5者のコラム 「役者」Vol.19

ストーカーへの対処

道成寺(どうじょうじ)は大宝元(701)年の創建になる紀州(和歌山)の古寺です。この寺を舞台とする安珍と清姫の物語は能・歌舞伎・映画等多くの芸術作品のモチーフになりました。

醍醐天皇の世、奥州白河の美僧である安珍は、熊野権現に参詣する途中、ある人の家に泊めてもらい休んでいた。その家の娘である清姫が安珍の美形に一目惚れし、安珍が休む枕元に忍び込んで契りを交わそうとする。しかし安珍は「自分は修行中の身であるから」とこれを拒む。清姫の落胆ぶりに安珍は「参詣を終えたら必ず立ち寄るから」と約束し、清姫はこれを信じる。しかし約束の日を過ぎても安珍は来ない。清姫が数名の旅人に尋ねると「その男の人なら既に遠くに行っている」とのこと。騙されたと思った清姫は血相を変えて安珍を追う。恋心はいつのまにか憎しみに変わる。その憎しみは凄まじく、清姫の身体を大蛇に変えてしまう。追われる安珍は道成寺に逃げ込み、寺の僧らに匿ってくれるよう頼む。僧らは一計を巡らし、修復のため降ろしていた鐘の中に隠れることを提案し、安珍はこれに従う。ここに大蛇と化した清姫がやってきて安珍を捜す。寺の中を探し回った結果、大蛇は安珍が鐘の中に入っていることを察知して鐘をとぐろ巻きにする。大蛇は高熱を発して燃え上がり鐘の中の安珍を焼き殺してしまう(小野成寛「道成寺絵とき本」)。

清姫は安珍の嘘により「裏切られた」と思い愛情を憎しみに転化させ安珍を殺します。安珍の嘘は殺されるに値する嘘ではないはずなのです。しかしながら日本人はこれまで清姫に感情移入してこの物語を消費してきました。この物語が日本人の心の琴線に触れたのは何故か?それが現実にはあり得ない話だからでしょう。この物語は現代日本社会ではウケないと感じます。現代人はストーカー清姫に感情移入できない。大蛇に対し僧は何をすべきだったのか?鐘に入れと勧めた僧の判断は間違っていたのか?武器をとって戦うべきだったのでしょうか?

易者

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