歴史散歩 Vol.89

ちょっと寄り道(上町)

7月に所用で大阪に出向く機会がありました。そのまま帰るのはもったいないので連泊して上町台地の歴史散歩をしてみました。上町は大阪の背骨ともいうべき存在です。近世以前の歴史的事象は全て上町台地上で繰り広げられました。古代において大阪市街のほとんどは海であり(東は河内湖・西は大阪湾)上町台地だけが中に突き出た岬でした。対象年代はバラバラですが、散歩気分を共有して頂くために実際に私が歩いた順番でご案内します。(参考文献・大阪文化財研究所「おおさか上町台地の歴史散歩」、新之介「大阪高低差地形散歩」洋泉社、中沢新一「大阪アースダイバー」講談社、「路面電車が走る町No.7阪堺電気軌道」講談社など。)

大阪の宿は谷町4丁目アパヴィラホテル。上町の南北を形成する「筋」に行く場合も東西を形成する「通」に行く場合も便利な場所だ。ホテルを出て大阪歴史博物館に続く法円坂を登る。古代の海岸べりから岬の峰に登ってゆく感じである。大阪歴史博物館は船の形をしている。船首部は大阪城を、右船腹部は難波宮を向いている。エスカレーターが船首部分に設けられており、参観者はエスカレーターを下る度に大阪城の見事な姿を見ることが出来る。館内には古代からの大阪の歴史を解き明かす展示が溢れている。上町台地が大阪湾と河内湖の真中に突き出た岬だったことが説明されている。
 博物館周辺の歴史的変遷を示すと1難波宮・2石山本願寺・3豊臣城・4徳川城・5陸軍施設と昭和城・6戦後の公園になる。難波宮は大化の改新(645)の後、孝徳天皇や中大兄皇子らが新しい国づくりを目指して飛鳥から遷都したものである(652年完成)。大阪市立大学の山根徳太郎氏が法円坂の工事現場から出土した鴟尾を手がかりに存在を証明した。これを契機にして保存運動の輪が市民に広がり、難波宮中心域が国の史跡に指定された。
 石山本願寺は浄土真宗中興の蓮如により形成された寺内町だ。蓮如が明応7(1498)年発した御文に「大坂」の名が登場する。これが文献上「大坂の文字が記された最初のもの」とされている。蓮如は長く連なる上町台地海食崖を「大いなる坂」と認識したのだ。蓮如はこの大坂に天然の要害としての意義を感じ、御坊を開く。これが後に猛将・織田信長を11年にわたって苦戦させることとなる石山本願寺である。天正8(1580)年、石山本願寺は灰燼に帰し信長の手に渡った。しかし本能寺で信長が死ぬと、跡は信長の後継者となった豊臣秀吉の手に入る。秀吉はこの石山本願寺跡地に大城郭を構築する。これが豊臣城だ。大坂は寺内町から城下町に性質を変えた。豊臣城は天正11年に普請が開始され天正13年4月に天守が落成。二の丸・惣構堀・三の丸の構築を経て慶長4(1599)年に三の丸の拡張が終わって完成した。惣構堀は特に城の南側を重点に形成された。大阪城の東・北・西は湿地や河川による天然の要害であるのに対し南は上町台地が続くことで戦いの時に攻めやすい地形だったからである(ゆえに大坂冬の陣で真田幸村は惣構南側に出丸を築いた)。
 豊臣城は慶長20年(元和元年・1615)の大坂夏の陣で消失し、土台だけ残された。この土台の上に大量の盛り土をして徳川城は構築された。盛り土の厚さは7メートル以上に及ぶ。今、我々が見ている石垣と地表面は徳川城のものである(豊臣時代のものではない)。徳川城は戊辰戦争時に焼失し、長らく天守閣が無い状態が続いた。旧城内に大阪鎮台が置かれ(以後は「大阪」と表記)西日本最大の軍事拠点となった(後に第四師団となる)。その痕跡が城北の大阪砲兵工廠。京橋を渡ったところに化学分析場の赤煉瓦建物がある(現存する砲兵工廠唯一の遺構)。当時、大阪城周辺は一般人が容易に入れない場所だった。城周辺が現在の風景になるのは昭和3(1928)年に昭和天皇即位記念事業として天守閣をつくるとともに第四師団庁舎を新築し陸軍に献納するという大阪市会決議が成立したことによる。昭和6(1931)年、市民の寄付で現在の鉄筋コンクリート製天守閣と第四師団指令部庁舎が完成した(費用は天守閣47万円・師団庁舎80万円・公園整備費23万円)。天守閣は豊臣城を意識して創られている。徳川が築いた石垣の上に豊臣風の天守閣が乗っている。眼前に広がっているのは学術的に「あり得ない風景」だ。にもかかわらず大阪人にとって大阪城は「豊臣の城」でなければならないのだ。大阪人が太閤秀吉をいかに敬愛しているか判る気がする。
 昭和20年の敗戦後、付近の旧陸軍施設は撤去され官公署と広大な公園となった。しかし、いくつかの建物は(あまりにも立派すぎたためか)用途を変更して保存されることになった。天守閣の右にある第四師団庁舎はかつて博物館として活用されてきた。今は皇国史観が高揚していた昭和初期の雰囲気を現代に伝えるために、その姿を示していると言える。
 大阪城を出て上町台地の向こう側へ下る。森ノ宮駅から環状線に乗り、京橋で乗り換えて天満宮駅で降りる。大阪は「天満」「天神」という管公ゆかりの地名が広く存在する。菅原道真信仰がいかに大阪に定着していたか物語る。上町台地から続く天満砂州は周囲の湿地帯よりも若干高い。ゆえに早くから人間が住み開けていた地だ。天満宮の西に日本一長いと言われる「天満橋筋商店街」がある。これだけ長大な門前町が形成・維持できるところに天神信仰の強さを感じ取ることが出来る。
 仕事靴のままで歩き回ったので足が疲れた。地下鉄谷町線に乗り、谷町9丁目で千日前線に乗り換え、なんば駅で降車。道頓堀でウオーキングシューズを購入。昔、千日前には刑場があった。現在は大阪最大の歓楽街となっている。食事を済ませて宿に帰る。

2日目の朝だ。ウオーキングシューズのおかげで足取りが軽くなった。谷町線で南に向かい天王寺で下車。少し歩いて阪堺軌道上町線(創設明治33年)に乗る。大阪に残る貴重な路面電車である。都電荒川線に匹敵する。現在使われているのは現代型低床電車だが昔は馬車だった(「大阪馬車鉄道」石碑も設けられている)。上町線(天王寺駅前-住吉公園)は4・4㎞。概ね専用軌道であるが、天王寺から松虫までは併用区間だ。姫松の電停にはレトロな木造建物が奇跡的に残されている。
 住吉公園で下車。参拝前に駅近くの店で朝食をとる。住吉公園は住吉大社の旧参道。明治6(1873)年に日本最古の公園として誕生したものだ。少し歩き大社に向かう。巨大な灯籠が並んでいる。昔は灯台の役割を果たしており今風に言えばランドマーク的役割もあった。太鼓橋を渡り大社に入る。下の池は古代のラグーンの跡と言われている。国宝の社殿が4棟並んでいるのは壮観である。社殿は全て海の方向に向いている。社地は奥に向かい高くなっており、ここが上町台地の端であることを感じさせる。住吉大社は全国に2300社も存在する住吉神社の総本宮。由来は古事記や日本書紀にも記されている。遣隋使・遣唐使の船はここから出航した。現在、住吉大社は海から遠い場所にあるが、古代において直ぐ前は海だった。穏やかな瀬戸内海をぬけて荒海の玄界灘に出たときに遣使は死を覚悟したであろう。出発地(住吉)と中間地(宗像)に鎮座する海の神は古代の人々が航海の安全を祈る対象であった。海で繋がる大阪と福岡の結びつきは古代からとても深いものなのだ。
 再び阪堺軌道に乗り来た線路を戻ることにする。帝塚山は阪堺軌道開通により高級住宅街となった。上町台地上に所在する帝塚山は金持ちが住みたがる貴重な微高地だったからである。阿倍野で下車。西に向かって歩いてゆくと、左側に突如として広大な阿倍野墓地が広がる。その先を右に曲がると飛田遊郭だ。この遊郭は古代の海食崖に接するように設けられた。大正5(1916)年のことである。「死と隣り合わせの生(性)の風景」が何故か大阪に似合っている。阿倍野は現在も再開発事業が進行しているが様変わりしたのは上町台地上に限られる。直ぐ南西の境に(崖下を隠すかのように)白い壁が続いている。壁の真ん中に崖下に降りる階段がある。降りて直ぐ左に料亭「鯛よし百番」がある。数年前、私は大阪の友人と一緒にここで酒を飲んだ。外観内装とも昔の遊郭の雰囲気を感じられる見事な建物だ。いろいろ意見はあろうが貴重な文化財として残してほしい。
 天王寺までの上り坂を歩く。少し歩いただけで街の雰囲気が一変するのが面白い。天王寺公園から茶臼山に向かって歩く。道を間違えてラブホテル街に彷徨い込む。何故こんな処に?と考え込んだ。この付近は夏の陣ですさまじい戦闘が行われ夥しい死者が出たところだ。ここでも死と隣り合わせの性の風景が無意識に愛されているのだろう。茶臼山に登る。大阪冬の陣で家康が布陣し夏の陣で幸村が布陣したところ。山と言うほどに高さがある訳ではないが戦国時代の戦いは僅かな高低差が戦況に影響する。大戦を控えて双方とも僅かな利を求め先にこの山を確保したのであろう。一心寺を訪れる。法然上人が日想観(沈む夕陽を拝みながら極楽浄土を観念する行為)を行うのに最適だと感じて草庵を営んだのが始まりだという。安居天神は幸村最期の地。幸村は圧倒的に優勢な家康本陣に向かい少人数で突進した。家康の首に狙いを定め大軍を突破し家康本陣に迫った。家康本陣の旗が引き倒された。が、戦力差はいかんともしがたく幸村は安居神社に撤退。神社で幸村は死を遂げた。
 四天王寺に向かう。西門石鳥居から入る。日想観を基礎に成り立った浄土信仰の発祥の地。西門は古来より極楽浄土の東門にあたると考えられた。お彼岸の中日に石鳥居の向こうに沈む夕陽が見える。この日に西門で極楽浄土を思う行事は現在も多くの参拝者を集める。四天王寺西側の街並みを「夕陽ヶ丘」というのはこの行事に由来する。四天王寺は「聖徳太子」の発願により推古元(593)年に建立されたと言われる日本最古の官寺である。この場所は物部氏が領有していたが、蘇我氏との戦いにより勝者・蘇我氏の手に帰した。後世「聖徳太子」と呼ばれる青年皇族は蘇我氏側に付き「我をして敵に勝たしめたまわば必ず護世四王のために寺塔を起立てむ」と誓いを立てた。これが四天王寺建立の云われとされる。中沢氏によると敷地はかつて物部氏の古墳であったようだ。上町台地の要所は古来から有力者が覇権を競ってきたのである。
 四天王寺を出て通りを歩く。南に「悲田院」の地名が入った表示板を発見。昔、この周辺は悲田院(仏教の慈悲思想にもとづいて貧者や孤児を救うために作られた施設)がもうけられていたアジール(聖域・自由領域・避難所・無縁所)だったのだ。北側に金剛組社屋を発見。金剛組は聖徳太子から四天王寺建立を命じられた金剛重光を祖とする世界最古の企業(創立・578年)である(金剛利隆「創業1400年」ダイヤモンド社参照)。要衝に存在する四天王寺は何度も戦火にかかり焼失したが、その度に金剛組によって再建されてきた。ほとんど奇跡である。
 谷町6丁目で長濠鶴見緑地線に乗り換え、玉造駅で下車。駅前の道は大阪城の南部を守る惣構堀の跡である。直ぐ前に三光神社がある。幸村の銅像の横に「真田の抜け穴」と呼ばれているものが存在する(真偽の程は不明だ)。隣に「旧真田山陸軍墓地」がある。明治4(1871)年に兵部省が日本陸軍最初の埋葬地として整備したところである。墓碑の数は約5300基。現存する陸軍墓地の中で最大。戦死者だけではなく大阪陸軍病院で亡くなった病没者も多く埋葬されている。墓地内には清国兵やドイツ兵の俘虜の墓も存在する。全ての戦没者の冥福を祈り合掌。
 山を下ると真田山小学校がある。この裏は高い断崖になっている。既に真田出丸の一部に入っているようだ。従前、真田出丸は心眼寺がその痕跡の中心と考えられてきた(ここに真田幸村の「墓」も設けられている)。が近時の文献的調査の結果、真田出丸の規模は従来考えれていたよりも遙かに大きく、中心は西側にあって現在の明星高校グラウンドあたりと考えられるようになっている。大河ドラマに取り上げられるようになって関心が高くなり現在はグラウンド脇に記念碑が創られている。私が歩いた際にも数名の見学人が訪れていた。真田出丸は冬の陣の戦後処理として惣構えとともに埋められてしまった。破却は徹底しており、真田出丸も惣構えも何処にあったのか直ぐには判らない。現在「空堀商店街」と称されている道筋がある。この付近に惣構えを構成する空堀があったことは間違いないが、商店街はどちらかというと微高地上にあり、左右に低くなっているところが見受けられる。商店街は惣構え跡から微妙にずれているように感じられる。
 真夏の昼間に歩き続けたので疲れてきた。谷町4丁目のホテルに戻って休憩する。歩き疲れていたせいか、寝過ぎてしまった。目が覚めたら午後6時過ぎだ。急いで谷町線に乗り、天王寺前夕陽丘駅へ向かう。地上に出て、天王寺七坂のうち「愛染坂」「清水坂」「天神坂」を歩く。上町台地下の海食崖に形成された連続傾斜地である。四天王寺に戻る。真夏であるから西門からの夕陽は見えない。この時期の太陽ははるか北側に位置するのだ。寺を出て天王寺駅付近に移動する。ビルの上に素晴らしい夕陽が見えた。同時に左(南)側に通天閣のシルエットが鮮やかに浮かび上がった。通天閣は左手に・夕陽は右手に。それは「日想観」の対象としての極楽浄土ではない。上町台地西(通天閣や飛田遊郭)において明治時代以降に繰り拡げられた人間のドタバタを太陽から見れば、あまりにも小さい悲劇であり喜劇だっただろう。これらを優しく見つめながら沈みゆく太陽がある。夕陽に浮かび上がる通天閣のシルエットは美しいものだった。ほんの少し泪がこぼれた。(終)

* NHK「真田丸」では従来「真田幸村」と呼ばれていた人物を「真田信繁」と呼称しています。が現地の案内文は全て「幸村」で表記されていますので、本稿も「真田幸村」で表記します。
* 阿倍野墓地は移転前はミナミ(千日前)にありました。その様子については2018年12月1日「ちょっと寄り道(御堂筋歴史散歩)」を参照されたし。
* wikiによると浄土思想でいう極楽浄土は西方にあり春分と秋分は太陽が真東から昇り真西に沈むので西方に沈む太陽を礼拝し極楽浄土に思いをはせたのが「彼岸」行事の始まりだという。仏教行事として説明される場合が多いが、彼岸の行事は日本独自のものでインドや中国の仏教にはない。民俗学では日本古来の土俗的な太陽信仰や祖霊信仰が起源と推定されている。
* 物部氏は本来の居住地は九州(筑紫平野)でしたが「倭国の乱」により機内に進出したという説が有力に唱えられています。
* 昭和初期、大阪城東側は「陸軍大阪砲兵工廠」だった。敗戦後、残された大量のくず鉄を盗んで売りさばき生計を立てる人々が「アパッチ族」と呼ばれた。これを多くの作家が創作材料にした。開高健が1959年(昭和34年)発表した小説『日本三文オペラ』は当時のアパッチ族の生活を描いたもの。小松左京も1964年(昭和39年)に発表した初めてのSF小説『日本アパッチ族』で当時まで残っていた跡地をイメージし社会と隔離した「追放区」として登場させている。実際にアパッチ族の一員であった在日朝鮮人作家の梁石日も1994年出版の自著『夜を賭けて』に当時の自身の経験を書いている。2009年9月に初演された生瀬勝久『ワルシャワの鼻』もアパッチ族を描いたものである。

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