5者のコラム 「学者」Vol.91

一身にして二世を経るが如し

私は中学2年生の時にアマチュア無線(電話級)の免許を取得しました。無線機(トリオTS520)を買い自宅に無線局(JE6***)を開局し毎日「CQ・CQ。こちらはJE6***です。御入感のステーションございましたらコンタクト宜しく。」などとやっていました。真空管ラジオも自作しました。変圧器やアナログ同調機(バリコン)等の部品を組み立てて初めてラジオ放送局の電波をキャッチしたときは感動しました。38年も前の話です。その後、パソコンが普及し、アメリカの軍事技術からインターネットが生まれました。市民が携帯端末で常に情報空間と繋がることが可能になりました。検索エンジンを使い最新情報を一瞬で得ることが出来るようになりました。子供の頃は全く考えられなかったことです。江戸時代に生まれ、明治時代を教育者として駆け抜けた福沢諭吉は「あたかも一身にして二生を経るが如く、1人にして両身あるが如し」と述べますが(「文明論之概略」岩波文庫)私も電子デジタル技術に関して同じような感慨を有しています。
 私が受験を始めた頃、司法試験は競争率60倍(500人枠に約3万人受験)で、難関を突破した司法修習生は金の卵として扱われていました。弁護士の大都市集中が著しく、地方では珍しい存在でした。広告が禁じられていたため法律事務所は極めて閉鎖的でした。その後、法曹養成制度の改変が行われ、司法試験合格者が激増しました。判事・検事の任官者が増えないのに弁護士だけ増加したため弁護士1人あたり事件数が激減しました。広告解禁により派手なテレビCMを行う事務所が出現しました。地方都市にも大型法律事務所の支店が現れるようになりました。弁護士の窮状が酷いため司法試験受験者が激減し、有力進学高の進路指導担当者が優秀な学生を法学部から忌避させる現象すら現れています。私は法律業界に関しても「一身にして二生を経るが如き」感じを受けております。

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