歴史散歩 Vol.90

ちょっと寄り道(本郷)

先日、本郷で仕事をする機会がありました。そこで近くに宿を取り、仕事前後に付近を散歩してみました。東京大学を中心に、地形・文学・音楽に触れながら歩きます。
参考文献  司馬遼太郎「街道を行く№37本郷界隈」朝日文庫、広岡祐「漱石と歩く明治の東京」祥伝社黄金文庫、川副秀樹「東京の『年輪』発掘散歩」言視社、高瀬恭章「本郷界隈を歩く」街と暮らし社、岩垣顕「江戸東京旧街道めぐり」街とくらし社、木下直之「東京大学本郷キャンパス案内」東京大学出版会、野田宇太郎「新東京文学散歩」講談社文芸文庫など)

羽田から高速バスで東京駅八重洲口に着く。タクシーにて本郷に向かう。車は日本銀行の裏を抜け常盤橋の横を通って神田に入った。神田小川町の靖国通りはゆるやかに湾曲している。これが本郷台地の末端。山の手の地形は右手を意識すると良いと言われる。小指(上野台地)薬指(本郷台地)中指(小石川台地)人差し指(小日向台地)親指(目白台地)。薬指は怪我をしている。怪我のあとが神田川である。神田川は本郷台地を大きく掘り込んで作られた。掘崩した土は日比谷入り江など低地の埋立に使われた。御茶ノ水に立って見下ろすと江戸時代初期の大規模土木工事の凄さが判る。車は聖橋を渡り、湯島聖堂と東京医科歯科大学の間をすり抜けて左折し本郷通りに入った。
 本郷通りは中山道の最初の部分だ。江戸のウチとソトは明確に定まっていた訳ではない。川副秀樹「東京の『年輪』発掘散歩」は両者の境を外堀・市内境界・六地蔵・刑場・江戸出入口・異国出入口の6段階で区別する。中山道に即して言えば、外堀は筋違門(神田見附)・市内境界は本郷(かねやす)・六地蔵は真性寺(巣鴨)・刑場は板橋だった。「本郷もかねやすまでは江戸の内」というキャッチコピーがこれを物語っている。実際かねやすの前と後ろでは町屋の作りが違っていた。
 東京大学は加賀藩前田家の上屋敷跡にある。その象徴が赤門(正式な名称は御守殿門)である。文政10(1827)年、11代将軍家斉の娘・溶姫が前田家に嫁入りした際に創られたものである。家斉は何と53人もの子をもうけた。女子の嫁ぎ先を調整する幕臣の仕事は大変だった。将軍の娘を迎え入れるのは大事業だ。御守殿門の再建は許されなかった。その維持は外様の大藩である前田家にとり徳川家への忠誠を示す象徴であった。そのため両脇に番所が置かれ、厳重な警備が行われた。防火のため近くの町屋敷が多数取り壊され消防組織(加賀鳶)も編成された。
 明治時代の東京大学を司馬遼太郎は「文明の配電盤」として描いている(街道を行く№37「本郷界隈」朝日文庫)。対比されるのは奈良時代。聖武天皇は仏教という異国(中国)文明を普及させることを律令国家の柱とした。配電盤となったのが東大寺であり、末端で電流を受けたのが各国毎におかれた国分寺であった。これに対して明治政府は科学技術という異国(西洋)文明を普及させることを中央集権国家の柱とした。配電盤となったのが東京大学であり、末端で電流を受けたのが地方の学校であった。いずれの時代も配電盤は「東大」なのであった。
 東京帝国大学の初期キャンパスは大正12年9月の関東大震災で壊滅した。その復興を担ったのが内田祥三(建築学科教授・第14代東大総長)。正門から安田講堂へ向かうビスタは内田が細心の注意を払って作り上げた空間だ。過去、幾多の青年がこの空間の知的雰囲気に魅了されたことであろう。昭和44年の大学紛争における安田講堂の攻防は、当時7才であった私の記憶の片隅にかすかに残っている。同年3月の入試は中止。ベトナム反戦・安保闘争などと交錯しながら政治の季節は高揚し、何時の間にか消えていった。放水と催涙ガス弾を受けている安田講堂の画像が脳裏に浮かぶ。「いちご白書をもう一度」(@荒井由実)のメロディーが流れてくる。

♪就職が決まって髪を切ってきたとき・もう若くないさと君に言い訳したね♪

東大キャンパスは僅か数十年前の紛争が無かったかのように静かだ。騒がしさを感じるとすれば、キャンパスのあちこちで行われている建築工事のためだ。昼食は「万定フルーツパーラー」。本郷の老舗。何時の頃から使われているのか判らないくらいに古いレジが印象的である。
 午後1時から4時半までは仕事(文科省関連)。きっちり仕事を終えて鳳明館(台町別館)に赴く。文化庁の登録有形文化財に指定されている素晴らしい建物。残念だったのは他の宿泊者の多くが外国人だったことである。案内された部屋で普段着に着替え軽い気分で鳳明館を出る。
 夜はFB友・増田崇弁護士の事務所(飯田橋)を訪問する予定を入れていた。梨木坂を下り菊坂下を抜け白山通りに出る。白山通りは「滑走路のように広い」(@司馬遼太郎)。たしかに本郷の狭い路地に慣れた目から見ると、白山通りの「広さと真っ直ぐさ」は異常と言ってよい。小石川後楽園の脇を歩く。ここは水戸藩の上屋敷跡である。御三家である水戸藩が江戸城惣構の外側に屋敷を構えていたのは不思議な感じがする。紀尾井坂で著名な「紀伊・尾張・井伊」の各藩が江戸城の要所に屋敷を占めていたのと余りに異なる。江戸幕府の首を絞める「尊皇攘夷」思想(南朝正閏論)が水戸藩から生まれたのは、この差別的待遇に対する不満が根っこにあったのではないか?とすら考えてしまう(水戸藩は何故か官職も低く朱印高も低かった)。尊攘思想による倒幕の嵐の中、最後の将軍として生きたのが徳川慶喜だ。彼が生誕したのはまさにこの地である。昭和の軍国主義時代、ここは陸軍砲兵工廠となった。今その面影はない。庭園横に巨大遊園地が置かれ、モスラの繭の如き白いドームが横たわっている。飯田橋駅の脇を通り、目的のルーテルセンタービルに着いた。昭和12年建築の立派な建物。ここで日々の仕事を出来るとは凄い。増田崇弁護士は初対面である私に対して長い時間を割いて下さった。事務所で抹茶をふるまって頂いた後、蕎麦屋と焼き鳥店にて酒を飲みながら語り合った。楽しいひと時であった。良い気分になりタクシーで本郷に帰る。

2日目の朝だ。伝統的な和朝食をいただき鳳明館を出る。
 正門から東大に入り安田講堂の左を抜けて弥生門から出る。通り沿いに「弥生式土器発見の地」碑がある。サトウハチロー旧居の横を通り根津権現に向かう。根津権現を抜けて裏門坂を登る。右手に漱石旧居跡(通称「猫の家」)がある(建物は愛知県犬山市の明治村に移築保存)。漱石がこの家に住んだのは明治36年3月から西方町に引っ越す39年12月まで。ロンドンから帰朝後、勤め先である帝国大学と第一高等学校に歩いて通えるという理由で借りたようである。精神を病んでいた漱石は高浜虚子から薦められるまま、この家で、俳句雑誌「ホトトギス」に明治38年1月から翌年8月号までの連載で出世作『吾輩は猫である』を執筆する。明治40年、漱石は帝国大学と第一高等学校の職を捨て朝日新聞社に入社し、職業作家になる。同年9月に漱石は西方町から実家に近い早稲田南町へ転居するのであった(「夏目漱石と久留米1」参照)。
 不忍通りを南下し修習生の頃に通い慣れた旧司法研修所へ向かう。研修所は既に和光に移転しており現在は「旧岩崎邸庭園」(国指定重要文化財)として一般公開されている。旧岩崎邸の正門は東側にある(修習生当時の私は知らなかった)。正門を入ると玉砂利が敷かれた広大なアプローチがゆるやかなカーブを描いて登っている。坂を登り切った先に素晴らしい洋館正面がある。我々が観ていた岩崎邸は反対側(ベランダ)だったのだ。司法研修所が旧岩崎邸であることは当時から知っていた。しかし、ここが高田藩榊原家の跡地である認識は当時の私にはなかった(私が歴史に興味を持ったのは最近だ)。外様の大藩である前田家は常に監視されていた。前田屋敷は周囲を親藩譜代に囲まれていた。北は水戸徳川家・西は岡崎藩本多家・南東は高田藩榊原家。榊原家は家康の祖父の時代から徳川に仕えた。なかでも康政は徳川四天王として武を誇った。明治になって榊原家敷地を購入したのが三菱の岩崎家であり、コンドル設計による秀麗な洋館がつくられた。この建物は戦後、米軍に接収されキャノン機関(諜報局)がおかれた。接収解除後に岩崎家は財産税として土地建物を国に物納した。国は和館の一部を壊し法曹の卵(司法修習生)の研修所を設けた。前期・後期ともにここで司法修習をした最後の期が我々46期である。たぶん私は運が良いのだ。
 岩崎邸の北側の壁に沿う坂道が無縁坂。歩きながら頭をよぎるのは「無縁坂」(@さだまさし)。

♪忍ぶ・忍ばず・無縁坂・かみしめるような・ささやかな僕の母の人生♪

昔、上野台地は忍ケ丘と呼ばれた。不忍池はその対句である。本郷に登る無縁坂はその先にある。東から西へ歩くルートに母親の人生を重ね合わせる歌詞が素晴らしい。
 右手に巨大な要塞の如き建物がそびえ立つ。東大付属病院だ。無縁坂を上がって鉄門から中に入る。東大付属病院から赤門方面に向かって歩くとキャンパス内の高低差が良く判る。本郷台地の東の端から、最も標高が高い赤門付近へと登っていく。三四郎池を右手に観ながら安田講堂の脇へ向かう。安田講堂を後ろから見ると、正門から続く平地と東側の低地の境目(斜面)を生かし、坂の高低差をうまく利用して設計されていることが判る。正門からは時計台の権威だけが目に付き、講堂自体の高さを余り感じないが、後ろから観ると講堂が相当の高さであることが了解される。設計者内田は過剰なくらいに「正門からのビスタ」を意識して大講堂の設計を行っていたのだ。
 正門を出る。喫茶「ルオー」で昼食。ここも本郷の老舗中の老舗である。
 本郷通りを北に進み東大農学部へ。水戸藩屋敷跡である。朱舜水の碑が残る。皇国史観の象徴・楠木正成は当時「悪党」と呼ばれていた。湊川の戦で足利尊氏に破れ、室町幕府から反逆者扱いをされた。徳川幕府でも同じ評価であった。その評価が急上昇するのは水戸光圀が編纂開始した『大日本史』で「南朝こそ正統」との見方が確立されてからである。この南朝史観を確立する際に影響を与えたのが朱舜水。明が滅び異民族王朝・清が中国を統一した際に日本に亡命した学者(明の遺臣)だ。ちなみに最初に朱舜水をかくまったのは筑後柳川藩の安藤省庵である。
 東大農学部は駒場にあった。1935年、水戸藩屋敷跡の旧制第一高等学校と東大農学部(旧駒場農学校)は交換されることになり駒場にあった外国人教師の銅像も引っ越してきた。渋谷の有名なハチ公の銅像は、まだ駒場に農学部があった頃、飼い主である上野英三郎教授の帰りを待ち続けるハチの姿が新聞報道で感動を呼び、設置されたものである(2013年10月15日「渋谷歴史散歩」参照)。現在は農学部正門左横に上野教授とハチが戯れている銅像が建てられている。
 農学部前で道は左右に分かれる。本郷追分である。左が旧中仙道になる。旧道を10分ほど歩くと右は大円寺。「ほうろく地蔵」の寺として著名である。「八百屋お七」に所縁のある地蔵だ。ほうろくとは火に掛けて使う素焼きの土鍋のこと。お地蔵さんが自らこれをかぶり、処刑で灼熱の地獄の苦しみを受けたお七を供養したといういわれがある。「八百屋お七」は井原西鶴『好色5人女』等多くの物語・演劇・映画多くの作品のモチーフになった。吉三郎に逢いたい一心で放火に及ぶお七の物語は庶民の心をつかんだ。死罪覚悟で自分の意思を表現するお七の行動が政略結婚が当然だった武士階級の規範を超越していたからに違いない。ちなみに私が「お七」を知ったのは『ガラスの仮面』でマヤが月影千草から「火」のテーマを表現するように求められたとき「心の火」として「お七」を演じたからである。大円寺前の細い道を左手に下ると円乗寺。「お七」の墓がある。今でも多くの参拝者がいることは、添えられている花やあげられている線香の多さで判る。墓の前で合掌。
 円乗寺前の細い道を南下する。左手には高い壁が続く。かような高い壁を築くにはかなりの造成費用が必要である。坂上の西片町は都内有数の高級住宅地だ。かなり高額な造成費用がかかっても、この地に自宅を建てたいという建築需要が相当に高いのであろう。
 菊坂下の樋口一葉旧居跡を探す。案内板がないため難儀。狭い路地に入ってようやく発見できた。昭和大正を通り越し明治を感じさせる。映画のセットのような井戸を囲む空間。このままで残って欲しい。菊坂には極貧だった一葉がよく通った「伊勢や質店」の建物が残されている。現在は跡見女子学園大学の所有である。区との協議により建物内部が一般公開されている。菊坂を降り白山通りを少し北に行くと樋口一葉終焉地の碑がある。ここは当時「守喜」という鰻屋の離れであった(野田宇太郎「新東京文学散歩」)。ここで一葉は「たけくらべ」「にごりえ」などの名作を書いた。25才で永眠するまでの短い時間であった。碑の前で合掌。一葉作品を私は読んだことがない。多少『たけくらべ』の内容を想像することが出来るのは「ガラスの仮面」でマヤが姫川亜弓と競演したからである。一葉女史とは「樋口姓」という御縁がある。5000円札に描かれた姿で日々お世話になってもいる。これからは意識して一葉女史の作品を読んでみることにしよう。(終)

* 東京大学の学生・ОB・教員にとって本郷の風景は「当たり前」かもしれませんが、外部の者にとって本郷は決して「当たり前ではない」風景に満ちています。
* 水戸藩(特に水戸光圀)から産まれた「皇国史観」(大日本史が典拠)が江戸幕府の首を絞める悲劇については片山社秀「皇国史観」文春新書が詳しい。

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