歴史散歩 Vol.62

東京の石橋正二郎1

石橋正二郎顕彰会の企画で東京に出向いたので3回にわたり東京における石橋正二郎の足跡を追ってみることにします。本稿は石橋正二郎「私の歩み」「回想記」石橋幹一郎編著「石橋正二郎」(新潮社)小島直記「創業者・石橋正二郎」(新潮文庫)などを底本にしています。

ブリッヂストン株式会社は日本足袋のタイヤ部門(ベンチャー)として昭和6年3月1日に設立されました。設立の事情は別途まとめていますので御参照ください(「ドイツ兵俘虜収容所2」「アサヒコーポレーション」「旧三本松町通り」)。創立以来、ブリッヂストンは日本足袋と同じ久留米市洗町1番地に本社を置いていました。しかし正二郎は「全国(さらには海外)を対象とするタイヤ事業の本拠地として久留米は地理的に適当ではない」と考え本社を東京に移す構想を練っていました。昭和12年5月、正二郎は麹町(千代田区)内幸町に本社を移転しました。昭和14年に現・本社所在地である京橋1丁目1番地(東京駅八重洲口から至近)に用地を購入します。これは昭和13年に軽井沢の別荘を購入した際、その地主から京橋のこの土地を勧められたことに由来するものです(2021年5月1日「軽井沢1」参照)。この場所は当時は駅の裏口で今日では想像も出来ない裏ぶれた感じの地であり、関東大震災で焼けたままの空き地でした。昭和16年に新事務所は完成し昭和17年から業務開始しました。他方「英語の社名を変更せよ」という軍部の要請により社名を「日本タイヤ株式会社」と改めています。昭和20(1945)年5月、空襲により京橋の事務所が焼失したため、正二郎は同年10月に麻布飯倉片町(現六本木)に仮事務所を設置しました。現在、この仮事務所跡地には正二郎氏の孫・寛氏(石橋財団理事長)が「アクシス」という会社を置いています。
 敗戦後、会社は苦境からの再出発を余儀なくされました。当時の資本金2250万円に対して総損失額は4250万円に達しました。この中には海外の5工場(青島・遙陽・吉林・京城・ジャワ)の接収が含まれています。主力工場(久留米・横浜)は残存したものの敗戦の混乱の中で経営の見通しをつけることは難しく、大幅な人員整理もせざるを得ませんでした。大規模なストライキも発生しました(昭和22年2月1日から40日間)。連合軍による財閥解体が進められる中、石橋一族も地方財閥とみなされ解体対象となることは必至でした。この動きを察知した正二郎は兄徳次郎や弟進一と協議の上で昭和22年に株式交換により日本ゴム(日本足袋から名称変更)と日本タイヤの完全分離を断行しました。昭和26年には会社名を「ブリヂストンタイヤ株式会社」に改めています。

会社は麻布飯倉片町の仮事務所で業務を続けていましたが、京橋に社屋を再建することは終戦直後からの正二郎の念願でした。正二郎は昭和24年頃から具体的なビル建築構想を練り始めています。建設委員長には親友石井光次郎を抜擢しています。設計したのは戦前から親交が深い松田平田建築事務所です。正二郎は渡米に際し平田を随行させています。これは戦時中にビル新築が禁止されていたので建築技術が空白になっていたため、アメリカの最新建築技術を取り入れたいという正二郎の希望によるものです。平田はコーネル大学を卒業しているので知人も多く、至る所で歓迎されたそうです。ちょうどニューヨークで国連ビルが建築中であったため正二郎は平田のコネで建築途上の国連ビルを案内されています(国連ビルの日本人初の見学者)。かように最新アメリカ建築を身に付けた平田を中心にブリヂストンビルは設計されたのです。しかし困ったことが生じました。本社焼跡地に、いつの間にか、十数件のバラック露天が出来ていたのです。法律顧問・牧野良三氏は「今の内に手を打たないと大変だ」と心配しました(同じ法律家として良く判ります)。この難題を解いたのは妻・昌子氏です。昌子氏は「私がよく話してみます。」と言って自ら露店を見舞いに行き「皆さんは羅災されたばかりで、お気の毒ですから社屋を建てるまではここで店をされるのは結構です。けれども建てますときには立ち退いて下さい。ですから、その前にうんと儲けて移転先を今のうちに見つけておいて下さい。」と説得し心のこもった見舞い品を1人1人に手渡しました。そのためビル建設工事が始まる際は全員が文句も言わずに円満に立ち退いたそうです。明け渡し後、昭和26年8月から建設は起工されました。施工は清水建設が請け負いました。(竣工当時のブリヂストンビル)

 総工費4億7000万円。当時としては信じられない高額の建築費用です。豊富な鉄骨が使用されており耐震性も十分でした。順調に工事は進み、同年12月にブリヂストンビルは9階建ビルとして竣工します。当時の最高層建築物で斬新な外観と内装を備えていました。昭和27年1月の落成に際して名画コレクションに情熱をかたむけてきた正二郎は「美術は秘蔵すべきでなく一般公衆に公開すべき」との理念に基づき、本社2階に「ブリヂストン美術館」を開設しました。

ブリヂストン東京工場(小平市)は、昭和35(1960)年、モータリゼーション進展に伴い急増する首都圏の需要に対応するため久留米工場に次ぐ国内2番目のタイヤ工場として誕生しました。現在も東日本の中心的な生産拠点となっています。土地は昭和32年に元陸軍補給廠跡を購入したものです。採光と換気のために天井を高くし、武蔵野の季節風による防塵のため全館にアルミサッシを用いています。煤煙・騒音・汚水などが生じないように周到に計画された最先端工場です。「環境保護」という言葉の無かった時代にこれらを具体化していた正二郎の先見性には改めて驚かされます。東京工場の生産開始にあたって久留米の従業員800人を転勤させたそうです。正二郎は「堅実勤勉な社風を吹き込み最初より順調な生産を上げることが出来た」と評価しています。久留米のブリヂストン従業員は優秀で純朴な人が多かったのでしょう。(開設当時の東京工場全景)
工場内には「BRIDGESTONE TODAY」と命名されたゴムとタイヤの博物館が設置されており訪問者を歓迎してくれます。建物は「免震ゴム」で支えられており、地下の訪問者ルームから耐震構造を見学することが出来るようになっています。
 正二郎は東京工場の社員厚生施設として5階建アパートを1000戸分・青年会館を500室幹部社宅を若干建設すると共に、近隣に厚生会館・病院・児童会館・野球場・テニスコート・体育館・水泳プールなどの充実した福利施設を整えてゆきました(当時これらに広大な土地と費用をかける企業は何処にもありませんでした)。正二郎がかように福利厚生施設に力を入れたのは昭和22年の大規模ストライキに接し従業員の福利向上が会社の生産性を高めるために不可欠と感じたこと・昭和28年の筑後川大水害により木造社宅が壊滅したことなどの負の経験が生かされているようです。後年、この工場をソビエト連邦(当時)の使節団が見学した際、福利厚生施設のあまりの立派さに目を見張り「ミスターイシバシは社会主義者か?もしこれがソ連だったら勲章ものだ」と賛嘆したと言われています(小島前褐書)。

正二郎は地元教育機関に対する多大な寄付を行っています。昭和34年に津田塾大学の校庭に造園して寄付するとともに、昭和35年には小学校建築のため工場の南隣接地に5000坪の土地と建物を建築寄贈しています。これが現在の小平第六小学校です。地元への多大な利益還元が(久留米と同様の)株式会社ブリヂストンと石橋正二郎に対する地域住民の深い尊敬を産み出しているのです。

府中市の「鳩林荘」には隣接して「石橋正二郎資料館」が開設されています。

 
久留米時代以来の正二郎と株式会社ブリヂストンの足跡が豊富な資料により紹介展示されています(残念ながら非公開です)。正二郎が愛用していた「プリンス」グロリアがガレージに今も停まっています。

*2016年11月19日、久留米市の石橋文化センター内に「石橋正二郎記念館」が開設しました。これは石橋美術館が(石橋財団の撤退により)「久留米市美術館」となったことを契機に、石橋美術館別館として石橋幹一郎氏(正二郎の長男)から寄贈された建物に設けられたものです。

*2019年6月14日、旧ブリヂストン本社ビルは取り壊され超高層の新しい本社ビルが建築されました。美術館の名称も変わりました(アーティゾン美術館)。

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