歴史散歩 Vol.147

石橋正二郎を歩く

久留米市名誉市民である石橋正二郎氏は明治22年2月1日に現在の本町交差点角(旧みずほ銀行久留米支店)にあった石橋家で生まれました。石橋家は「しまや」の屋号で仕立物屋を営んでいました。当時は旧三本松町通りが東側にあったので建物は東を向いています。

「しまや足袋」工場のあった道路沿いに生誕の地を現す記念碑が建てられています。

 正二郎は荘島小学校・久留米商業学校を出て家業を継ぎました。兄の石橋徳次郎とともに大正7年洗町に日本足袋株式会社(現アサヒシューズ)を創設し、専務取締役となっています。

 大正12年、日本足袋は国分にあったドイツ兵俘虜収容所(現在の久留米大学医療センター駐車場から西側民間宅地の一帯)から採用したドイツ人技師の技術も得て「アサヒ特許地下足袋」を開発。地下足袋は三池炭鉱の採掘作業での利用を目論んだものでしたが、農作業や建築現場でも有用と判り全国的に大ヒットします。日本足袋はこれにより巨額の富を得ることになりました。

 昭和元年、正二郎は櫛原の広大な土地に自宅を建設します。この建物は後に石橋財団に組み込まれ教育会館として活用されてきましたが耐震性に問題があるとして近年取り壊されました。他方、昭和5年秩父宮滞在用に建築された和館は未だ残されています(設計・佐野利器:現・櫛原記念館)。
道を1本挟んだ北の建物(旧市長公舎)も正二郎が寄贈したものです(現石橋記念くるめっ子館)。

 昭和3年、九州医学専門学校(現久留米大学医学部)を誘致するにあたり正二郎は兄徳次郎と共に広大な敷地を提供するとともに大学校舎を建設し寄贈しています(設計・松田昌平)。学校法人久留米大学の理事長もつとめました。久留米大学本館前には正二郎の銅像が設置されています。

 日本足袋株式会社は地下足袋の大ヒットで得た資金を新規事業に投資します。正二郎の指揮により昭和5年タイヤ試作を開始。成功をふまえ正二郎は昭和6年ブリヂストンタイヤ株式会社を設立しました。誰もが投資を躊躇する不況時代に創業した理由を問われたとき正二郎は「経済が底の時代こそ投資コストが安くて済むし雇用を創出することによって社会にも喜ばれる」と答えています。

 昭和9年、久留米工場が建設され、本格的タイヤ生産が開始されます(設計・松田軍平と平田重雄)。昭和12年、タイヤ事業の全国展開を見据えて正二郎は自宅と本社を東京に移転しました。
 昭和15年、陸軍墓地建設のため正二郎は正源寺山の私設ゴルフコースを献納しました。墓地建設には延べ数十万人が勤労奉仕しました。このとき創られた忠霊塔・陸軍橋・燈籠・並木道は今も存在します(戦後は久留米市営競輪場となり正二郎の意に沿うものではなくなっています)。

昭和20年の敗戦後も正二郎の郷里久留米への貢献は続きます。同年に500万円、昭和28年の大水害時に500万円を久留米市に寄付しています。昭和29年、久留米大学御井キャンパス(旧工兵隊跡)と久留米大学附設高校の敷地取得と建物を建築する資金を寄付しています。昭和30年、大学病院等と久留米駅を結ぶ「ブリヂストン通り」を開設し久留米市に寄付しました。
 昭和31年、正二郎はブリヂストンタイヤ創設25周年事業として「石橋文化センター」を開設し久留米市に寄付しました。その中核施設として石橋美術館が開館します。場所は佐藤弥吉(綿糸布業者)の工場跡です(佐藤弥吉氏は現在の市立南筑高校創立者・工場のレンガはペリカンプール周りに再利用)。正二郎自ら理事長をつとめる財団法人「石橋財団」は保有する名画を石橋美術館に常置するとともに多額の美術館運営費を負担してきました。なお美術館は平成28年から久留米市の運営に移行しています。(開園当日の空撮写真:公益財団法人久留米文化振興会より提供)

 昭和32年以降、正二郎は久留米市内の小中学校21校にプールを寄贈しました。これは筑後川流域に「ミヤイリガイ」という日本住血吸虫の中間宿主がいて、筑後川での水泳が禁止されていたことにより、子ども達の遊泳の場がないことに配慮したものです。
 昭和33年に正二郎は久留米の名刹梅林寺の外苑を造園して寄進しています。梅林寺は久留米藩主有馬家の菩提寺です。寺名である「梅林」とは初代藩主の父の諡号(梅林院殿)に因む名称であり最初から広い梅林があったわけではありません。「梅林寺なのに梅林がないのは寂しい」という市民の声に配慮して外苑を整備し、ここに多くの梅の木を植林したのですね。

 昭和35年、正二郎は荒廃した久留米城跡を整備し「有馬記念館」を建設して久留米市に寄付しています。現在、久留米城跡は篠山神社となり、歴代の有馬藩主を祀っている他に、正二郎が移築した東郷平八郎元帥の旧書斎も存在します。

 昭和38年、正二郎は石橋文化センターに文化活動の拠点「石橋文化会館」と本格的音楽ホールである「石橋文化ホール」を建設し、久留米市に寄贈しました。


 昭和46年に正二郎は石橋文化センター南側を拡張し日本庭園を寄贈しています。   

故郷久留米に多大な貢献をされた石橋正二郎氏は昭和51年9月11日に死去されました。お墓は東京の多磨霊園にありますが、命日には久留米の石橋家菩提寺千栄禅寺で法要が営まれています。この寺の本堂はステンドグラスがもうけられている斬新なデザインです。これも昭和34年に正二郎が寄進したものです。西洋的合理性を重んじる正二郎の意思が反映されています。(終)

(地図)

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