5者のコラム 「芸者」Vol.4

社会の共有の存在たる性格

昭和30年代のテレビジョン普及と新幹線開通まで日本の西と東では文化精神面は全く異なっていました。関東大震災以前まで遡れば尚更で花柳界のあり方も全く異なっていたのです(岩下尚史「芸者論」雄山閣120頁)。昭和33年以前の関西では芸子(げいこ)と娼妓の併設されたところも多く双方を兼ねることを許可された芸娼妓の数も多かったのですが、東京では吉原や須崎という併設地でも芸者と娼妓は厳しく区別されていました。上方では芸子舞子は花代に対して律儀に座敷を勤めることが基本で拘束時間は客の側を離れないのが原則でした。しかし江戸ではよその座敷から口がかかれば客に許しを得てそちらへ行っても良い慣習になっていました。これは上方では芸子は客にとっての「一夜妻」として認識されていたのに対し江戸の花魁は客達の「共有の存在」と認識されていたからです。共有の存在といっても花魁は嫌な客を「拒否することが出来る」という仕組でバランスが保たれており、このことを理解できない客は「野暮な客だ」と陰口を利かれていたのです。
 加藤新太郎「弁護士役割論」(弘文堂)に次の指摘があります。

弁護士には①当事者の代理人としての役割と②公益的役割の2つの性格がある。弁護士法3条1項と同1条1項がこれに対応する。両者は①の限界を画するものが②と位置づけられる。弁護士は依頼者との信頼関係に基づく善管注意義務に基づき最大限の努力を傾注して依頼者の権利実現または権利擁護に邁進することになるが、そのために社会正義その他の規範に違反しまたは公益ないし公的価値に抵触することは許容されない(6頁以下)。

弁護士が受任するか否か決めるのは自由です。が、受任してしまえば弁護士は当該依頼者のため律儀に座敷を勤めなければなりません。しかし弁護士には社会の「共有の存在」たる性格もあります。それゆえ社会のルールを理解しない者に対しては「拒否権」を発動しなければならないのです。

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