口。広大な鎮守の森が広がる。この「森」は江戸時代から存在するものではない。明治天皇をカミとして奉るために大正4年から造営された人工的構築物である。造営に当たって中心的役割を果たしたのが日本の造林学・造園学の基礎を築いた本多静六博士。博士は針葉樹林を希望した当時の首相大隈重信の反対を上手くかわして現在に通じる大広葉樹林を育て上げた。100年後を見据えた博士の慧眼が現在の鎮守の森を作り上げたのである。江戸の宗教ラインは「江戸城」を中心とし鬼門の「寛永寺」裏鬼門の「増上寺」を結ぶ線上に形成された。延長線上に日光の「東照宮」および「富士山」がイメージされていた。これに対し東京の宗教ラインは「皇居」と「明治神宮」の広大な鎮守の森を中心として形成され、その延長線上遙か遠くに「伊勢神宮」がイメージされていた。明治天皇がカミとして観念された当時の感覚は現代では遠い記憶だ。飛鳥時代における白村江の対外的危機感を乗り切った天武天皇がカミとしてイメージされたように、幕末の対外的危機を明治天皇をカミとして乗り切った日本人にとって東京を明治天皇を中心とした宗教都市に作り変えることは大正時代最大の国家プロジェクトだった。
 東京空襲は昭和20年3月10日下町空襲が知られているが、5月25日山の手空襲はその約2倍の規模で行われたという。使用されたB29は470機。主たる攻撃対象は明治神宮であった。キリスト教に立脚する原理主義国家アメリカは異教のカミを攻撃することに尋常ならざるエネルギーを費やしたのである。非軍事施設に対するこの攻撃には米軍の戦後占領への布石が感じられる。戦後、表参道がハイカラな通りになったのはワシントンハイツのためである。その意味で原宿は東京都心におけるヨコタ・ミサワ・ヨコスカ・サセボと言える。占領軍を憎しみの対象ではなく憧憬の対象とするところが日本人の不思議なところである。
 原宿駅前に戻る。現在の駅舎は大正13年(1924)に竣工した木造建築。都内に現存する木造駅舎で最も古いとされる。二階建て尖塔付きの屋根に白い外壁という、イギリス調のデザイン。多くの人から愛されている。山手線を跨いで表参道と神宮を結ぶ「神宮橋」は明治神宮が創建された大正9年に架橋され60年余に亘って使われたのだが、老朽化により昭和57年に今の橋が再架橋されたものである。その直ぐ脇には「五輪橋」というオリンピックを記念して架けられた橋がある。オリンピックをモチーフにしたレリーフが付けられている。この辺りは昭和末期に「竹の子族」という踊る人たちで賑わっていたのだが今はそんな人はいない。表参道には欅の木がたくさん植えられている。もともと明治神宮への参道として大正時代に植林されたものだ。山の手空襲で焼失しているため多くは2代目である。戦後、表参道にはワシントンハイツに住む高級軍人家族御用達の店が多く創られた。その代表格が「キデイランド」(玩具店)と「オリエンタルバザール」(東洋風土産店)である。
 表参道は渋谷川を横切っているので道路はいったん下がって再び上がる。一番低い地点に橋の痕跡が残されている。このあたりは「隠田」という地名だそうで、かつて葛飾北斎が水車小屋を前景にした富士の絵を描いたところだ(富嶽三十六景「隠田の水車」)。ブラームスの小路やキャットストリートは全て暗渠であり、川の残骸である。東京はこういう川の残骸が無数に潜んでいるらしい(興味がある方は本田創「東京「暗渠」散歩」洋泉社を参照されたし)。ちなみに童謡「春の小川」は高野辰之が渋谷川を念頭に作詞したものである(代々木八幡駅近くに歌碑が設置)。明治末期の頃は渋谷付近でも小川の岸にすみれやれんげの花が咲き乱れていたのだ。
 昔、神宮を背に左の通りに同潤会アパートがあった。現在は「表参道ヒルズ」という高級店舗ビルになっている。「建物をケヤキより高くしない」という原宿の暗黙ルールにもとづき表参道ヒルズは低く構えた創りになっている。その分、地下3階まで店舗が詰まっている。
 表参道交差点に出る。交差点には現在も石灯籠が設置されており表参道の基点を示し続けている。交差するのは青山通り(古名・大山街道)。青山通りは江戸時代初期から存在する古道だ。他方、表参道は大正9年に造営された極めて新しい道である。大山街道の起点である赤坂御門の宮城側には陸軍省や参謀本部が存在し、そこから青山・渋谷・世田谷を経て二子玉川に至る区間には青山錬兵場や駒沢練兵場、騎兵や砲兵の兵営が街道に沿って配置されていた。近代の大山街道は「軍道」としての意味が強かったのである。青山通りを北に行くと幕府の鉄砲隊が控え、その先には火薬庫があった。この火薬庫が明治時代に青山錬兵場となり現在は「神宮外苑」と呼ばれている。ここに国立競技場が存在する。昭和39(1964)年オリンピックの舞台となったところである。2020年同じ場所でオリンピックが開かれることになっている。幕府が形成し陸軍が承継した「尚武」の地は近代スポーツにおける「勝負」の地となった(@武田尚子)。駒沢練兵場もオリンピックの重要な舞台となった。両者の重なりは偶然ではない。青山錬兵場跡に作られた神宮競技場で昭和18年10月21日「学徒出陣」式が執り行われたのも偶然ではない。
 そもそも何故に表参道は作られたのであろうか?現在の代々木公園はかつて代々木練兵場であった。青山錬兵場と代々木錬兵場を結ぶルートは(明治時代は)宮益坂を下って渋谷に出て坂を上るコースであった。表参道はこの迂遠なルートを結ぶために「地形的に最も有利なルート」を探して大正9年に設営されたのである。表参道は「参道」であるとともに「軍道」としての意味もあったのだ。表参道で最も標高が高いのは起点である交差点で海抜35メートル、谷底であるキャットストリート付近は同20メートル。建設の際は谷底である渋谷川(穏田川)に向けて一定の斜度で道路が造られたため、切り通しなどが諸所にあり、土留に石垣が用いられている。その痕跡は今もポール・スチュアート青山店店舗等に残されている。関心がある方は確認されたい。
 南青山の岡本太郎記念館を訪れる。狭い路地にあり案内板も無いため判りにくい場所にある。私にとって渋谷や青山の界隈は岡本太郎というイメージが強い(マークシティの「明日の神話」子どもの城のオブジェなど)。私が岡本に惹きつけられるのは絵画やオブジェもさることながら彼が残した言葉に寄るところが大きい。多くの言葉を残したゴッホと似ている。岡本太郎記念館では手提げバッグと太陽の塔をイメージしたシャツを購入した。岡本はオリンピックと並ぶ国家プロジェクト・大阪万博(1970・昭和45年)の立役者。万博会場跡地は公園となった。万博パビリオンは残っていないが「太陽の塔」は今も存在感を示し続けている。今になって凄さが判ってきた。
 青山通りに戻り青山学院大学を訪れた。日曜日なので人が少ない。私は大学に行くと学食に入ってラーメンを食べるのが趣味なのだ。が、この日は実践できなかった。残念無念。
 宮益坂を下って渋谷駅に戻る。宮益坂の下り方も結構な角度だ。これを体感するには青山方面から来る銀座線(日本最古の地下鉄)渋谷駅が地上3階部分に設けられていることを観れば良い。山手線の高架よりも地下鉄のホームが上にあるのだ。江戸時代は道玄坂より宮益坂のほうが賑わっていた。延亨2年の記録では道の両側に軒を並べている家が72件あった(道玄坂は道の北側にしか家はなくその数も21件)。宮益坂は南向きで明るい上に川の手前で休憩し一服しようという(大山街道を行く)旅人の心情に合致していた。遠方に富士山が明瞭に見えるので「富士見坂」とも言われていた。辺りには富士講が見受けられた(富士講とは富士山を崇拝し講の仲間が集団で参拝登山する一種の新興宗教である)。このDNAは現在の渋谷にも引き継がれており、駅前では多くの新興宗教の勧誘が行われていると聞く。人間の営みなんて昔も今もあまり変わっていないのだろう。(終)

* 渋谷駅は大改装中。東急東横店東館は既に取り壊されており、西館南館も近い将来に建て替え予定。銀座線渋谷駅も大きく場所が変更されており道路上に駅舎が設けられました。
 原宿駅も2020年3月21日に広々とした新駅舎に交代。旧駅舎は(国立駅のように)シンボル機能を持たせた再活用を計画と聞きますがどうなることか。

* 東急本店は1967年11月、駅から約500メートル離れた区立小学校跡地にオープン。松濤に近いので高級ブランド品をそろえた。若者の街・渋谷の中で顧客は50~70代が中心でした。2023年1月31日で閉店。跡地には地上36階地下4階建ての複合ビルが予定されています。

* NHKアーカイブズの記述。
>東京の都心にある明治神宮は1920年に創建されましたが、社殿を取り囲む広大な森は1915年から育林が始まり、神域として立ち入りが禁止されてきました。この森には、都市に広がる「人工の原生林」という興味深い特色があります。林学者の本多静六と弟子の本郷高徳、上原敬二が、荒れ地に植樹し、100年以上をかけてかつての鎮守の森のような「永久ニ荘厳神聖ナル林相」を創り出そうと考えたのです。この森の全貌を解明しようと、のべ140人もの植物学や動物学の研究者が集結し、初めて生物多様性の調査が行われました。一本一本の樹木まで測定する詳細な調査の結果、タヌキから生態系の頂点に立つオオタカ、絶滅危惧種のミナミメダカ、驚異の生態を持つ粘菌まで、3000種近い動植物が記録されました。番組はこの学術調査に密着、森の変遷と現状を描き出します。本多らの計画に対して時の首相・大隈重信は「明治神宮に藪のような森を作るのはまことによろしくない。ふさわしいのは、伊勢や日光のような、杉林であろう。杉にしたまえ」と反対したとか。

* NHK「いだてん」で五輪選手村を作る際の苦労が描かれました。内容が何処まで真実か良く判らないので秋尾沙戸子による以下の記事を引用します。
 ワシントンハイツが候補にならなかったのは「アメリカが簡単に手放すはずがない」と思い込んだためだ。米国防総省は市ヶ谷に米軍司令部を置くと決めていたし、赤坂には駐日米国大使館もある。双方から近いワシントンハイツはアクセスに便利だ。返還があるとすれば一部で、水泳などの室内競技場を作るのがせいぜい、と駐留軍と日本政府双方の見立ては一致していた。
 <1960年安保が与えた影響> ところが突然、アメリカ側が「ワシントンハイツを全面返還したい」と言ってきた。当然のように「80億円の移転費用は日本政府が負担せよ・中身を収容する移転先は日本政府が用意すべき・候補地としては米軍水耕農園がある府中・調布・三鷹がいい」という条件付きで。背景には前年に盛り上がった日米安保闘争があった。60年安保の担い手は戦争を知っている世代が中心だった。「岸信介総理が新安保条約締結を機にまた戦争を始めるのではないか」。若者を中心に反政府感情が高ぶった。そんな機運の中で「東京の中心にワシントンハイツがあるのは危険だ・反米感情を強めかねない」アメリカはそう判断したのだった。かくしてワシントンハイツは全面返還された。明治神宮の鳥居から山手通りへ向かう道路が日本人に開放されたのはこの時が初めてである。その道路を境に、まず南側半分をとり壊し渋谷区役所と渋谷公会堂(C.C.レモンホール)が建設され、後者は重量挙げの会場となった。それからNHK放送センター東館が建ち、奇抜なフォルムで話題を集めた丹下健三デザインの国立代々木競技場が姿を現した。

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