5者のコラム 「易者」Vol.11

判りにくさと世間

普通の市民にとって法律用語は訳のわからない「呪文」であり訴訟とは訳の判らない言葉が繰り広げられる「儀式」でした。法律の勉強を始めて間がない頃、私は民法・刑法・商法・民事訴訟法など基本法典の条文が明治時代のカタカナ文であることを知って衝撃を受けました。当時の一般市民にとって法律家は「訳のわからない」言葉を羅列する呪術者(シャーマン)と感じられていたでしょう。これに対して最近の市民における「判りにくいもの」に対する拒否反応は凄まじい。マスメデイアは複雑な事象を短い言葉で単純明快に説明してくれる者を欲しています。確かに難解な用語を使用して市民の理解を拒絶することは時代に逆行するものと言えます。しかし極端に判りやすいものを求める世間の要求に対する歯止めも必要です。複数の価値観を調和的に統合して論じる知的作業は(誠実に行えば行うほど)難しいものになります。「判りやすければ良い」という考え方は知性の否定です。同様に専門科学の用語は複雑な対象を正確に描写するため厳密な概念規定を与えられています。判りやすさのために専門用語をいたずらに崩していくことは専門科学の否定なのです。
 法化社会の進展により法律は市民にとって「使いやすいこと」を求められています。民事訴訟法の教科書(新堂幸司)の序文でかかる言葉を目にした時の衝撃を私は忘れません。弁護士業務は利用者の存在を抜きにしては存立し得ませんから説明責任は弁護士も果たさなければならない義務です。しかしながら法律には世間的価値観から個人を守るという意義もあります。法律学が形成した諸命題は複数の価値観を調和的に統合して論じる知的作業から生み出されたもの。緊迫感のある場面で用いられる法的述語は曖昧なコミュニケーションから誤った判断が為されないように厳密な概念規定を与えられてきたものです。「判りやすさ至上主義」には違和感があります。

役者

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