歴史散歩 Vol.47

大刀洗飛行場1

筑後に日本最大規模の飛行場が存在したことを記憶する人は極少なくなっています。そこで2回にわたって大刀洗飛行場を取り上げます。今回は客観的記述を、次回は主観的記述を試みます。
 以下「大刀洗平和記念館・常設展示案内」「証言大刀洗飛行場」桑原達三郎「大刀洗飛行場物語」(葦書房)等を基礎にご紹介します(ネット上の記述も参照しました)。

軍事面における航空機の重要性が認識されたのは第1次世界大戦です。第1次大戦は戦車・飛行機・通信機・化学兵器など最新鋭の軍事機器が展開された最初の戦争です。参戦した第1次大戦を契機に日本も飛行機の開発や飛行場の整備に乗り出すようになりました。
 大正5(1916)年、陸軍は北部九州の航空拠点として馬田村・三輪村・大刀洗村にまたがる山隈原を選定します。この地が選定されたのは①大陸に近い②海岸線より40Km以上ある(艦砲射撃の弾が届かない)③人家が少なく雑木林の広い土地がある④周囲に障害物がない⑤風向きが一定している等の好条件に恵まれていたからです。以後、広大な土地が買収され、大正8(1919)年にトロッコと人力だけで総面積46万坪の飛行場が完成しました。ただ、当時の飛行場は広大な「草原」と言い得るものです。コンクリートで固められた現在のような滑走路はありません(北飛行場として重戦闘機用・重爆撃機用の2本の滑走路が整備されるのは遙かに後年のことです)。

大正8(1919)年11月に航空第四中隊が赴任します。配置された飛行機はフランス製複葉機「モーリス・ファルマン」(略称「モ式」)で偵察が任務でした。同年12月には久留米憲兵隊の大刀洗憲兵分遣隊が設置され、大刀洗は陸軍の重要な軍事基地としての色彩を強めていきます。同14(1925)年、航空第四大隊は飛行第四連隊に昇格し、日本最大の飛行連隊となります。                   
昭和3(1929)年、天津の軍事行動の際に初めて大刀洗から軍用機が大陸へ出動します。以後、済南事変・満州事変・上海事変と事あるたびに軍用機が飛び立ちました。昭和12年には大刀洗に九七式戦闘機が配備されます。これは従前の複葉機と異なる最新鋭の単葉機でした。この九七式戦闘機は昭和14年に満州とモンゴルの国境付近で発生したノモンハン事件でソ連製戦闘機と戦っています。これが近代的航空戦の先駆けとされています。大刀洗平和記念館には平成8年に博多湾から引上げられて修復された世界唯一の九七式戦闘機(特攻仕様機)が展示されています。零式艦上戦闘機32型も展示されています。元・アメリカ海軍の軍人がサイパンで保管していたものを福岡航空宇宙協会が昭和58年に譲り受けたものです。サイパンには大戦中の遺品を持ち出すことを禁止する法律があり譲受には多大の困難があったそうです。このゼロ戦32型は主翼先端が直線的にカットされており、他の型よりも主翼が短い点が特徴です。

(*現在、館内には映画「ゴジラー1.0」撮影で使用された「震電」の実物大模型が置かれています。零戦と震電が並ぶ奇跡的な風景!と言わなければなりません。)

 大陸での戦線の拡大とともに大刀洗は日本最大の航空中継基地となります。航空隊に付随する施設が多数設けられ、航空兵養成にも力が入れられるようになりました。大刀洗陸軍飛行学校は、昭和15年に開校された我が国最大の航空兵養成施設です。西日本に点在する飛行学校の中枢的役割を果たし「本校」と呼ばれていました。外地や関西以西に18の分校があり、特攻基地で知られる知覧はその分校でした。昭和18年に甘木に生徒隊が開設されます。これは甘木市一木の野戦高射砲隊がニューギニアに出陣したあと空いた場所に設けられたものです。多いときには2000人を越える少年が入隊しました。生徒隊で6ヶ月ないし1年の過程を終えると分校と呼ばれる西日本の18校に分かれ、実機を使って飛行士としての訓練を受けました。。昭和19年には特別幹部候補生(特幹)制度が設けられています。中等学校卒業者に1年半ほどの特訓を施し下士官に任ずる制度です。全国に訓練場があり、大刀洗が最も大規模なものでした。敗戦間際には八女にも大刀洗飛行学校筑後分教場(岡山飛行場)が建設されていました。龍ヶ原を中心として八角形の造成の跡がくっきりと残っています(現在のファミリーマートの周辺が岡山飛行場の中心です)。現在の福岡空港は昭和19年に陸軍が「席田(むしろだ)飛行場」として建設したのが始まり。敗戦後、米軍に接収され「板付」という地名が選択され「板付基地」(イタヅケエアベース)と呼ばれるようになりました。昭和47年に日本に返還され以後は福岡空港として民間が主に使用しています。大刀洗は大規模な軍事工場としての色彩も強めていました。昭和15年2月に立川航空廠大刀洗支廠となり、同年7月に大刀洗航空廠に昇格しました。多くの施設と2棟の大格納庫が建設されました。航空機整備技術者の不足を補うために航空廠の西側には技能者養成所が拡充されます。建物は実習工場棟や宿舎など約30棟に及びました。終戦までに7期生が卒業しています。教育を終えた技能者は軍属となり、各地の飛行機工場の整備要員として配属されました。

大刀洗の軍事的重要性をアメリカ軍は早くから認識していました。偵察機による大刀洗の航空写真が多数撮影され、綿密な爆撃計画が策定されました。昭和20年3月27日午前10時40分、サイパン島アスリート飛行場を出撃したB29の8個編隊(計74機)は大刀洗一帯に大規模な爆撃を加えます。6波の攻撃で1000発を超える爆弾が投下され、大刀洗の軍事基地としての機能は壊滅しました。
戦後、大刀洗の飛行場施設は封鎖され、航空機産業も厳禁されたため、当時「東洋一」と言われた大刀洗の面影は完全に無くなりました。陸軍が所管した土地は払い下げられ広大な空き地が残りました。その後、飛行場跡地は当初農地となるものの離農者が続出したため、その後に工場団地が造成され、多くの企業が進出するようになりました。その最大のものがキリンビール甘木工場です。長い間、大刀洗飛行場の存在は市民から忘れ去られてきました。そんな中、淵上宗重氏は私財を投じ甘木鉄道大刀洗駅の駅舎を改造して個人で「大刀洗平和記念館」を運営してこられました。前述した九七式戦闘機も淵上氏が預かって管理してこられたものです。淵上氏は飛行場の歴史を語る資料約2000点近くを収集し、大事に保管・展示してこられました。現在、甘木鉄道大刀洗駅旧駅舎は太刀洗レトロステーションとして往時の生活用品中心の博物館となっています。舎前には零式水上偵察機のフロートと自衛隊のT33練習機が置かれています。後者は航空自衛隊築城基地から貸与されたものです。
 平成21年10月に渕上氏の収集品を基礎として「筑前町立大刀洗平和記念館」がオープンしました。全国から多くの方々が訪れ、我国最大規模の航空基地であった大刀洗のことを思い出してくれるようになりました。現在の筑前町立大刀洗平和記念館があるのは、個人でこれらを守り続けてこられた淵上氏の努力の賜です。まだ行ったことがない方は公式ホームページだけでも訪れてみてください。この地で若い命を燃やし、その後長い間忘れ去られていた方々は多くの市民が自分たちのことを想起してくれることを喜んでおられると思います。http://tachiarai-heiwa.jp/

* 現在、大刀洗飛行場の跡地の一部はキリンビール甘木工場になっています。工場の脇にはコスモス園が開設されており毎年秋に見事な花の風景を見せてくれます。2023年10月22日に訪れましたが「キリンビアファーム」の他に露店も複数出ており多くの市民で賑わっていました。


 飛行場跡に植栽されたたくさんのコスモスは空爆で亡くなった多くの方々への鎮魂花のように見えます。と同時に故人(死者)から現代の人々(生者)に向けた贈り物のようにも見えます。

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