5者のコラム 「5者」Vol.21

弁論における論理性と情熱性

「440Hyper-Blog」に滝井繁男・元最高裁判事の発言があります。

最高裁判所の法廷には他の法廷とは異なる独特の雰囲気があって、限られた時間内にどのような弁論をするのが有効適切なのかは、当事者にとって悩ましく思うことが多い。(略)予め提出された書面の要約という弁論も少なくはないが、提出された書類は既に十分読んでいるのであるから、その要約は補足して陳述を求める趣旨には合わないのではなかろうか。やはり強調したいと思うことを提出済みの書面と別の切り口で論じられるものは心に残るものである。弁論の生命はその論理性にある。しかし、それは説得のためのものであり論理性だけで十分というものではない。論者の情熱とか説得する者としてわきまえるべき誠実さといった理論には現れないものに説得力を感じることがある。

私も1度最高裁弁論をしたことがあります。確かに最高裁の法廷には他の法廷と異なる独特の雰囲気があります。事前に書記官から口頭で実際に弁論するか否か意思を聞かれます。私は「やります」と答え、指定された時間いっぱいに口頭で当方の主張を述べました。
 準備書面は論理的でなければなりませんが、裁判官を説得するための手段ですから、論理性だけで十分ではありません。私は役者6において「主張は論理に訴えればよいだけです」と述べていますが、間違っています(マンガを題材としたため表現が漫画チックに単純過ぎました)。「主張」にも情感は必要ですし「証拠」にも論理性が必要です。民事訴訟法の改正で形式的な弁論は少なくなり弁論準備の比重が高くなりました。弁論準備では裁判官と当事者が同じ平面で実質的な議論を行います。多くの裁判官は弁論準備の中で心証を形成しており、尋問は既に形成した心証の確認に過ぎないと見る方が多いようです。裁判官は感情的な議論が嫌いです。弁論準備で弁護士が情熱や誠実さをプラス価値のものとして示すことはかなり難しい技です。更なる経験と工夫が必要なのでしょうね。