5者のコラム 「医者」Vol.149

ご遺体を前にしたときの厳粛な思い

鳥集徹「医学部」(文春新書)に次の記述があります。

筆者も解剖実習の様子を取材し学生たちに話を聞いたことがある。彼らが口々に言うのは「解剖実習を体験して医師になる自覚が強くなった」「はじめて医学生らしい勉強をして人間として成長した」という言葉だ。3年前に解剖実習を経験した私大医学部5年生(女性)もこう話す。「ご遺体を前にして最初はみな緊張していたと思います。亡くなったといっても人間の形をしており『命を預かったんだな・勉強しないと』と強く思ったことを覚えています。そのうちに回数を重ねて慣れてくると真面目に取組まない学生も出てきますが、そういう人は医師としての適性がないのでは?と怒りすら感じました。」

修習生の頃、私も法医学教授による遺体解剖に立ち会いました(医者24)。座学ではなく実際に本当の遺体を目の前にしたときに感じる厳粛な感じは(法学医学を問わず)勉強中の者に強い印象を与えます。修習生にとって遺体解剖は特殊な場面ですが、身体を拘束された人に面会し話を聞くのは修習生にとって「日常」となります。最初は手錠をされて法廷に入ってくる被告人の姿に驚き、接見室のアクリル板越しに対面する被疑者の姿に緊張感を覚えます。しかし、回数を重ねると「慣れ」が生じてくる。その慣れは実務家として必要なものでありますが、それは身体の自由を失った人に対する厳粛な思い(初心)を喪失してしまうこと即ち「人間として大切な何かを失ってしまうこと」に通じます。かような厳粛な場に立ち会えるのは「専門的職業人」としての将来が約束されている医学部生ないし修習生という特殊な立場にあるからです。ロースクールが司法修習の機能を絶対に代替できないのはこういった厳粛な場を提供できないことにも起因します。