5者のコラム 「5者」Vol.48

「未知」と「既知」

「何故、たとえ話が好きなのか」と質問を受けたので私見を述べます。「真実とは何か」という問いに対して「真実とはXである」という命題が存在したとします。そのXを端的に言葉で表現することが出来るのならば、話はそこで終わってしまいます。場面や聞き手や状況に依存しないXが存在するのならば、話し手の工夫も必要なくなります。これに対し「真実はAのようなものである」「真実はBのようなものである」など、場面や聞き手や状況によって喩える対象を変えていくしかないのならば、話し手は聞き手の知性や感性を注意深く探り、聞き手に応じて喩える対象を選択し、話法も工夫していくことになります。AやBは(Xのような)絶対的・権威的な存在ではなく、場面や状況が変われば全く別のものに置き換えることができる相対的な存在です。そのため、聞き手には自由が得られ、話し手は個性を発揮できることになるでしょう。喩えることの最大の効用は、聞き手にとっての「既知」であるAやBを利用することによって「未知」のXを間接的に理解可能にさせる(少なくとも理解した気になれる)ことではないかと思われます。話し手の工夫は当該会話の聞き手にとって何が「既知」であるかを探ることに向けられます。聞き手が漁師であれば魚に喩えるのが良いでしょう。大工であれば建築に喩えるのがよいでしょう。聞き手が判っていることを察知し、これをふまえて判っていないことを間接的に説けば、聞き手は勝手に納得する可能性が高いのです。
 これは法律家の解釈技術に通じるものです。社会が変化するものである以上「未知」の事態は必ず生じます。しかし、かかる事態に対して勝手に(根拠無しに)裁判をするのは違法です。「既知」の法理に「似ているもの」からの「推論」によって結論を導くこと(法的構成)こそが裁判の「正統性」(合法性・納得性・正当性)を得る正しい方法なのです。

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