法律コラム Vol.56

不確実な科学的状況での法的意思決定

科学は確実な知見を社会に与えているように見えますが科学者達はそうは思っていません。科学は(法曹が法律実務について考えているのと同様)不確実なものです。特に昨年の原発事故以後は「不確実な科学と法的意思決定の関係性」を解明することが緊急の課題となっています。中村多美子先生(大分県弁護士会)は電磁波による健康被害を訴える携帯基地工事差止請求訴訟の弁護団に参加され、その経験を元に学位申請論文「不確実な科学的状況での法的意思決定」を取り纏められました。この論文により、先生は法学博士号(京都大学)を取得されています。私は縁あって先生からこの論文を贈呈いただくことができました。私は社会学部を出ただけの田舎弁護士であり法学博士論文を正当に評価しうる資格も能力もありませんが、せっかくの御縁なのでコメントを寄せました。

第1 コメントのための枠組みの提示
 1 枠組みモデル
    頭の中に、4枚の正三角形で構成される正4面体をイメージしていただきたい。それを机の上に置いていただきたい。1面が机の表面に接し、3点から斜め上方にラインが伸びて1点で集結する。机の表面に接している3点は以下の名前が付いている。「科学」「法律」「世間」。この3点をオブジェクトレベルと称する。オブジェクトレベルの3点は強い緊張関係にある。これに対し空中で交わる1点に名前はない。それは机から浮いている。これをメタレベルと称する。
  (1) オブジェクトレベル
     対象を言語化(2次的現実化)するために各空間毎に異なるルールが存在する。そこで妥当している方法論や価値基準は異なっている。
   ① 科学
    科学はデータ収集と仮説定立・実験による検証などの方法論を基礎としている。定立される仮説は反証可能性がなければならない。データは公開され、実験は誰がやっても同じ結果が得られるものでなければならない(実験結果の反復再現性は科学の重要な要素である)。仮説が科学者集団によって支持されると「理論」として表明されることになるが、それらは暫定的性格を有している。データ収集手法の進化や統計的処理方法の厳密化により過去の理論が否定されることもある。対象となる事実は自然的なものである。(本稿において人文科学は対象から外す)。自然科学は将来をどう予測するかに価値を置いている。求められる価値は<真実性>である。
   ② 法律
    法律は要件・効果という命題に過去の事実を当てはめて結論を得る規範的思考を特徴とする。対象となる事実は社会的な出来事である。それは人の集まりから構成される集団が産み出す事実であるから立場により見え方が異なる。法律において吟味される事実は誰がやるかによって認識のされ方が異なる。頻繁に判らない状態が出現する。判らない状態で判断することの難儀を和らげるために主張立証責任が設けられている。得られた結論はいったん確定すると原則として動かし得ない。法律は過去をどう評価するかに価値を置いている。求められる価値は<正義性>である。
   ③ 世間
    世間は現在のこと・自分のことに興味を示す。「いま・ここ」の事態に対する感覚的な対応が目立つ。それは目の前の状況に対する即席的対応を求められる実践知の特性である。世間は科学や法律に対して圧倒的に多数派である。認識と対象が一致するか否かに関する批判的吟味は少ない。人間の認識能力に対する過剰な自信と不安定な状況に対する過度な恐怖が繰り返し現れる。しばしば呪術的色彩に染められる。世間の司祭はマスコミである。それは人々の感情を煽って不安を増大させ利便性を増大する欲望で満ちている。世間で求められる価値は<美学性>である。
  (2) メタレベル
    メタレベルは対象と直接に接していない。それは「対象について語られた言葉」(2次的現実)ではなく「『対象について語られた言葉』について語られた言葉」(3次的現実)である。メタレベルにおいて「科学」「法律」「世間」から賢者が集まってフォーラムを形成している。このフォーラムでは各々から持ち寄られた材料が自由に吟味される。この一部の賢者は自分の出自となっている分野の行動様式を維持しつつ、他分野の行動特性・ルール・価値について高い見識をもつ。求められる価値は<自由と敬意>である。メタレベルは理念型であり実体を持たない。それは思考枠組みとして存在する「理想的対話状況」(@ハーバーマス)のためのフォーラムである。これを実体化してはならない。「科学」「法律」「世間」から集まる賢者は一時的に集まってフォーラムを形成するが直ぐに自分の職場に帰って行く。この往復運動の極としてメタレベルフォーラムは意義を有する。この往復運動を無くしたら、この思考枠組自体が権力性(上から目線)を帯びることになる。
 2 オブジェクトレベルにおける法律と科学と世間の位置づけ
   法律から科学に対して強い憧れが表明されたことがある(経験法学研究会・川島・平野・碧海)。それは法律の科学に対する強いコンプレックスを感じさせるとともに、法律の世間に対する優越感を感じさせてもいた(このグループは法律を「社会統制の手段」と認識している)。しかし法律と科学は適用される局面が異なるのであり妥当する価値も異なる。両者は違っていて良い。法律は科学に対し何らコンプレックスを抱く必要はない。他方、法律は世間に対して無条件で優越的地位を認められているものではない。民主主義社会では法律は民意に支えられなければ存立し得ない。むしろ、評者の考えでは法律家を動かしている要因は世間で(実践的場面で)生成している規範であり、それが法律実務を裏から支えている。同様に科学も世間に対して無条件で優越的地位を認められているものではない。現代の科学研究には多大の予算を必要とし、世間に支えられた政府や企業の意思決定を必要とする。逆に言うと、科学は利便性を訴える世間の道具として用いられることも少なくない。「科学者の社会的責任」が問題とされる所以である。ただ世間は圧倒的に多数派である。認識と対象の一致に関する批判的吟味が無い。不安定な状況に対する過度なる恐怖感が繰り返し現れ、しばしば呪術的色彩に染められる。世間は(科学が志向する)真実性と(法律が志向する)正義性を圧殺する契機を有する。法律と科学には「世間の暴走」への歯止めたる意義も認められる。
第2 コメント
 1 本論文の意義
 (1) 事例的意義
   イ 電磁波被害を対象とする法的手続の特殊性
     電磁波は現代社会に不可欠である(太陽光も電磁波の1種だから太古の昔から生物には電磁波が不可欠だと言い得る)。電磁波なしで現代社会は成り立たない(ちなみに評者は中学2年生の時に熊本の電波監理局で国家試験を受けアマチュア無線技師の資格を取った)。しかし電磁波のもたらす健康被害は目に見えないモノであり、これを危惧する住民にとっては極めて恐ろしい存在として写ることがある。これらの極端な属性の故に電磁波による健康被害のおそれを訴える住民の差し止め請求が同時多発的に複数の裁判所に係属した。著者はこれに参加し代理人として貴重な経験をされた。今後、こういった形の差止請求訴訟は起こらないかもしれない。が、そうであるがゆえに本論文の資料的価値は高い。特に今後増加するであろう原子力発電所を巡る訴訟において本論文で提示されている理論的問題点が先鋭化して展開されるであろうことが予想される。
   ロ 電磁波訴訟を担当する弁護士集団の特殊性
     評者はこういった集団訴訟に参加したことがないが、この種の訴訟を生き甲斐にする多数の弁護士を身近に知っている(例えば馬奈木弁護士など)。これらの弁護士集団には強い相互交流があり、それら横の繋がりが政治的色彩の強い訴訟(水俣病・蘇れ有明海訴訟など)を支えている。これらの訴訟における原告集団は大衆性を基調としており、世間の属性を帯びる可能性が高いことは否定し得ない。同様に被告側も企業や行政であり多数派や権力者の意向を受けた世間の属性を帯びる可能性が高い。両者の短絡的な感情的反応を乗り越えて、法律と科学が志向する正義性・真実性を実現していくためには、これを担当する弁護士集団に(単に依頼者に迎合するだけではない)クールで高度な見識が必要とされるものと思われる。
   ハ 電磁波訴訟を審理する裁判所の対応
     我が国の裁判所には「裁判官独立の原則」があるものと思われており個々の裁判官が当事者から提出された訴訟資料だけを読み込んで判決が形成されているかのように思われている向きもある。しかし実務の現場からみればそのようなことはない。本論文は人事異動とのからみで裁判所がこういった新しい問題を「組織として」いかに解決していこうとするかに関する実際的記録である。特にT裁判官の異動に関する知見は(評者が修習生の時にT裁判官に指導担当者として世話になったばかりか県弁副会長の時に同裁判官が久留米支部長になられたという偶然もあって)極めて興味深いものであった。生物に異物が侵入すると生物は白血球を集合させてその異物を死滅させようとするが、その動きに似た裁判所の「電磁波シフト」には興味をそそられる。また「未公刊の多数の判決群が公刊された最終期の判決を導き出した」との指摘には大いに納得させられた。
 (2) 理論的意義
   イ 言語論的貢献
     本論文は「法的不確実性と科学的不確実性」という概念を提示し読者を引き付ける。これによって「科学」と「法律」の比喩関係を解き明かす言語論的前提を形成している。かつて法律家集団のなかには科学に対する強いコンプレックスがあった。数学を用いて対象を明確に描写できる自然科学の方法論は法律家の憧れの対象であった。法律家は「科学に似たもの」として自らの確実性を高めようと努力していた。しかし両者はそもそも適用される局面が異なるのであり妥当する価値も異なる。両者を全く「似ていないもの」と認識するのが普通の考え方であろう。しかし筆者は法律と科学は逆方向で「似ている」と言う。世間から見れば確実なもののように感じられる法律も科学も、内部から観察すると特有の<不確実性>を内包しているというのである。本論文の言語論的貢献は「科学のように確実なものでありたい」という従来の法律家の比喩的前提を逆転させて「法律は、科学と同じように不確実なものだ」という逆方向の比喩を成立させたことにある。
   ロ 「科学」と「法律」の緊張関係描写の斬新さ
     訴訟における<善玉と悪玉>や<御用学者と運動家>という2元論的把握の描写は卓越している。評者がこの手の訴訟に消極的なのは、この類の訴訟が「政治」の道具になりはて、知性を活躍させるクールなものでなくなる危惧感が強いからであった。筆者は科学的な方法論を身につけた者として訴訟が世間受けする呪術的色彩に染められることについて危惧感を有している。そして法廷においてかような非理性的なやりとりが繰り広げられることに危惧感を有しているのである。かかる危惧感は冷静な議論を期待する科学者や法律家に広く共有されていくものと思われる。
   ハ 法律と科学の協同に向けての展望の明るさ
     専門家は自分の領域に内在する不確実性は知っているが、それが相手側の領域にも存在することを認識していない。つまり専門家は自分の専門域内では「専門家」であるが、その他の領域では「世間人」である。法律と科学の協同が進んでいなかった背景には専門家の互いに対する幻想があった。かかる幻想を認識して互いの不確実性についての共通感覚を広げてゆけば法律と科学の協同が進む可能性が開けてくる。本論文は法律と科学の協同に向けての明るい展望を感じさせる。
 2 本論文後の課題
 (1) 理論的課題
   イ 「世間」との関係を理論化すること
     本論文は「科学」と「法律」の緊張関係を精緻に描写しているが、かかる緊張関係が何故に生じるのかへの一歩踏み込んだ言及が少ない。法律を運用する法曹は常に世間を意識している。原告代理人・被告代理人は当然のこと、裁判官も世間を強烈に意識している。「世間」がなければ法律家達はもう少し静かな議論を形成できるはずだ。しかし実際の訴訟は(理想的対話がなされるような)静かなフォーラムではない。訴訟ではどうしても2元論的叙述にならざるを得ない。「世間」との関係を考察すること無しに「科学」と「法律」の関係を理論的に深めていくことは出来ないのではないかと評者は考えている(ただ世間を意識し過ぎた叙述は科学と法律のクリアな関係性を曖昧にする可能性もある。この辺りが理論的に難しいところ)。
   ロ 「惧れ」という要件事実を吟味すること
     法律論は基本的に過去に向いた制度である。過去の事実に規範を当てはめて現在の権利義務を認識するのが実務の基本だ。しかし差止請求においては将来の「惧れ」(客観的蓋然性)が要件事実になる。将来予測には世間の「恐れ・畏れ」(主観的恐怖感)という要素が随伴し易い。科学は統計的手法を用いることで将来予測に数学的根拠を与えているが、それでも将来予測から不合理な要素を排除することは難しい。今後は地震予知や原子力の安全性の議論の中で将来の「惧れ」が要件事実となる訴訟が増加することが予想される。これを科学的・法律的にどう考えてゆくべきか緊急の課題となろう。(これは1人の実務家に出来ることではない。かかる訴訟に携わる科学者・法律家集団が全体として取り組むべき課題であろう)。
  (2) 実践的課題  (略)
第3 結語
 1 この論文は「倫理の書」である。本論文は法律と科学の接点に位置する関係者が身につけるべき所作を提示している。これまで学問的に検討されてこなかった視点を提示した本論文の功績は大きい。本論文は「科学と法律」の相互関係を考える際に参照されるべき基本文献となるだろう。
 2 本論文が提示する論点は広く、かつ深い。本論文の課題は多いが、そのことは本論文の問題点なのではなく、著者が志向するものの巨大さを物語っているように思われる。著者が今後この方向で(理論的にも実践的にも)ますます活躍され課題を克服して行かれることを祈念する。

* 科学の方法論に関心がある方は野家啓一「科学哲学への招待」(ちくま学芸文庫)がお勧めです。古代から現代に至る科学哲学の変化が判りやすく解説されています。近時、シーラ・ジャサノフ「法廷に立つ科学」(勁草書房)も刊行されました。

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