5者のコラム 「5者」Vol.15

法律家を規定する規範

経験法学研究会(川島・碧海・平野等)は「科学としての法律学」を合い言葉に法律学の相対化を試みていました。隣接諸科学との連携を重視し法律学の専制を戒める自制的な研究はアメリカから輸入されたリアリズム法学とともに一世を風靡します。その後、かかる「自制的な法律学」は下火になり、それまで観念的な言葉であった「法の支配」の実質化が推進されるようになりました。事後の「司法改革」イデオロギーはこの延長線上に存在します。
 内田樹先生は「自分の正しさを雄弁に主張することの出来る知性より自分の愚かさを吟味することの出来る知性のほうが私は好きだ」と述べておられます(「ためらいの倫理学」冬弓社)。私は内田先生の考え方に親近感を感じます。自己の正しさを確信し社会に押しつける傲慢な法律学よりも自己の正当性を疑い自省する謙虚な法律学のほうが私は好きです。法律学もその上位にある社会的規範から照らし出される判断の客体に過ぎないのではないか?との思いが私にはあります。
 法律家の行動を無意識レベルで規定する規範は法律ではない。リアリズム法学による「法律家は別の要因により決定された結論を法律的な衣を纏って表現しているに過ぎないのでは?」との疑問(ジェローム・フランク「裁かれる裁判所」弘文堂)は核心を付いています。が法律家の行動を規定する規範が「科学」であるとも思えません。おそらく法律家の行動を規定している要因は「論理とは異なる何か」であり、この非論理的な何かで得られた結論を事後的に正当化(「法律的に構成」)しているのです。この「非論理的な何か」は法律家の種類により異なります。裁判官・検察官は国家組織の一員なので「政治」(統治・社会統制)という側面が大きいように感じます。他方、弁護士は民間人なので、そう単純ではありません。このコラムではこれを「治療・医学」「学問・教育」「演技・舞台」「呪術・宗教」「欲望・お金」という極めて実践的な場面で生成されている何らかの規範として把握し、これを前提に現実の弁護士の行動様式を考えていきたいと思っているのです。

役者

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